16話:始動
「──しかし風真、あの署名には驚いたぞ。近頃の若者には珍しい、骨格の確かな、筋の通った字だった」
食後の酒が香るダイニング。
グラスに満たされた琥珀色の液体を、遠十源水は満足げに揺らした。
「ありがとうございます。私としては、遠十家に流れる血をなぞったに過ぎません」
「ハッハッハッ! 頼もしいことだ」
愉快そうに喉を鳴らし、源水は傍らの息子へ視線を向ける。
「光則、うかうかしているとすぐに代替わりになってしまうぞ!」
苦笑まじりに肩をすくめ、光則は応じる。
「真っ当な評価ですね。優秀な後継者が控えているのは、CEOとしてこれほど心強いことはありません」
組織を完璧に回す息子。十六歳という若さで「血」の重みを筆先に宿す孫。
一族の安泰は揺るぎないものと確信し、源水はコニャックを飲み干して満足げに目を細めた。
空になったグラスへ、執事が歩み寄る。だが、それを制するように片手を挙げた。
「今夜は、あれにしよう。『原初の水』を一杯。いや、今日は特別だ。この若き賢者にも、アルコールを抜いたやつを振舞ってやれ」
滅多に命じられない酒の名に、彼は恭しく一礼して応える。
手際よく用意された切子細工のグラスには、金箔を封じた丸氷が蹲っていた。
粘り気のあるジンに、濃縮されたバタフライピーが落とされる。透明な液体は、一瞬にして深い青へと染まった。
源水は黄金の氷をカランと鳴らし、その深みを一口啜って深く椅子に背を預ける。
執事は手早く、光則の前へも同じグラスを供した。
風真のグラスに満たされたのは、アルコールを排したボタニカルウォーターとベルガモット。そして──
「坊ちゃまには、仕上げにライムを」
バースプーンの先から、一滴。
深い青から花開くように、その水は高貴なアメジストへと揺らめきを変えた。
風真の瞳がわずかに、しかし、深く揺れる。吐息となってこぼれそうになる、彼女の名。
だが、その動揺をすぐさま理性の底へ沈め、グラスを掲げて微笑んだ。祖父と父のグラスに湛えられた、「青」を指して。
「お祖父様。深い青に沈む黄金……我が社の社章、そのものではありませんか。身の引き締まる思いです」
「その通りだ、風真。よくぞ見抜いた」
我が意得たりとばかりに、源水は大きく頷く。
「世界は時として姿を変えるが、それを包む水が絶えることはない。どれほど回ろうとも、我らという水の掌の上にある限り、我が一族は永劫に安泰というわけだ!」
豪快な笑い声が、重厚な空気を震わせた。
「感服いたします。……であれば、その『水』をより清廉に、より盤石なものとするための計画書を作成してまいりました」
傍らに置いていた革のファイルを手に取ると、風真は迷いなく祖父の前へと差し出す。
「……ほう。お前の言う盤石とやら、拝見しようか」
執事が差し添えた鼈甲の老眼鏡を、源水は書類に視線を落としたまま目元にかけた。
「……親族調査、だと? それも、直系のみならず数代遡っての傍系……末端の血筋に至るまで悉くか」
書類をなぞる指が、止まる。
「風真。これは、数千人規模の網になるぞ」
その言葉に、それまで静かに酒を愉しんでいた光則が、鋭く眉を寄せた。
グラスを置き、息子を真っ直ぐに見据える。
「風真、それはあまりに越権が過ぎるのではないか。一族の全貌を洗うとなれば、平穏に暮らしている親族への不必要な干渉は免れない。……何より、それほどの資産を投じて得られるものに、一体どれほどの費用対効果がある。ガバナンスの観点からも、些か現実味を欠いている」
実務家である光則の言葉は、正論ゆえに重く、冷ややかだ。
だが、風真はその苦言を予測していたかのように、少しも動じない。
「父上のおっしゃる通りです。ですが──」
言葉を継ごうとした瞬間、源水の笑い声がすべてを遮った。
「素晴らしい。よくぞ言った、風真!」
源水はレイド紙の束を骨張った指先で叩き、まるで伝説の地図でも見つけたかのように相好を崩した。
「枝葉の数字に囚われず、一族の源流をすべて把握しようとするその気概……まさに我が後継者に相応しい視座だ。光則よ、目先のリターンなどどうでもいい。この執念こそが、我が家を永劫たらしめるのだ」
「しかし会長、風真はまだ十六の学生です。今は学業と帝王学の履修に専念すべき時期。これほど大規模な調査に首を突っ込むのは、時期尚早です」
光則は納得しきれない表情で、父と息子を交互に見やった。
「それも尤もだ。学業を疎かにしては本末転倒というもの。……ならば記内。お前が適任であろう」
名を呼ばれ、主人の傍らへ歩み寄る執事。
「畏れながら、大旦那様。私のような一介の使用人に、一族の根幹に関わる大役……荷が勝ちすぎるかと存じます」
記内は伏したまつげを微塵も揺らさず、抑揚のない声音で応じる。それは己の領分を弁えた、完璧な「影」としての礼節だった。
源水はフッと口角を上げると、飲み干したグラスを記内に預け、その肩を無造作に叩く。
「何を言う。お前はワシがまだ青かった頃から、常にこの背を守ってきた男だ。この家の表も裏も、お前ほど知り尽くしている者は他におらん。……付き合ってくれるな?」
それは、主人の命令を超え、戦友への頼み事のような響きを帯びていた。
「よいな」
逃げ場を塞ぐような鋭い視線を光則へ、次いで風真へと投げる。それは議論の終結を告げる絶対者の宣告だった。
光則はそれ以上言葉を重ねることをせず、風真は、深く、静かな一礼をもってそれに応える。
記内は「承知いたしました」と、これ以上ないほど恭しく頭を垂れた。
「この記内、遠十家の繁栄を永劫たらしめるための礎となりましょう」
静寂に溶けていく、厳かな誓いのような言葉。
「──頼んだぞ、記内」
風真は、グラスの中で密かに揺らめくアメジストの光越しに、執事を静かに見つめる。
「承知いたしました。風真様」
記内もまた、ずっと以前からそうしてきたかのように、若き主の視線を真っ直ぐに見つめ返した。




