10話:春のパン争奪戦
校舎の外は、新たな門出を祝福するかのように春爛漫としていた。満開の桜が風に舞い、青空を鮮やかに彩っている。
だがこの時、良殻はまだ知る由もなかった。
晴れやかな春の光の中で、人生初の、そして決定的な「敗北」を味わうことになろうとは。
昼休みのチャイム。それは彼にとって……いや全校生徒にとって、ナイルの氾濫のごとき喧騒の合図だった。
砂嵐に紛れ財宝を掠め取ってきた稀代の悪党は、鋭い眼光をギラつかせ、標的の「限定カツサンド」が待つワゴンへ突き進む。
「どけ……っ、貴様ら……!」
かつて王墓の守衛ですら震え上がらせたその殺気──
「何よ!」
「アンタがどきなさいよ!」
だが、現代の女子中学生にとって、それはただの「邪魔な不良」でしかない。
「キャー! 最後の一つ!」
叫ぶ女子軍団が、まるでファラオの護衛兵のように行く手を阻む。
無情にも響く「完売でーす!」の声。
嵐が去り、柔軟剤の残り香だけが漂う昇降口で、良殻はただ膝を折った。
(……く、屈辱だ……)
指の間で、くしゃくしゃになった北里柴三郎が虚しく震えている。
かつては闇に紛れ、富豪の寝所を襲い、金銀財宝を奪い去ったこの俺が。
数多の死線を潜り抜け、「奪う側」の頂点に立っていたこの俺が──
「列に並ぶことすら叶わず、奪う側から『買わせてもらうことすらできない側』に堕ちるとは……!」
絞り出した魂の絶叫。良殻は、今世初めての敗北に打ち震えていた。
それをワゴン車の陰で片付けをしていたパン屋のオジサンが、えも言われぬ表情で見つめる。
彫りの深い異国情緒漂う少年の、あまりに悲痛な姿を見かねたのだろう。
自身のエコバッグから一つ、ビニールに包まれた塊を取り出す。そして絶望の淵に沈む彼の目の前へ、慈悲をかけるようにス……と差し出した。
「これ、形が崩れちゃってるから、僕の昼食用に取っておいたやつなんだ。……良かったら、食べるかい?」
「……ぐっ、施しなんざ……」
と言うものの、目線は明太バターがジュワジュワと湧き出しているハードパンに釘付けである。
良殻はしばらく考えたのち、握りしめていた千円札を無造作にポケットに突っ込む。そして、不承不承といった体で、黄金色の「施し」をその手に収めた。
「……これは先行投資として受け取っておく。エジプト商人の息子をパン一個で懐柔したんだ、安いもんだろう? 必ず、相応の対価を支払ってやる」
中学生らしからぬ傲岸不遜な態度だが、オジサンはムッとするどころか、「エジプトの血が混ざってるんだ!?」と、まるで未知の冒険譚を聞かされた少年のように目を輝かせた。
その反応を鼻で一笑し、袋の口を開くと、そこから立ち昇る尋常ならざる気配に良殻は眉をひそめる。
「……おいおい、これは凶器か? 焼けた小麦の香ばしい匂いの中に、強烈な磯の香りとガーリック……」
込み上げる唾液を抑え込み、ガブリと勢いよくかぶりついた。
歯を押し返してくるような、力強い外皮を強引に引きちぎる。
中から溢れ出してきたのは、粒立ちのいい明太子をこれでもかと溶かし込んだ、バターだ。パンの白い身に、オレンジ色の毒がじゅわっと染み込んでいる。
「うまい……ッ。こんな『中毒性のある資産』を渡されるとはな。全粒粉パンの滋味深さも格別だが、これは脳の報酬系を直接買収しにきやがる……!」
「気に入ってもらえたみたいで嬉しいよ」
元気な食レポに柔和な笑みを浮かべ、オジサンは帰り支度を始める。
しかし咀嚼を終えた良殻の瞳からは、先ほどまでの恍惚感は消えていた。
「……オッサン。この市場、需要に対して供給が少なすぎるんじゃねぇか? それに、値段の設定も安すぎる」
空の袋を握りしめて詰め寄る少年の気迫に、オジサンは後ずさりながら穏やかに答えた。
「今じゃ店も畳んで、小さな工房で一人でやってるからね。老後の楽しみってやつさ。儲けなんて考えていないよ」
目の前の男は、あまりにも無欲で、あまりにも無知だった。
この「中毒性のある資産」を自分の庭へ囲い込み、その利益を余さず掌中に収めてやる。
そう狙いを定めた刹那、思考を遮るように、場違いに硬い靴音が響いた。
「ミドリ・ベーカリーさん。少しよろしいでしょうか」
オジサンは反射的にベレー帽を脱ぐと、慌てて頭を下げる。
「これは教頭先生! お世話になってます」
眼鏡の奥、女教頭の瞳は一切笑っていない。手にしたバインダーを鎧のように抱え、冷ややかな視線を突き刺す。
「先日少しお話しましたが……来学期以降の校内立ち入り許可については、更新を見合わせる方向で検討に入りました」
オジサンの笑顔が貼り付いたように固まる。
教頭は手元のバインダーの端を、神経質そうな指先で叩いた。
「パンひとつのために生徒が暴徒化するなど、あってはならないこと。問題が大きくなれば、教育委員会への報告も免れませんので。……では失礼」
言いたいことだけを淡々と告げると、教頭は一度も振り返ることなく、定規で引いたような足取りで校舎へと消えていった。
「……冗談だろ? この美味しさ《期待利益》、三年間の空腹を全額ベットする価値は十分にあるのによ……」
良殻の言葉にオジサンは力なく笑う。
教頭が去った校舎を眩しそうに見つめ、自分を納得させるように深く息を吐き出した。
「……僕のパンのせいで誰かが怪我をしたり、学校が困ったりするのは本意じゃないんだ。……潮時だったんだよ、きっと」
目の前の男が発する、あまりに低刺激で、あまりに退屈な「諦め」の言葉。
良殻はその湿っぽい響きを苛立たしげに一蹴した。
「おい、オッサン。老後の生活ってのは、金・健康・趣味のバランスで成り立つポートフォリオだろ」
イケメンの部類に入るであろう少年の顔は、どこか人を食ったような傲慢さに満ちている。
「アンタにとって最大の利回りを叩き出す『学校販売』を外してみな。その瞬間、日常の時価総額は暴落、待ってるのは退屈という名の負債地獄だ。服従の先に、この損失をカバーできるほどの価値があるのか?」
ポートフォリオ、時価総額──中学生が吐き出す単語の違和感に、オジサンは目を白黒させるしかなかった。
しかし良殻は構わず畳みかける。
「アンタは俺に投資したんだ。それなのにリターンも受け取らずに店を畳む? そいつは俺に食い逃げを出せって言ってるのと同じだろうが。パン一個の貸しを作ったまま終わるなんて、エジプト商人の息子としての信用に関わる。アンタがリターンを求めてなかろうが関係ない。俺が『対価』を支払うまで、アンタに損切りする権利はねえんだよ!」
放たれる得体の知れない覇気にオジサンは、「は……はひっ!」と情けない声を上げた。
「すみません、よく分からないけど……あの……っ」
混乱の極致に達した視線が、必死に助けを求めるように泳ぎ、学ランの胸元で揺れる名札で止まった。
そこに刻まれた文字を、救いの神か、あるいは呪いの主の名前であるかのように、縋る思いで読み上げる。
「よろしくお願いいたします、四野様……!」
「クク、それでいい。……いいか、アンタは今日から俺の専属サプライヤーだ。学校というマーケットを相手に、俺がどう立ち回るか、特等席で見てな」
商談成立と同時に、投資家を納品業者呼ばわり。わずか数秒の間に行われた、あまりにも乱暴な身分変更、非情な実業スタイルである。
困惑するオジサンを背に、良殻の思考はすでに次の局面へと走り出していた。
脳裏では、学校という市場を呑み込む青写真が、鮮やかな輪郭を結びはじめている。




