24話:消化に良くない
日本時刻の深夜零時過ぎ。
電話越しに届いたその名は、静寂な部屋に毒液のように滴り落ちた。
通話が切れた後も、風真は画面を凝視したまま動かない。
冷たく整った表情に変化はないが、デスクに置かれた「ワスタのリスト」を掴む指先は、隠しようもなく震えていた。
──グシャリ。
精緻に印字されたリストが、憎悪に任せて握りつぶされる。
「記内! 記内はいるか!」
怒声に近い叫びが、重厚な扉を突き抜けた。
刹那、まるで最初からそこに気配として潜んでいたかのように、音もなく扉が開く。
「お呼びでございますか、風真様」
三代に渡り一族の影を担ってきた執事は、乱れ一つない姿のまま、深々と頭を下げた。
主人のただならぬ激情に気圧される様子も見せず、ただ静かに、次の命を待つように。
「……情報部を叩き起こせ。今すぐだ。責任者全員を会議室に集めろ」
風真は、拳の中で歪んだ紙をデスクに叩きつけた。
「四野良殻だ。なぜあの男の名がリストから漏れている? 奴がエジプトで何をしているのか、呼吸の一つ、瞬きの回数まで洗い直させろ。……今夜中にだ!」
「……恐れながら」
静かに歩み寄った記内が、再び深く頭を垂れる。
「現時刻に組織を動かせば会長閣下の知るところとなります。まずは、どうかこの記内に一時間ほどの猶予を。私の手で直接、奴の素性を洗って参ります」
老練な従者の静かなる自負。
記内に対する絶対的な信頼だけが、瓦解しかけた理性を繋ぎ止める。
「……いいだろう。行け」
短く投げられた言葉を受け、記内は一礼すると、気配を残さず退室した。
静けさを取り戻した部屋で一人、風真は強く眉間を圧する。
──ラガラ。前世の忌まわしき名をそのままに、現世に生まれてきていたとは。
引き出しから一冊のノートと乾燥した細藺を取り出し、その先端を奥歯で強く噛み潰す。
……女神を探している、だと? どの口が言う。お前のような闇が、また彼女を穢そうというのか。
一分、一秒。風真は、「災厄」という存在がもたらす不快な熱を、文字を綴ることで辛うじて抑え込む。
数ページを神官文字がびっしりと埋め尽くす頃、再び扉の向こうに気配が立った。
「失礼いたします、風真様」
静謐な声と共に記内が部屋へ戻る。
主人の傍らに転がる、噛み潰された複数のホソイ。それに一瞬だけ目を向けたが、何事もなかったかのように手元の資料へ視線を戻した。
「四野良殻について、概要が判明いたしました」
淡々とした報告が、夜の書斎に響く。
「東カイロ大学の三年生。専攻は考古学ですが、事務局長とのワスタにより、西の講義にも頻繁に顔を出しているようです。父親はエジプト現地に太い人脈を持つ有力な商人で、現在は日本に拠点を置き、アンティーク商を営んでおります」
加えて、本人がそのネットワークを既に掌握していること。実利に敏い学生たちが彼を介したコネクションを求めて群がっていること――
紡がれる補足に、風真は口角を歪め、新たな一本を手に取った。
「四野良殻のデジタル上のデータに、特定の氏名を追った形跡はございません」
そこで一度言葉を切り、記内は手元の資料をめくる。
「ただし、注目すべきはフィールドワークの対象です。未発掘の特定区域や廃村を巡り、図書館では非公開の地誌や土地の記録を執拗に照会しております。現地の古文書を買い集めている形跡もあり、単なる考古学の研究とは思えぬ執念を感じます」
報告が終わると同時に、風真は噛み潰していたそれをデスクの端へ放り出した。
「……彼女の捜索を急がせろ。人員と資金を倍にして手段を問わず──いや、そんなことをしては会長と父上に怪しまれるな」
自ら言葉を遮ると、乱れた呼吸を整えるように吐息を漏らし、ゆっくりと椅子に身を沈める。
「すまない、記内。少し、熱くなりすぎたようだ……」
「御心、痛み入ります。四野氏が辿れる道筋など、我々の足元にも及びません。どうか今しばらくのご辛抱を」
その落ち着いた声音が、高ぶった神経を冷やしていく。
データという現代の武器を持つ以上、一歩先んじているのは自分たちなのだ。
「ああ。今はただ、『一族の調査』を進めろ。……泥の奥に潜む清らかな水を掬うのは、これほどまでに困難なのか」
また新たに、ホソイを一本取りだす。それを口元に寄せ、今度こそ冷静に思考を整理しようとした時。
記内の声が、やんわりと制した。
「……風真様。少し、歯を労わりなさったほうがよろしいかと。それから、ホソイの繊維はあまり消化に良くございません」
「…………」
風真は、散らばっている残骸にチラリと視線を向ける。しばし無言のまま固まっていたが、手にしたそれを、そっと引き出しに戻した。




