5話:女神、悪党、鳥取にて
午後7:32
雲ひとつない星空の下。
一人の天体オタク、瀬部久一は、完璧な『星降る砂漠』の写真を撮ろうと息を呑んでいた。
静寂を支配するのは、微かな波音と風の囁きのみ。
月が昇り、空を白ませるまでのタイムリミットはあとわずか。
──今だ。指先に力を込め、シャッターを切ろうとしたその瞬間、
「見ろ! 感じろ! 古代エジプトの砂漠を思い出せッ!!」
闇の向こう側、男の絶叫にビクリと肩を震わせた。
女性のヒステリック気味な叫びも後に続く。
「暗くて何も見えませんってば!」
二人がいるのはエジプト……ではない。夜の、真っ暗闇の、鳥取砂丘であった。
「ナイル川じゃなくて日本海だし……!」
その海ですら、今は闇夜に溶けて影も形も見えはしない。
「そもそもですね! 昔から夜の砂漠をうろつくのが、どれだけ危険だったと──」
「『夜の砂漠』ッ、それは、三千年前の俺の通り名だ!」
良殻はガッシリと紫愛の両肩を掴み、至近距離でその瞳を覗き込んだ。
「思い出したのか……!?」
掴まれた肩からは、永い想いを閉じ込めたような、狂おしい熱が伝わってくる。
けれど、紫愛はただ困惑に眉を寄せ、吸い込まれそうな夜の闇を見つめ返すことしかできなかった。
「……ナイルの恵みも、燃えるような太陽も、果てしなく続く砂漠も憶えています。でも──」
射抜くような瞳に耐えかね、紫愛は申し訳なさそうに顔をそむける。
「ごめんなさい……あなたのことは、どうしても思い出せないの」
肩を掴んでいた手が離れ、あんなに熱かった体温が夜風にさらわれ呆気なく散っていく。
ドサッ、と乾いた音が足元で響いた。
「あの……良殻、さん……?」
「……ラガラでいい。……昔は、そう呼んでいた」
靴に砂が入るのも構わず、良殻は投げやりに胡坐をかく。
申し訳なさに身を縮めながら、紫愛もその隣へちょこんと腰を下ろす。
ふと見上げた、星取県の空。そこには、「降るような」という言葉でも足りないほど、幾千もの煌めきが広がっていた。
「……アイツは、遠十のクソ野郎のことは憶えてるのか?」
星々をぼんやりと眺めながら、良殻は苦いものを噛み潰すように問いかける。
「……会ったとき、細藺を噛んでたから……それで思い出したの。シュウくんは、前世の記憶は全くないみたいだけれど……」
「あの従弟……わざと忘れたフリをしてるんじゃねぇか?」
小さく笑い返す紫愛の声も、広大な闇に吸い込まれるように消えていった。二人の間に、しんとした沈黙が降り積もる。
(……すごく、寒くなってきた……)
拉致同然に連れてこられた制服姿の紫愛には、夜の砂丘の冷気はあまりにも無慈悲。彼女はたまらず身体を震わせる。
「……寒ぃか?」
ぶっきらぼうな問いとともに、褐色の腕に肩を抱き寄せられる。その熱は、不思議なほどしっくりと馴染む。
不意に、砂丘の稜線から柔らかな月光が溢れ出した。
「あ……」
紫愛は息を呑み、それからそっと、良殻を見上げる。
(……綺麗……)
月明かりを孕んだ銀色の髪。それは果てしなく広がる夜の砂漠そのもの。あの冷たくも美しい銀砂が今、ここで揺れている。
どこか遠くの星を見上げていた良殻が、ゆっくりと視線を落とす。
吐息が触れそうな距離で、二人の瞳はただ見つめ合うことしかできない。
「……そろそろ、戻るか」
ふと見せたその笑顔は、どこか投げやりで、そして、深い諦観を滲ませているようで――
(あの時も、こんな表情を見せてた……)
あの時?
心の呟きに、ハッとする。
「……まだ……戻りたくない……」
何かが、喉の奥まで出かかっている。
「夜の砂漠をなめるな。サソリは這い出てきやがるし、西の地へ向かう死者の列に、生きたまま紛れ込みたいのか?」
「こ、怖いことを言わないでっ。鳥取にサソリなんていないわよっ」
物騒な通り名を持ち、平然と不穏な警告を口にするこの男は、もしかして前世ではとんだ悪党だったのではないか。
そんな疑念が、紫愛の頭をもたげる。
「……それに」
肩を抱く腕に、ぐっと力が込められた。
「一度手放した宝は、二度と見つからないほど深く砂に呑み込まれちまうからな」
執着にも似た切実さを孕んだ視線に見据えられ、紫愛はアメジストの色彩を宿す瞳を瞬かせる。
「ほら、戻るぞ」
腕が、ゆっくりと離れていく。良殻は立ち上がると、気休め程度に服についた砂を払った。
夜風が、残っていた彼の熱をさらってしまう。
「もう……あなたが連れて来たんでしょう」
呆れたように笑い、差し出された手を掴む。その瞬間、波の音が、潮の香りが、記憶の向こうへと消える。
代わりに訪れたのは、神殿の静寂。そこから闇の中へと連れ出された夜が、あったのではなかったか。
月下の砂漠は銀色に凪いでいて……まだ、戻りたくなくて。攫うように連れてきたくせに、手を差し出す男に自分は呆れながら──
甘く、けれど胸が潰れるほどに切ない。一気に溢れ出す、逃れられない理のような記憶。
「シア……?」
自分の手を掴んだまま硬直している紫愛の前に、良殻は膝をつく。顔を覗き込めば、大粒の涙がボロッと零れた。
「……ラガラ……ッ」
頬を伝うその雫は、ただ一度、三千年前に目にしたもの。たった一言、震える声で呼ばれた名に、数千年の渇きと苦しみが砂に染みる水のように消えていく。
「……おいおい、やっとかよ……」
吐息のような掠れた声で呟き、良殻は泣きじゃくる紫愛を力任せに抱き寄せた。
紫愛も彼の背に腕を回し、縋るようにその服をぎゅっと掴む。
「……カルトゥーシュ……ッ、痛い……っ」
涙声で文句を口にするものの、離れる気など微塵もないらしい。
「我慢しておけ。……こっちはお前を探して、散々苦労したんだ」
良殻はさらに腕を強める。今度こそ、彼女を砂の中に落とさないように。
「……ッ、……ううっ……!!」
一方、天体オタク・瀬部久一は、ファインダーを覗いたまま、感涙の嗚咽を堪えるのに必死であった。
そして、その夜二人は──
【ホテル・二十一世紀梨】
「熱いっ……寒いっ、なぜだ……夜の砂漠は、俺の庭だったはず……ッ」
良殻は、秘書に手配させたホテルのベッドでガタガタと震えていた。隣のベッドに横たわる紫愛も……
「──おいしい……っ!」
熱で朦朧としながら、売店で買った梨ジュースを喉に流し込む。
「俺に……も、一本よこせ……」
古代エジプトで災厄と恐れられていた男も、女神として祀られていた女も、現代ではただの人。
三千年の愛の記憶すら、山陰地方の容赦ない冷え込みの前には無力。
二人はただ、夜の砂丘にひれ伏すしかなかったのである。
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第二章は一章に収束していく章です。一章の「?」な部分も回収していきますので、ぜひお付き合いください。




