29話:もしもし
『Ya habibi(親愛なる友よ)! 太陽も絶好調、俺たちのテンションも最高潮! 渋滞で苛ついてる兄弟たち、耳は貸してくれてるか?』
アップテンポな最新曲がフェードアウトしていくと、男の甲高い声が割り込んできた。背後では重低音の効いたダンスミュージックのビートが、心臓を叩き続けている。
『我らが東カイロ大学の発掘チームが、とんでもないブツを掘り当てたらしい。なんと、古代ファラオが作らせたっていう「黄金の魔除け」だ! 数千年前、盗賊に奪われたきり行方不明だったあの伝説の秘宝が、ついに日の目を見たんだぜ!』
DJが喚き立てる中、ドライバーはミラー越しに熱っぽい視線を送ってきた。
「先生! その手には『ファラオの運』がついているはずだ。アナタが触れば、この車も黄金の馬車に早変わりですよ!」
送迎車の後部座席にふんぞり返ったまま、良殻は聞き飽きるほど繰り返される自らのニュースに、薄く唇の端を吊り上げる。
現代の象徴たるスマートフォンを弄っているその手が、かつてファラオの宝を盗み出した手そのものだとは、ドライバーは知る由もない。
新着128件。止まらない通知。
前世で宝をひったくった指先は、無造作に画面をスクロールしていく。
そこにはメディアからの依頼に混じり、どこで聞きつけたのか、見知らぬ番号からのメッセージが絶え間なく連なっていた。
(直接相手をするのは時間の無駄だ……コイツらを管理・選別するフィルタが、いずれ必要になるな)
有象無象を一網打尽に処理する有能な秘書。その必要性を脳内のリストへ書き留め、騒がしく震え続ける端末を放り出した。
代わりに、内ポケットからもう一台を取り出す。
父や帆留洲など、喧しい通知の中に場違いな名前を見つけた瞬間、指先がピタリと止まった。
「──石須、咲……」
自分に統計学を叩き込んだ、何でも数値化したがる女家庭教師。
ビジネスから考古学へと進路を変えたとき、やれ「デッドウェイト・ロス」だの「コンピューティング・リソースの浪費」だのと宣い、それきり付き合いも途絶えていたが。
メッセージを開くと、そこには日本の報道によって得られた情報の要約と、形式的な祝辞が一片の情緒も介さずに並んでいた。
「相変わらずだな」
感慨もなく画面を払おうとした手元が、次の一行で硬直する。
『私事ですが、二人の人生に有意な正の相関が認められたため、この度入籍いたしました』
ご丁寧に写真まで添えられている。
ダークグリーンのスーツを着た男に腕を絡める彼女は、あろうことか「幸せ」という概念をそのまま形にしたような顔をしていた。
「…………は? 嘘、だろ?」
思考より先に、指先が通話ボタンを叩いていた。
日本は午後七時を回ったところだが、たとえそれが丑三つ時だったとしても、構わずコールを鳴らしていただろう。
数回の呼び出し音の後、通話がつながったのと同時に、言葉が口をついて出た。
「石須! アンタ、結婚したのか!?」
「もしもし」などという無意味な儀礼を交わすつもりは毛頭ない。ただ一番聞きたいことだけを、突きつける。
海の向こうから返ってきたのは、それを肯定する石須の淡々とした声だった。
「いや待て……おかしいだろ! お前の結婚確率なんざ、ロジスティック回帰にかけようがカプラン・マイヤー法で引こうが、有意水準5%以下の絶望的な数値だったじゃねぇか!」
即座に、彼女から反論が返ってくる。
「……はぁ? 前提変数の設定ミスだと? ……ベイズ更新? 知るか、そんな──」
「先生、そろそろ到着しますよ」
いつの間にか渋滞を抜けていたらしく、車は吸い込まれるように出演者専用エリアへと滑り込んでいく。
続きを噛みつぶし、良殻は流れていく景色を睨みつけた。
「チッ……仕事だ。あぁ、番組の取材だよ。それより、今度その物好きな男に会わせろよ」
かけた時と同様、一方的に通話を断ち切った。
熱を持った端末を元の場所に納める。重い溜息を吐き、深くシートへ背を預けた。
「……アイツですら、寄り添う相手が見つかったというのに。俺の女神は、一体どこで何をしていやがるんだ」
目を閉じれば、脳裏に浮かぶのは紫の髪をなびかせた慈愛の女神。
彼女の膝の上で「よしよし」と撫でられ、至高の愛を注がれ、世界の全てを手に入れたような全能感に浸っていた勝ち組の記憶──
唇が、無意識に緩みかけたその時。輝かしい回想は、軽快なサイドブレーキの音によって無粋に塗りつぶされた。
「先程はずいぶん熱心な話しぶりでしたね! さては、恋人との電話でしたか?」
車を停めたドライバーが、弾けるような笑顔で振り返る。
事情を一切解さない男の無邪気な一言が、「女神不在」という現実を、これ以上ないほど鮮やかに抉っていった。
「……あんな血の通ってねぇ数式女が、恋人なわけあるか! いいか、俺の女神はその辺の女とは魂の格が違うんだ。あの紫の瞳で見つめられただけで世界が跪くほどの──」
アラビア語に切り替えることも忘れ熱弁していると、ドライバーの能天気な相槌が耳に入る。
日本語の通じない相手に何を必死に語っているのか。
一人で盛り上がっていた自分への苛立ちを、無言でチップを叩きつけることで強引に押し込める。
「こんなにたくさん!? おぉ、神よ! 最高の恋人に乾杯だ!」
追い打ちのような誤解を背中で振り切り、良殻は忌々しげに車を降りた。
今やあらゆるメディアで、発掘した遺物のニュースが溢れかえっているだろう。この顔が、この名前が、染め上げたこの銀髪が、電波に乗って世界中を駆け巡る。
かつて己の存在を唯一正しく認識した女神なら、画面越しの自分に気づかないはずがない。 再会の舞台は、もう整いつつあるのだ。
──三千年の空白など、俺たちの前では無意味に等しい。
良殻は不敵な笑みを口端に刻むと、スタッフの視線を傲然とはねのけ、スタジオの奥へと消えていった。




