22話:漫画好きの御曹司さま
カイロの強烈な太陽がSUVのフロントガラスを焼く。
良殻は冷房を最大にし、大音量のアラビア語ポップスに合わせてハンドルを叩いた。
大学正門へ続く道は絶望的な渋滞だが、彼は迷わず「関係者専用」の裏門へ車を回す。
「おい、おじさん。俺だ」
窓を下げ、気さくに声をかけながら、警備員に折り畳んだ紙幣を手際よく握らせる。
「良殻様、お待ちしておりました!」
一般学生が砂埃の中を歩くのを横目に、彼は教授専用の特等席へ愛車を滑り込ませた。
「おい、良殻!」
車を降り、周囲の視線を無視して校舎へ向かっていたとき。一人の友人が騒がしく駆け寄ってきた。
「なあ、聞いたか。西に日本人が入ってきたそうだ。まだ17歳だってよ! お前と同じ飛び級入学だ。どうだ、見に行かないか?」
良殻は鼻で笑い、スマホを操作しながら受け流した。
「お前、日本人がそんなに珍しいのか。そんなガキ、俺が見に行く理由がどこにある」
つれない態度にも慣れたもので、友人はなおも食い下がる。
「まあ待てよ。ただの日本人じゃない。あの巨大グループ、『遠十HD』の御曹司だぞ」
「……とおと、だと?」
足がピタリと止まった。鼓膜を震わせたその響きが、一瞬で血液を沸騰させる。
「って、おい、良殻!?」
呼びかける声も無視し、良殻は元来た道を大股で突き進んでいった。
その背中を見送りながら、友人は呆れ混じりに呟く。
「……結局、見に行くのかよ」
◆
西カイロ大学のカフェテラスは、ナイルの対岸に霞む古都を、どこか遠い絵画のように切り取っていた。
日差しは鋭いが、日陰を吹き抜ける風は心地よい。
冷えたハイビスカスティーを片手に、シュウは現地の御曹司であるサミールと並んで談笑していた。
「シュウ、昨夜読んだあの日本の漫画、最高だったよ! 主人公の執念、あれこそがビジネスの神髄だ」
輝かんばかりの瞳で、サミールが流暢な英語でまくしたてる。
しかし、直後に深く溜息をつくと、ノートの端に書かれた歪な文字を指さした。
「ただ、この……『漢字』とやらがどうにも手強くてね。なぜこれほど複雑な図形を書き分ける必要があるんだい? 芸術的だが、効率的ではない」
シュウは苦笑で応じ、手元のグラスを軽く揺らす。
「そうですね……でもヒエログリフと同じ、『意味を持つ図形』だと思えば、親近感が湧きませんか? 古代の神殿に刻まれた記録と、どこか通じるものがある気がします」
意外な指摘だったのか、サミールは目を瞬かせ、やがて心からの笑みを浮かべた。
「……君は本当に面白い。我が国の歴史まで深く理解してくれているんだね。ビジネスのノウハウを吸収しに来ただけだと思っていたが、嬉しい誤算だ」
(……従兄に前世の記憶があって、ことあるごとに話してくるから詳しくなった──なんて絶対に言えないな)
シュウは内心で小さく冷や汗を拭いながら、愛想の良い笑みを張り付けた。
「従兄が、やたらとエジプトの歴史に詳しくて……自然と馴染みが深くなっていったんです」
「Mr.風真が? それは光栄だな。遠十HDには、我が国のインフラ整備で多大な恩義がある。父も君の顔を見てみたいと言っていた。今度ぜひ、我が家へ招待させてくれないか?」
その眼差しは親愛を示しながらも、相手の背後にある「遠十」のカードを、したたかに値踏みしている。
「恐縮です。ご一族が持つ経営手腕は、我々が最も学ぶべき点だと伯父から常々聞かされています。ぜひ、お伺いさせてください」
居住まいを正しながらも、シュウの脳内では既にこの招待がもたらす実利の計算を始めていた。
西大学の洗練された空気の中、ナイルの風が二人の間を通り抜けていく。
その穏やかな雰囲気を切り裂くように、テラスの入り口で硬質な足音が響いた。
気配を察し視線を向けると、サミールが「良殻!」と親しげに片手を上げる。
「……Naharak sa'id, ya Samir beik(ごきげんよう、サミール様)」
低いがよく通る声だった。
一瞬だけこちらを射抜いた男の瞳は、日本人のルーツを感じさせながらも、砂漠の太陽に灼かれたような鋭さを宿している。
(ハーフか……)
シュウはハイビスカスティーを啜りながら、流暢なアラビア語で御曹司と渡り合う男を冷静に観察した。
一目で高級とわかる生地に、叩きつけたような原色と金糸の刺繍。手首では、目を潰しにかかっているような黄金の腕時計とブレスレットが、これ見よがしに輝きを放っている。
その成金じみた出立ちに、(センスわる……)という率直な感想が浮かんだ。
「良殻、先日贈ってくれたシガーケースだけど、素晴らしいクオリティに父がすっかり気に入ってね。上機嫌で僕も大助かりさ。君の父上には感謝していると伝えてくれ」
次々と放たれるアラビア語を、必死に頭の中で解析する。どうやら男の父親は、サミールの父……つまり現地の有力者と、かなり太いワスタを築いているらしい。
「それは光栄です、父も喜ぶでしょう。……ところで、先日お勧めした漫画はいかがでしたか?」
「最高だ! 日本の文化には敬意を払わざるを得ないな。特に8巻の3話目、あの主人公の独白が──」
(また、漫画の話か……)
普段、漫画など読まないシュウには意外だった。母国のサブカルチャーが異国でこれほどまでに評価を得ていることが。
「ふふ……最新刊が近々発売されますので、手に入り次第誰よりも早くお届けに上がりましょう」
最新刊という甘い囁きに、サミールの瞳が子供のように輝く。それを見た男の口角が、僅かに吊り上がった。獲物の急所を完全に握っている者の笑みだ。
「……ところで、サミール様。隣の彼とは、少々個人的な『繋がり』がありましてね。よろしければ、二人で話をさせていただいても?」
男は、獲物を切り替えるようにこちらへと向き直る。その瞳の奥には、先ほどまでの「忠実な商人」の影など微塵も残っていない。
「なんだ、二人は知り合いだったのか。良殻、最新刊の件は頼んだぞ。シュウ、僕のことは気にせず彼と話してくれ。感想、後で共有するから忘れないでくれよ!」
男が恭しく見送る中、サミールは足取りも軽く、頭の中で次の展開を空想している様子で去っていく。
ご機嫌に口ずさむ主題歌が靴音と共に遠ざかり、やがてナイルの風に溶けて消えた。
──その静寂が、獲物を仕留める合図だった。




