7話:覚醒
窓の無い、静止した空気が部屋を支配する。
日光から守られた宝たちは、整然と所定の位置に収まっているように見えた。
ただひとつ、消えた赤黒い至宝を除いては。
真鍮製のアストロラーベから金塗装の剥げかかった方解石の壺へ。良殻は、父のコレクションをなぞるように追いかけていく。
それらを吟味する少年の瞳に、もはや父親の前で見せていた無邪気な光はない。
滑るように移動を続ける視線が、机の上でピクリと跳ねた。
鎮座しているのは、深い青を湛えたラピスラズリの文鎮。そして、その隣で冷たい光を放つ鍛造鋼の天秤。
「…………」
良殻は喉の奥に苦いものを感じ、顔を歪めた。視界に入ったその秤が、なぜだか無性に忌々しい。
それを追いやるように顔を上げ、机の背後にそびえる巨大な本棚へ向き直った。
そこには、モハメド・アルファイドやナギーブ・サウィーリスなど、エジプトの傑物たちの著書がズラリと並べられている。
居並ぶ背表紙の列は、さながら神殿を支える柱のようだ。
良殻はその中の一冊をおもむろに抜き取り、ページを繰った。
父から教わったアラビア語の知識を総動員して文字列を追うが、彼らが綴る難解な語彙は、十二歳の語学力では到底太刀打ちできない。
良殻は早々に本を戻すと、自分でも読めそうな本は無いかと、再び棚へと指を這わせた。
◆
アンワル・マフムード・マンスール・アン=ナッハースは完膚なきまでに打ちひしがれていた。
朝のパリッとしたビジネスマンの姿は、見る影もない。ネクタイは緩み、幽霊のような足取りで玄関のドアを開ける。
出迎えたのは、しんと静まり返った家の中だった。
「ッ、良殻……? いるのカイ!?」
妻に続いて、息子までもが自分を捨てて消えてしまったのではないか。
最悪の想像に、廊下を駆け抜けリビングの扉を荒々しく開け放った。だが、そこに人影はない。
トイレ、バスルームとのぞき込み、荒い呼吸で二階へ駆け上がっていく。
息子の自室にも、妻の部屋にも、その姿はない。
最後の望みをかけ、アンワルは施錠を忘れていた自身の書斎へ飛び込んだ。
ランプの灯だけが小さく揺れている、薄暗い室内。
慣れ親しんだはずの聖域は、今や得体の知れない侵入者に塗り替えられたかのような、異様な空気に満ちていた。
「──今日の成果は、どうだった?」
十二歳とは思えない、ふてぶてしい態度と声音。
巨大な本棚を背に、椅子に深く腰掛けた息子は、じっとこちらを見据えていた。
アンワルは名前を呼ぶことさえ忘れ、ただ立ち尽くす。
「あ……ぁ、」
喉を鳴らすのが精一杯の彼を嘲笑うかのように、良殻は楽しげに口元を歪めた。
「質問に答えな。商談は、まとまったのか?」
商談。その単語が鼓膜を叩いた瞬間、アンワルの瞳にパッと商人の色が戻る。
「……ダメだった。一歩も引いてもらえなかったヨ」
「ふーん。ま、ビジネスじゃよくある話なんだろ?」
慰めの色など微塵も無い。頭を抱え、アンワルは血走った眼を息子へと投げた。
「アピスの心臓が無くなったせいダ! 商談中、急に自分の心臓が無いように感じたヨ。夜の砂漠に放り出されたみたいデ……喉が、乾ききっテ……バイヤーが『こいつ、何を怯えているんだ?』と、私を憐れむように──」
「情けねぇな。いい加減にしろ」
父の繰り言を遮り、良殻は椅子を蹴り倒さんばかりの勢いで立ち上がった。
「ガーネットなんてのは、カーネリアンを買えない連中の代用品だ。墓場を掘り起こせば、腐るほど出てくる安石なんだよ」
石の市場価値など、もちろんアンワルは熟知している。
だが良殻の言葉は、まるで自らの手で砂を掻き分け、棺をこじ開けてきた者だけが持つような、嫌に生々しい響きを帯びていた。
アンワルの背に、じわりと冷たい汗が滲む。
「お前頭にある商売のやり方までは、盗まれてねぇはずだ。……まずはそれを、俺に渡してもらおうか」
見上げてくる息子に対し、アンワルは、自分より遥かに深い業を抱えた者と対峙しているような圧迫感を覚えた。
「あんな石ころより──もっと価値のある物を世界から奪ってやる」
吐き捨てるような呟き。そこに宿るのは、砂漠の熱と古の呪いが混じり合ったような、乾いた響きだった。
「……ま、何はともあれ腹ごしらえだ。飯、食いに行こうぜ」
圧はそのままに、息子はスタスタと扉へ向かっていく。その背に、アンワルは困惑しながら言葉をかけた。
「良殻、フンイキ……ちょっと変わったネ」
ちょっとどころではない。
良殻は肩越しに顎で机をしゃくってみせた。
「それ読んで、前世を思い出した」
「ぜっ、『ゼンセ』!?」
無造作に置かれているのは、「アラビアンナイト」と並んでいたはずの、あの一冊。
髪を逆立てた荒くれ者たちが織りなす、略奪と愛憎渦巻く物語──アンワルが日本の古本屋で買い求めた、古い少年漫画だった。
「まだ、全部は思い出せねぇけどな」
「オー……」
良殻が出ていき、一人残された部屋でアンワルは天を仰ぐ。
「これが……ジャパニーズ・チュウニビョウ」
わが子の深刻な「目覚め」を前に、失った至宝のことなど、もはや頭から消え失せていた。
アンワルはただ、正体不明の眩暈に襲われるばかりだった。




