21話:感情おおさわぎ
約一年後。
シュウが風真と共にすすっていたのは、ミントティーではなくダージリンだった。場所も、屋敷のテラスではなく、空港の無機質なラウンジ。
対面に座る執事は、普段の洒脱さが嘘のように、隠しきれない疲労を滲ませていた。
「記内さん……エジプトとのやり取り、本当にありがとうございました」
光則の承諾を得て、源水を説得し、ようやく手にした留学許可。
だが、そこからが実務という名の泥沼だった。
書類の公証、大使館の認証、時差。そして何より、現地の悠久なる時間感覚との戦いである。
「……シュウ様。かの地における事務手続きは、まさにアペプの再生でございました」
遠い目をした記内が、重々しく、しかしどこか晴れやかな溜息をつく。
「夜な夜な積み上げた書類を、朝になれば無慈悲な混沌へと還してしまう。終わりなき闘争に、一旦の終止符が打てましたこと……この記内、心より安堵しております」
言葉の響きは、一年の歳月を戦い抜いた戦士の述懐だった。
「お前にそこまで言わせるとはな」
風真は手にしていたカップを置き、苦笑と確かな敬意を込めて口角を上げる。
「お耳汚し失礼いたしました。──そろそろ、参りましょう」
ラウンジの静寂を後にし、三人は保安検査場の入り口へと続く、広く明るい通路を歩き出した。
「シュウ。いいか」
隣を歩く風真が、前を見据えたまま低く、言い聞かせるように口を開く。
「エジプトという国において、信じられるのは紙切れの契約ではなく、血の通った『ワスタ』……人脈だ。向こうの連中は、相手が誰の血筋で、背後にどれだけの力が控えているかを、呼吸をするように値踏みしてくる」
風真の横顔は、いつもの厳しい従兄のそれであり、同時に巨大HDを背負う冷徹な経営者の顔でもあった。
「遠十の名を存分に利用しろ。お前がその名を掲げることが、現地における最大の防御であり、最大の武器になる。会長の威光を使い倒せ。いいな」
「……はい。わかってます」
シュウは短く頷き、足元に流れる動く歩道の振動を靴底に感じていた。
遠十の本家で暮らし始めて約三年。
風真のいる家は、初めて「家族」という実感を抱けた場所だった。
(……今度は、それより長い時間をエジプトで過ごすんだ)
ピラミッドを目の当たりにしても、きっと自分は、茶を啜りながら神官時代の愚痴をこぼす従兄の姿を思い出してしまう。
そんな予感に混じる鋭い寂しさを、それでも自分で決めた道なのだと、歩幅を広げた。
やがて、旅人と見送り人を分かつ、保安検査場の入り口が目の前に現れる。
「……それじゃあ、行ってきます」
一礼して踵を返し、一歩踏み出そうとした──その瞬間。
「寂しくなるな。だが、しっかり学んで来い」
静止をかけるように届いたのは、いつもより少しだけ温度の混じった声だった。
従兄の口から出た、あまりにも意外な「寂しい」という言葉。
「ッ……」
胸の熱に衝き動かされるように振り返り、今度は深々と頭を下げる。
「風真兄様……っ。必ず、あなたを支えられる男になって帰ってきます!」
顔を上げ、溢れそうになるものを堪えて、風真の瞳をまっすぐに見つめる。
「期待しているぞ。……行ってこい」
その言葉を胸に抱き、一度だけ頷く。
「はい!」
背を向け、シュウはエジプトに繋がる通路へ力強く消えていった。
──だが、異国の地を踏むより早く、彼は「第一の洗礼」を受けることになる。
「……え、室温も照明も変えられるの? 自分の部屋じゃん!」
搭乗するやいなや、シュウは早くもキャビンで目を剥いていた。
喧騒とは無縁の、扉付きプライベート・スイート。
座席の隣からは、ボタン一つで冷えたドリンクが並ぶミニバーがせり出し、主人の要望をじっと待ち構えている。
「何このワインリスト……専属ソムリエまで!? いや、ボクは未成年だから頼まないけど」
次に、サイドテーブルの隠し扉を恐る恐る開けてみた。
中には、金縁のロゴが入ったレターセットと万年筆が収まっている。
「空の上で……手紙って……優雅すぎて意味がわからない!」
額に手を当て天を仰ぐ。
「……そうだ、光則様……光則様に御礼の手紙を!」
なぜ直行便じゃないのか不思議だったが、伯父の「入学祝だ」という言葉を思い出し、再び頭を抱えた。
「この一室に、一体いくらかかってるんだろう……」
震える手でサービス案内の冊子を捲ると、トドメと言わんばかりの、「オンボード・シャワー」の文字。
「──っ、空の上で、シャワーが浴びられるの!?」
エジプトに一人で乗り込む覚悟はあっても、空飛ぶ豪邸のラグジュアリーさに耐えるには、十七歳の精神ではまだ若すぎたらしい。
その頃、従弟の動揺を知ってか知らずか、空港内のレストランフロアでは。
「……記内。あの角を曲がれば、ようやく券売機だな」
「左様でございます、風真様。これは至高へ至る列。あと二十分もあれば、あの濃厚なスープに辿り着けましょう」
二人は、つけ麺屋の行列に並んでいた。
ポケットで風真のスマホが震える。
画面を覗き込み、シュウから届いた怒涛の連投メッセージを眺め、彼はふっと小さく肩を揺らした。
「……どうなさいましたか?」
黙って画面を見せると、記内もまた口元だけをわずかに緩める。
「あいつは──昔から、適応能力が高い。向こうでも、心配はいらんだろう」
「昔から……えぇ、左様でございましたね」
同じ時代を見つめ頷く執事に、風真は列の進みに合わせて一歩踏み出し、片手で返信を打ち込んだ。
◆
予想通り、ドバイに到着する頃には、シュウはファーストクラスの恩恵を堪能しまくっていた。
FastTrackで煩わしい手続きを軽やかにパスすると、タイムレス・スパで長旅の余韻をほぐす(実際には疲れなど微塵も感じていないのだが)。
カイロへ降り立つ前の、優雅な助走である。
そして数時間後、とうとうカイロの地を踏んだ。
「ついに来たぞ、エジプトに……!」
機体から出た瞬間の、肌を焼くような熱風。異国の匂い。胸が高鳴るのを隠しきれない。
だが空港内は、変わらぬ洗練されたラグジュアリー空間が保たれている。
シュウは歩きながら、到着の無事を告げるメッセージを送信した。
「Mr.トート。Fursah sa'idah(お会いできて光栄です)」
専用のゲートを抜けた先で、待ち受けていたリエゾンが恭しく一礼する。
「ありがとう」
完璧な発音ではないが、軽い微笑みを添えて、差し出された高級車のドアをくぐった。
エジプトの、本当の混沌を知る由もなく。
──その数時間後。
レジデンスの豪華なベッドに、シュウは文字通り死体のように転がっていた。
機内で、グラス片手に過ごしていた数時間前の自分が、まるで遠い前世の記憶のようだ。
「……ボク、たぶん寿命が三年は縮まった……」
心なしか虚ろな、天井を見つめる目。空港からこのレジデンスまで、何をどう通ってきたのか、記憶の大部分が悲鳴と急ブレーキに上書きされている。
日本で得た断片的な情報と、現実の圧倒的な温度差を噛みしめた時、手元で小さくスマホが震えた。
『無事に着いたようで、何よりだ』
従兄のことだ。今の自分の状況が、手に取るようにわかっているのかも知れない。
「……無事……ほんと、それ以外に言葉が見つからないよ……」
そっと画面を裏返し、枕に顔を埋める。
明日になれば、またあの狂乱の公道を通って大学へ行かねばならない。
深く、そして重い溜息をシーツの中に飲み込ませた。
外の喧騒とは無縁の、高級レジテンス。
しかし、頭の中ではまだ、盛大なクラクションの音が鳴り響いているようだった。




