6話:誤字スタートの今世
潮風に混じって、異国の香り漂う港町。
石畳の坂道に、色褪せた煉瓦造りの倉庫群。その街には、日本のどこにも属さない熱気が染み付いている。
「今日からキミは、『四野良柄』だヨ!」
アンワルは太古の秘宝でも手に入れたかのような顔で、一枚の紙を掲げてみせた。
きょとんと目を瞬かせる赤子と、出生記念証をじっくり見やる雨美。
彼女の額に、一本の青い筋が鮮やかに浮かび上がった。
「こ……れっ、良柄じゃなくて良殻じゃねーか!」
「エッ?」
良い人柄と書いて、「ラガラ」。
善い人間であれという願いと、故郷の空に君臨する太陽──「ラー」の響き……の、はずだった。
「漢字だよ! 『柄』じゃなくて『殻』になってんだよ!」
アンティークの真贋を見抜くその慧眼は、一体どこへ消えたのか。
なぜ、わざわざ画数の多い、しかも『抜け殻』を連想させる不吉な字と間違えるのか。
肩を怒らせ激昂する妻に対し、アンワルはわずかな困惑を見せたものの、すぐに不敵な笑みを湛えた。
芝居がかった仕草で、指を一本立てる。
「ミステイクじゃない、これはラーが導いたDestinyさ。彼は古い殻を破り捨て、ネクスト・ステージへ羽ばたくオトコになる! ハッハッハ!」
書き間違えという致命的な失態を、神まで持ち出して「聖なるお告げ」へと昇華させる、その手腕。
罵倒の言葉も忘れ、雨美は呆気にとられる。アンワルはますます調子に乗る。
「日本のことわざにもあるだろウ? ワザワイ・テンジテ・フクト・ナスだヨ! バーとカァが合わさって、彼は真の――」
「ンギャアアアアアアーーーーッ!!!」
父の熱弁を叩き割るように、良殻が突如火がついたような泣き声を上げた。
鼓膜を震わせるその爆音は、まさに生命力の塊である。
「おぉ、すごいネ!」
「チッ……うるさいな……」
三千年前と同じ響きを宿した彼は、ひとしきり泣きわめくと満足げに微睡みの中へ落ちていった。
これから始まるであろう波乱の人生を、今はまだ、夢にも見ないまま。
◆
赤子は、親の願いを裏切ることなく、「良い人柄」の少年へと育っていた。
素直で心優しい自慢の息子と、口の悪さに年々磨きがかってきた、愛しい妻。そして、景気の波を軽やかに乗りこなすアンティーク商売。
アンワルの人生は、まさにナイルの恵みのごとき順風満帆を極めていた。
そんな幸福の絶頂にいた、ある朝のこと。
「YAAAAAA LAHWYYYYYY!!」
早朝にこだまする無遠慮な悲鳴が、四野邸を根底から揺さぶった。
愛する蒐集品たちへの挨拶は、欠かせない日課だ。
だが今の彼は、古の呪いでも受けたかのように、その場へ腰を抜かしている。
「アピスの心臓」が──無い。
手にする者は豊穣を、強欲な者は破滅を。そんな物騒な伝説が囁かれる代物だが、アンワルにとっては文字通り「心臓」も同然の至宝だった。
「父さん……? どうしたの、そんな大きな声出して」
ガタガタと震える父のもとに、パジャマ姿の良殻が眠そうに駆けつける。
「ラっ、良殻……! け、怪我はナイ!? どこも、何ともないネ!?」
血走った目で、愛する我が子の肩を強く掴む。
「……うるさい。何ともないけど、一体何があったの」
「良かった……! 雨美サン、雨美サンは無事カ!?」
父の悲鳴に近い叫びに、良殻は冷めた紅茶のような温度感で応じる。
「……母さんなら、どこにもいないけど」
その一言は、至宝の消失を上回る衝撃となって、アンワルを貫いた。弾かれたように、雨美の自室へと駆け込む。
飛び込んだ視界、乱れたままのシーツに、ガランとした化粧台。
一瞬呆然としたものの、縋るような思いでクローゼットの扉を荒々しく開け放つ。だが、そこは無情なほどに空っぽだった。
せがまれるまま買い与えたワニ革のバッグも、艶やかな衣類も、その一切が消え失せている。
「雨美……」
掠れた声が、主を失った部屋に落ちる。
立ち尽くす父の背に、良殻が音もなく歩み寄った。
その足取りはどこか軽やかで、呆然とする父の反応を値踏みするように、楽し気な目で見つめている。
「……別に、いてもいなくても一緒でしょ?」
わずか十二歳の息子が放った乾いた一言に、アンワルは息を呑み、目を見開いた。
「化粧は派手だし、香水は鼻につくし。それに──」
肩をすくめてみせるその仕草には、母親に対する執着など微塵も感じられなかった。
「あの人、ハツ《心臓》ばっかり食べてたから」
まるで、嫌いな献立を思い出すかのような気軽さで、良殻はさらに追い打ちをかける。
「父さんって、本当に女性を見る目は無いみたいだね」
その一言が、限界まで張り詰めていた糸をぷつりと切った。
アンワルは自嘲気味にフッと笑い、静かに、そして確かな手つきでクローゼットの扉を閉めた。
「……女心と金の相場、ネ。昨日まで、ボクは不変の愛だと思ってたヨ……!」
「……上手い例えなのかよく分からないけど、父さん。今日は大きな商談があるんじゃなかったの?」
息子の冷静な指摘に、彼は再び「Ya lahwy!」と、自分の頬をパチンと叩いた。
情けなかった顔は、瞬く間に鋭利なエジプト商人のそれへと変貌する。
至宝を失い妻に逃げられてもなお、商談という戦場を前にすれば、沸き立つ血潮は抑えようがない。
良殻は、そんな父の眼光が好きだった。
沈香の香りが漂う、父子二人だけのリビング。
髭と手首に香油を塗るその指先には、魔除けの大きなトルコ石が収まっていた。
「……お父さんの指輪、なんか地味。金の方がカッコイイのに」
父の手元を覗き込みながら、良殻は小さく唇を尖らせる。
「オー、良殻。ゴールドをピカピカさせるのは、自分の価値を金に頼る成金のするコト。シルバーは、『心にブレーキを持ってる男』の証。本物のステイタスを物語るのサ!」
「……心にブレーキって、必要なの?」
小さな呟きが届いたのか、いないのか。父は満足げに息子の頭を撫でると、「行ってくるヨ!」と陽気に家を出て行った。
バタン、とドアが閉まり、軽快な靴音が遠ざかっていく。
静まり返った家の中で、良殻はゆっくりと玄関に背を向けた。
階段を上り、廊下を曲がった突き当たり。
そこは普段、厳重に閉ざされているはずの父の聖域──書斎だ。
だが今日は、朝の騒動がすべてを狂わせたらしい。
堅牢な扉は数センチだけ、誘うように暗い隙間を覗かせている。
わずかに漏れ出すのは、リビングよりもずっと濃い、古い香料の匂い。
良殻は、ためらうことなくその闇へと指先を掛けた。




