25話:拉致
昨晩、従兄への報告を終えて数時間後。記内から届いたメールには、あの男──四野良殻の情報が記されていた。
東に在籍していると聞き胸を撫で下ろしたものの、なんと彼は、ワスタを利用して西にも出入りしているという。
奴が顔を出すのは商学部で、自分のいる法学部ではない。それが、唯一の救いだった
とにかく、鉢合わせる前にここを離れたい。
正門前、シュウは祈るような心地で、車がやってくるはずの道を凝視していた。
「……来た!」
視界の端にセダンを捉え、安堵に肩の力を抜く。だがそれも束の間、視界を遮るように、漆黒のSUVが猛スピードで突っ込んでくる。
キキィッ!とタイヤを鳴らし、進路を塞ぐように横付けされる車体。
シュウとドライバーが言葉を失っていると、サングラスを跳ね上げた良殻が、運転席から顔を出す。
「よお、遠十の坊っちゃん! 奇遇だな!」
「Mr.四野!?」
良殻は車を飛び降りるなり、送迎ドライバーへ歩み寄った。
慣れた手付きで数枚のドル札を、その胸ポケットへねじ込む。
「いいか、コイツは俺の親友だ。今日は一緒に『大事な商談』がある。……分かったな?」
「おぉ、神よ……し、承知しました、ムッシュ」
チップの威力にドライバーはあっさりとシュウを見捨て、恭しく会釈した。
「ま、待ってください! ボクはそんな約束してません! そもそもあなたとは──」
「いいから乗れ!」
抵抗する間もなく、強靭な腕で後部座席へと押し込まれる。ドアが閉まると同時にタイヤが悲鳴を上げ、ロケットスタートを切った。
「……うわっ!? ちょっと、運転荒すぎ……っ、前っ、前見てください!」
「安心しろ、カイロの道は気合で走るもんだ。それよりシュウ、お前に見せたいものがある。……前世の復習の時間だ」
「復習なんて頼んでません! 警察呼びますよ、本当に!」
右へ左へ、荒いハンドルさばきで揺さぶられ、法の条文を叫ぶ余裕もなく、座席にしがみつくのが精一杯だった。
東側の高級地区、ヴィンテージ・アパートの前に停まるやいなや、シュウはフラフラの状態で車外へ引きずり出される。
「……うぅ、吐きそう……」
「弱音を吐くな、根暗神官。ほら、行くぞ」
入り口の門番が何か言いたげにこちらを見たが、良殻が放り投げたチップを掴むと、「良き午後を」とばかりに笑顔で道を開けた。
エレベーターを待つことすら惜しむように、腕を掴まれたまま、高い天井の階段を一気に駆け上がる。
ガチャン、ガチャン、ガチャン。
部屋に入るなり、重厚な木製ドアにいくつもの鍵がかけられた。
息を切らして膝に手をつくシュウを放り出し、良殻はリビングのソファへどっかと腰を下ろす。
「ハァ……っ、もう、いい加減に……っ」
文句を言おうと顔を上げると、広々としたリビングの壁一面が、女性の肖像画で埋め尽くされていた。
「っ……」
思わず息をのむ。
あるものは本格的な油彩画、あるものは羊皮紙に素描。だがその中に──
(アニメ……?)
明らかに異質な、現代的なキャラクターイラストも、堂々と混ざっていた。
画風は違えど、描かれているのはどれも同じ人物だとわかる。夜霧を編んだような紫の長い髪。すべてを見透かすように、宝石の如く輝く紫の瞳。
「…………」
視線は、ひときわ豪華な額縁に収められた全身画に吸い寄せられた。
皓々と照らす月光の下、彼女は果てしなく広がる夜の砂漠を背に、佇んでいる。
まるで今この瞬間も、キャンバスの奥から自分たちを見下ろしているかのように。
「気に入ったか?」
見上げたまま動けないシュウの背中に、愉しげな声音が刺さる。
「ガーデンシティの画家に描かせた代物だ。三万ドル要求されたがな」
「三万ドル!?」
情けないほど素っ頓狂な声を上げ、弾かれたように振り返る。
日本円にして数百万円。大学生が趣味で飾るには、あまりに浮世離れした金額だ。
良殻は頬杖をつき、口の端を吊り上げた。
「なんだ、この程度の額で驚くのか。お坊ちゃんのくせに、ずいぶんと堅実な金銭感覚をしている」
瞳の奥に宿る、昏い執着の色。
キャンバスに描かれた女性の肌を、髪を、その魂を愛撫するかのような、ねっとりとした視線が絵を這う。
「──で、どうだ? この『女神様』は」
その声色は、心酔を共有できると微塵も疑っていない。
しかし、シュウは戦慄していた。この画中の女性こそが、彼が狂おしいほどに執着する「元凶」なのだと察し、背筋に冷たいものが走る。
「……キモイですって」
一切のオブラートを投げ捨てた形容詞。
良殻は不快さを全開にし、「黙っていれば美形」と評されるであろう顔を盛大に歪めた。
「……神官のくせに、不敬にも程があるだろうが。かつての主に対してだぞ」
「この女性にじゃなくて、あなたに言ったんですよ! 執着が透けて見えて怖いんです!」
もういい、帰らせてくれ。
シュウは内心で涙を流しながら、「呪われた絵画」に背を向けた。
しかし、逃げ場を探す瞳が一点を捉え、再び硬直する。
棚の上に無造作に置かれた、土から掘り出したばかりのような生々しい代物。
本来、エジプトの発掘品はすべて国家の管理下にある。個人の部屋に転がっていていいはずがない。
「気にすんな。市場で買った土産だ」
こちらの戦慄を愉しむような、低く弾んだ声が届く。
この男の口から出る「土産」という言葉は余計に胡散臭かったが、今はそれを追及する気力も、法を振りかざす余裕もない。
「流石に、コイツの顔は見飽きているだろ?」
不敵な笑みと共に、テーブルへ放り出された一冊のビジネス雑誌。
その意味深な響きに促されるように、シュウは重い足取りで歩み寄る。




