19話:元カノ・こじらせ
大粒の雨が窓を叩き、風が低い唸り声を上げる夜。
一人で暮らすには広すぎる家の書斎で、アンワルは低いアラビア語を響かせる。
「友よ……ああ、こっちは酷い嵐だよ。エジプトの眩しい太陽が、今すぐにも恋しいくらいさ」
デスク上の写真立てには、高校の制服姿で心底嫌そうな表情の息子が収まっていた。
「……それより、急な予定変更で手間をかけさせたね。当初は西カイロ大で進めていたんだが、あの子もなかなか一筋縄ではいかなくてね。……ああ、君が事務局にいてくれて本当に助かった。君の『魔法』のおかげで、息子も無事に初日を迎えられそうだよ」
電話の向こうから返ってくる快活な笑い声に、アンワルもまた、親愛の笑みをこぼす。
そこにあるのは、互いの利害を一致させるプロフェッショナル同士の、揺るぎない信頼関係だった。
「お詫びと言っては何だが、例の古い陶磁器を見つけたよ。すでに船便に乗せてある。……ああ、礼には及ばないさ。君と僕の仲じゃないか。……では、息子を頼むよ」
通話を終え、アンワルはスマートフォンの画面を伏せた。
暗い書斎に、再び激しい嵐の音だけが戻ってくる。
「──神が共にありますように」
暗闇に溶けたその祈りは、遠い砂漠の地へと送り出した愛息の行く末を、静かに、そして力強く願うかのようだった。
◆
……その頃。
「お兄サン、イケメン! 見るだけタダ、買うのはお金ネ!」
「ヘイ、ジャパニ? 私の店、エキゾチック! 安すぎて心臓止まるヨ!」
親の心、子知らず。良殻はカイロの巨大迷路──ハーン・ハリーリを練り歩いていた。
毒々しく輝く極彩色のランプ、鼻腔を刺すスパイス、崩れそうな山積みの布地……五感を四方八方から殴りつける混沌が、狭い路地を埋め尽くしている。
「……ふん、悪くねぇな」
埃っぽく熱い空気を肺に満たし、良殻は不敵に口角を上げた。
客引きたちのギラついた視線を片手でいなし、目指すのは入り組んだ先の、薄暗い路地。
ガイドブックすら匙を投げそうな場所に、その工房はあった。
カンッ カンッ──
乾いた金属音が、規則正しく空気を震わせている。良殻は無遠慮に、埃の舞う工房の中へズカズカと踏み込んでいった。
作業台の前に、男の背中が丸まっている。
幾年も熱と金属に晒されてきたその手は、使い込まれた道具のように無骨で、分厚い。
男は顔も上げず、淡々とリズムを刻み続ける。
「……土産物なら、表の店で買え」
突き放すような声音。観光客を拒む、鋼のような意志がそこにはあった。
「……アンタがユセフ・アハメドか?」
カンッ──と最後の一打を響かせ、タガネが止まる。
男は予想外の流暢な方言に眉をひそめ、作業台から顔を上げると、眼鏡を指で押し上げた。
「そうだが……お前さんは……?」
東洋の面影と、エジプトのルーツを併せ持つ青年に、男は怪訝そうに目を細める。
「マフムードの孫、良殻だ」
マフムード。その名が工房に落ちた途端、男の顔から険が消え失せ、懐かしさと喜びが皺の奥に滲み出した。
「……マフムードの孫、だと? おぉ、マフムードの……!」
感動に声を震わせ、良殻の肩を抱こうと腰を浮かしかける。だが。
「積もる話は後だ。頼みたい仕事がある」
抱擁を遮り、良殻は懐から取り出した布包みを無造作に作業台へ投げ出した。
「22Kか」
解かれた布の隙間から、鈍い黄金の光が漏れる。重なるようにして現れた二枚の金属板を前に、男の目は職人の鋭さを取り戻した。
「これにヒエログリフを彫ってくれ。刻む名は──『SIA』だ」
良殻の指先は滑るように金の板をなぞる。愛おしげに、あるいは呪いのように。
その名を呼ぶ声には、魂を削って差し出すような、救いようのない渇きが滲んでいる。
「……22Kでも数年で角が丸まり、文字は溶けるように消えるぞ。純金よりマシだがな。18Kにしておけ」
男の良心的な助言を、良殻は「反吐が出る」と言わんばかりに、鼻で笑い飛ばす。
「18Kなんてのは、金が別の何かに浮気した成れの果てだ。そんなものにアイツの名を刻めるか。……もう一枚には俺の名を刻め。摩耗が怖ければその分、厚く造れ。四の五の言わず、彫るんだよ」
「……やれやれ、恋人の名前か? 職人泣かせの惚れ込みようだな」
男は大きく肩をすくめたが、愛用のタガネを手に取ると、凄みのある笑みを浮かべる。
「いいだろう。通常の倍、骨まで届くほど深く叩き込んでやる。地金を数万回叩き締めて、鋼のように硬く鍛え上げる。これなら、お前さんがくたばった百年先まで、その名は消えやしないさ」
「完璧だ……ワスタの力に感謝するぜ。アンタという最高の打ち手に辿り着けたんだからな。……工賃だ。これで足りるか?」
1オンスの純金コインを差し出す。それが黒ずんだ作業台に置かれた瞬間、工房の空気が一変した。
老職人は弾かれたように立ち上がり、扉を閉め、見合わぬ俊敏さで重い閂をかけた。
「こんなものを白昼堂々出すやつがあるか。寿命が縮んだわい……」
震える手でボロ布を掴み、宝物を隠すようにコインを覆った男は、呆れたように首を振る。
「やれやれ……これ一枚で、しばらくは道具を放り出してナイルのほとりで昼寝ができる」
金貨を布ごと腰帯の裏側へねじ込むと、何食わぬ顔で煤けたヤカンに火をかけた。
良殻はといえば、断りも入れずにそこらの一脚を引き寄せ、尊大に腰を下ろしている。
「引退するのは勝手だが、俺の仕事をキッチリ仕上げてからにしろ。……いいか、文字に魂を打ち込め」
茶の準備をする男の背中に、低く、念を押すような声が突き刺さった。
「俺とアイツがまた巡り合い──この手から、二度と逃れられないようにな」
「……ん?」
ドロリとした情念がこもった響き。男はポットを掴んだまま、怪訝そうに肩越しに振り返った。
「……一応確認するが、恋人の名前を彫るんだよな?」
「そうだ」
「……そのお嬢さんは、あー……今は、どちらにいらっしゃるのかね?」
極力、刺激しないように言葉を選んで尋ねると、良殻は苦虫を噛み潰したような顔で吐き捨てた。
「それがわかってりゃ、こんなところで油を売ってねぇんだよ!!」
怒声が狭い工房に響き、天井から埃がパラパラと落ちる。
男は「おぉ、怖い怖い」と肩をすくめ、カップへ器用に茶を注いだ。そして、どこか得意げな顔で良殻を指さす。
「日本語でそういうのを何と言うか、ワシは知っておるぞ。……つまり、『モトカノ』というやつだな? お前の親父、アンワルから聞いたことがあるわい」
「……あ?」
虚を突かれ、フリーズする良殻。男は砂糖をたっぷり放り込んだ茶を彼の前に置いた。
「あの男、こっちに帰ってくるたびに『過去の女をいつまでも追いかける男を、モトカノ・コジラセと呼ぶ』と吹聴しておったわ。いやぁ、アンワルの息子が、はるばる海を越えてモトカノ探しとは! 血は争えんな、ハッハッハ!」
「……殺すぞ、クソジジイ」
差し出された茶をひったくるように受け取ると、熱い液体を喉に流し込む。
殺意が沸くほどの甘さが、彼の苦々しい執念を無理やり胃の奥へと押し流していった。
その頃、元・女神(12)は──
『聞いてよ紫愛。元カレがさぁ、名前入りのキーホルダーまだスクバにつけてんの。キモくない?』
「あはは。それはちょっと重いねぇ」
スマホ越しにガールズトークに興じていた。




