20話:進路
敷地の一角に佇む別宅。そこは代々の当主が自ら生活を調える、静かな聖域でもある。
──あの日。自分の意志を追い越して、運命の天秤が大きく揺れた。……風真様と出会ったことで、ボクの人生は見えない手によって導かれたのだと思う。
カゴを抱えてテラスへ出ると、計算された角度で差し込む陽光が、従兄の髪を柔らかく透かしている。
「……司法試験、どんな感じですか?」
風真は、分厚い基本書からゆっくりと視線を上げた。眉間に寄ったわずかな皺が、格闘している情報の膨大さを物語っている。
「……民法改正。数千年まえから、人間は絶えず変化を求めるものだな。だが、法の本質──すなわち『正義』の形は不変だ」
「……なるほど。深いですね」
あれから三年、従兄のオカルト発言にも慣れたものだ。
呼吸をするように、当たり障りのない言葉を返す。
指先で眉間を押す彼は、条文の海に漂いながらも、そこにある真理を掴もうとしているようだった。
思考の邪魔をしないよう、静かにテラスの階段を降りる。
庭一面に広がる、鮮やかな緑。
「まさに、洗濯日和だなぁ」
鼻歌交じりに、カゴからシーツをズルリと引き出す。
バサッ。
「……湿った布という重き世界に風を通し、天と地の間に『空間』を創り出す。空気を孕んで丸く膨らむあの曲線……あれこそが、かつて天空を支え上げた大気神の腕のアーチそのものだ」
振り返ると、従兄は満足げに頷いていた。
いつの間にかこちらを見据えて、大真面目にそんなことを宣っている。
「…………」
何も聞こえなかったかのように、シュウは軽くなったカゴを引っ提げテラスへ戻った。
「ハイビスカスティーでも淹れてきましょうか?」
「いや、ミントで頼む。砂糖は、適量でな」
「了解」
呆れつつも愛おしい、そんな日常。
苦笑してリビングへ入ろうとする彼を、「シュウ」と風真の声が引き止めた。
「はい?」
「お前、進路はもう決めたのか?」
その言葉に、一瞬だけ体が硬くなる。秋の陽光に満ちていたテラスが、急に現実の温度を帯びた。
カゴを傍らに置くと、風真の隣へ腰を下ろす。
「……慶應に、行こうと思います。源水様も、それを望まれていますから」
憧れを追って同じ大学へ通う必要はない。ここで強固な人脈を築く。それが盤石なグループの末端を支えるために、自分に課せられた義務だ。
「お前自身は、どう考えているんだ」
「……父が、光則様にいくらせびったのかはわかりません。けど、相当な額だったであろうことは想像がつく」
シュウは居住まいを正し、風真の瞳を真っすぐに見つめ返した。
「ボクは、それに見合う人間になる必要があります」
金銭の問題だけではない。伯父が後見人になってくれたのは、従兄の口添えがあったからこそだろう。
自分を、形のない深淵から引き上げてくれた。彼の役に立ちたい。
瞳に宿るのは、従兄という肉親へ向けたものではなく、主人を仰ぐそれであった。
「……もう少し」
風真はシュウの言葉に何の感情も見せず、ただ静かに、まつ毛を伏せる。
「気概のある奴だと思っていたんだがな。初めてお前が源水様の前に立った時、底知れないものを感じたというのに」
「ッ──だって……!」
普段の彼らしからぬ、年相応の幼さをのぞかせ、シュウは弾かれたように立ち上がった。
「あの時は、何も持ってなかった! 今はこの家を、あなたを、支えたいから……ッ」
父親に「手土産」として、この家に連れられて来た時でさえ滲ませなかった表情。
観察するように見据えていた風真は、不意に、ふっと瞳を和らげた。
「家も、私も、天ほどは重くない。お前ひとりで必死に支えずとも、簡単に潰れはしない」
シュウは呆気にとられ瞬きを繰り返すと、毒気を抜かれたようにクシャと前髪をかきあげた。
「……なんですか、それ。また三千年前の話?」
「もっと昔だろうな」
神話をさも当然の事実として口にする従兄に、小さく口を尖らせる。
「……本当は……西カイロ大に行きたいんです」
流石の風真も予想していなかったのだろう。「ほう……」と、短く驚きの声を上げた。
「お前が、エジプトに興味を持つとはな」
「そりゃあ……事あるごとに聞かされてたら、そうなりますよ」
三つ年上の従兄に教わったことは多岐にわたる。日々の宿題や家の作法といった身近なことから、帝王学という名の冷徹な処世術に至るまで。
しかし──そこにちょいちょい、当たり前のように「三千年前」の出来事を挟み込んでくるのだ。
「……エジプトに行けば、風真様の電波な発言も、少しは理解できるかもしれないし」
何か言いたげな従兄を制し、シュウは「プランとしましては」と、指を立て滔々と語りだした。
「法学部のイングリッシュ・セクションで国際商法と危機管理を専攻しようと思っています。風真様が国際案件を扱う時、ボクがリスクマネジメントを担えば、世界中に解決できない案件はなくなる。アラビア語は……まあ、現地でおいおい学ぶとします。まずは英語で専門知識を叩き込むのが先決ですから」
彼のプレゼンは止まらない。
「高認に受かれば――まあ受かるでしょうけど、来年の九月には入学できます。高校の卒業証書のために一年を無駄にする必要はないでしょう? そうすれば現地で四年学んでも、帰国してすぐにあなたの力になれる」
夢中で語っていると、不意に、笑い声が耳に届いた。
「慶應に行くと言った時と、同一人物とは思えないな」
我に返ると同時に頬が熱くなる。それを誤魔化すように、シュウは額を押さえた。
「問題は、源水様を説得できるか、です。『わざわざ砂漠の大学に行く必要はない!』と仰るでしょうし……」
天を仰ぎ、「ボク、あの人苦手なんだよなぁ……」と、彼は眉を下げて気まずそうに呟く。
「そう言ってやるな。ああ見えて、意外に愛嬌のある趣味をお持ちだ。たとえば……カエルのモチーフを好んでいたりだな」
「か、カエル!?」
静止した水面のような冷徹さで世界を支配する男が、地上に這いつくばる両生類を愛でているというのか。
「カエル、か……」
自分には一生理解できそうにない深淵を覗き込んだような気がして、所在なげに視線を泳がせた。
「私からも口添えしておこう。お前のプランは説得力がある。そう無碍にはされないはずだ」
従兄の言葉はいつも、未来を確信させてしまう独特の響きがある。
「風真様に、頼ってばかりですね……」
自嘲気味に、口元を緩めた。
役に立ちたいと願いながら、結局はその道を整えてもらっている。己の献身すら、彼に対する甘えの裏返しではないか。
「構わん。利用できるものは、兄でも何でも利用しろ。お前にはその権利がある」
自身を断罪していた意識が弾かれ、ハッとして顔を上げる。
彼は、この話題は終わりだとばかりに、分厚い書に再び視線を落としていた。
「……ありがとう、ございます……風真さ──風真、兄様……」
震えを殺し切れていない声に、風真が怪訝そうに顔を上げるより早く、
「ミントですよね。淹れてきます!」
シュウは洗濯カゴをひっ掴んで、逃げるようにリビングへと駆け込んでいった。
その頃、元・女神(13)は――
「ガマの油……? 買ってみっか!」
「お父さーん! ガマまんじゅうも買ってぇ」
家族で茨城旅行に来ていた。




