15話:トートの目覚め
紺碧の大水盤と、風にそよぐ緑の房。庭の奥の屋敷は、西日に溶けるように佇んでいる。
影が伸びる廊下を進み、重厚な扉の前で執事が足を止めた。
「旦那様、坊ちゃまをお連れいたしました」
「……入れ」
低く、聞き慣れた男の声が応じる。
執事が音もなく扉を押し開くと、風真は淀みのない足取りで中へ踏み出す。
執務室の奥、デスクの向こうに、父──遠十光則の姿があった。
その傍らへ進んだ執事が、影に従うように控える。
光則は書類から視線を上げ、瞳の奥をわずかに和らげた。
「帰って早々にすまないな。一刻も早く、渡しておきたいものがあったんだ」
傍らの革バインダーが開かれる。そこには、一族の系譜が静かに眠っていた。
「風真。お前も今日で十六になった。この歳が、我が家系において何を意味するか……理解しているな?」
「はい。正式な一員として、家督の継承権を認められる年齢です」
光則は満足げに頷く。
「そうだ。ここにサインを。今日からお前は、単なる私の息子ではなく、遠十を背負う一翼となる」
万年筆を差し出そうとした手を止め、光則は引き出しから細長い小箱を取り出した。
「これを使え。……お前のために誂えさせた」
風真は両手でそれを受け取ると、慎重にリボンを解いていく。
蓋を開けた瞬間、冷たい輝きが瞳に映り込んだ。
純白の風切羽に、精緻な彫金が施された銀軸の羽根ペン。その根元には、家紋と共に自分の名が刻まれている。
「美しい……」
思わずこぼれた呟きに、光則の口元がわずかに緩んだ。
それを合図に、執事が迷いのない手つきでインクを調合し始める。一滴、また一滴。
「…………」
自分は、この香りを知っている。
古書が漏らす吐息のような、甘美な記憶と焦げた苦悩。それが混じり合い、風真の脳の奥へと流れ込んでいく。
意識の輪郭が、高熱の砂漠へと静かに溶け落ちていった。
「……本日は湿度を考慮し──」
声が砂の熱を断ち切る。
「没薬の配合をわずかに増やしてございます。紙への定着を早め、文字に永遠の命を宿らせるために……」
執事は風真の手からペンを受け取り、先を漆黒の液体へ浸していく。余分な滴を拭い、再びその軸を差し出した。
「坊ちゃま、どうぞ。ペン先が馴染むまで、最初の一文字はゆっくりとお進めください」
指先に伝わる銀軸の冷たさと、立ち上る没薬の香りが、意識を鋭く研ぎ澄ませる。
光則は無言のまま、系譜の末端にある空白を指し示した。
「…………」
ペン先が紙を噛む微かな感触。風真は淀みのない一画目を滑らせた。
漆黒の軌跡が、吸い込まれるように白紙を侵食していく。
そして、最後には──
「ほう、パラフまで入れるとはな……」
遠十風真の名と、傍らに添えられた畳まれた布のような飾り文字。
その筆致は、数千年前からそこに刻まれていたかのような静謐さを湛えていた。
ペンを置くと、風真は静かに顔を上げる。
瞳の奥には、世界の真理を書き記してきたかのような、底知れない知性が宿っていた。
「……見事だ。これほど完成された署名は、初めて見た」
「ありがとうございます」
父の感嘆に、わずかに口角を上げる。
だがその微笑は、三千年の時を隔てて再会した、己の運命に向けられたものだった。
◆
数日前の儀を終え、風真は一族の家系図を辿っていた。
巨大樹「遠十」の全貌を写し出す、膨大な情報の連なり。
滑らかに画面を弾いていた指が、一点を射抜くようにして止まった。
──八親等。
もはや家門の末端、本流との関わりも絶えたはずの枝葉。
そこに、不自然なほど澄んだ響きを持つ「四文字」を見つける。
その名を網膜に焼き付けるように見つめ、風真は静かに、深く、目を伏せた。
「……現代の記録媒体は、目に障るな」
眉間を圧し、吐息と共に引き出しの奥から一本の細藺を取り出す。
指先で乾燥した茎を転がし、風真はおもむろにその先端を奥歯で噛み締めた。
──ピシッ。
爆ぜるような乾いた音が、静まり返った書斎に鋭く響く。
インクに浸したホソイの先端が、レイド紙の上で硬質な音を奏でていく。
「……パピルスに記すより、はるかに書きやすい」
三千年の空白を埋めるように、風真は紙の肌理へ執念を刻み込んでいった。
屋敷に明かりが灯りはじめる頃。執事が、三度目の茶を運んでくる。
「失礼ながら。いささか、根を詰めすぎかと存じます」
「……目を通してくれ。今夜、会長に出す」
最後の一点を打ち、筆を置くと、風真は書類をわずかに押しやる。
執事は老眼鏡を掛けるや、厳かな手つきでページを繰った。
最後の一枚を読み終えると、紙束が整えられる密やかな音が響く。
「……これほど緻密な理屈で固められれば、大旦那様も頷かざるを得ないでしょう」
風真は満足げに唇の端を上げ、湯気の立つカップを手にした。
「……夕食は、二十時からだったな」
「左様でございます。──それから」
彼はデスクに転がっている、無残なホソイをちらと見やった。
「そちらの噛みつぶされた草は、処分してもよろしいでしょうか」
「……あぁ。任せる」
掌にはまだ、筆を握り続けた熱が消えずに残っていた。
(必ず、通してみせる)




