12話:好みの女
「今回の課題を出すわ。あなたの商売のキャッシュフローを、一万回試行して倒産確率を算出しなさい」
「……は? 一万?」
先ほどまでの愉悦がウソのように、良殻の表情はエラーを吐き出した演算結果のごとく、ぴたりと固まる。
「……ッ、俺が前世で砂漠を荒らしまわった通算襲撃回数すら超えてんぞ!」
「…………」
計算の前に、まずは認知機能を再起動させてやるべきではないか。
教育者としての新たな葛藤が彼女の眉間に刻まれた。
「はは……」
良殻の乾いた笑い声に、石須はほくそ笑む。……だが、
「脅しのつもりかよ。モンテカルロ法だろ? 変数固めて、Excelでぶん回せば、瞬きしてる間に終わる計算だ」
石須は「……チッ」と、今度は隠しもしない音量で、盛大な舌打ちを放った。
原料の高騰、近隣店の影響、配送リスク。それらを変数に組み込み、マクロで一万回ぶん回す。
処理完了を告げるビープ音が鳴り響くと、その冷酷な結果に良殻は「マジかよ……」と声を漏らした。
わずかな確率で重なり合う、最悪のシナリオ。キャッシュフローは底をつき、真っ赤なマイナスを突きつけていた。
「百回に数回は、全財産を失う可能性があるってのか……」
先ほどまでの傲慢な態度は影を潜め、しおらしくなった良殻に、石須は頷く。
「その『数字の重み』を知ることが、統計学の第一歩よ」
声音に嘲りはない。
あるのは、生徒の成長を目の当たりにした教師としての満足感だ。
「たった数回。けど、それを『ただの不運』で片付けないのが、本当のプレイヤーの思考なの。あなたのお父様みたいなね」
一万回の試行は、画面上では一瞬。しかし、ハーン・ハリーリで商売を続けてきた一族の歴史は、やり直しのきかない「実戦」が積み重なっている。
血肉に刻まれた直感的な統計学を駆使して、一度も踏み抜かずに歩き続けてきた事実。
良殻は初めて、父親という男に、計り知れない商人たちの狂気を見たのだった。
「お疲れサマー! 良殻、頑張ってるカイ?」
無機質な数字に占領されていた自室に、ぱっと明かりが灯ったような声が響いた。
スーツを完璧に着こなした父が、まるで砂漠の太陽を連れてきたかのように入ってくる。
「お帰りなさいませ。今、ちょうど終えたところです」
石須は腕時計に目を落とし、予定時刻ぴったりに指導が完了したことを確かめる。彼女にとって、この正確さこそがプロとしての証だった。
良殻は、父のスーツから漂う香油と、わずかな紙幣の匂いを嗅ぎ取る。
自分が数字の群れと格闘している間にも、この男は現実を金に変えてきたのだ。
「二人とも、良い顔をしているネ。さあ良殻、夕ご飯食べに行こうカ。先生も一緒にどうですカ? 統計学の話、私も混ぜてほしいナ!」
雇い主の陽気な誘いに対し、石須は表情ひとつ変えない。
卓上の資料を淀みない動作で鞄へ収めると、背筋を伸ばして丁寧に頭を下げた。
「お誘いありがとうございます。……ですが、申し訳ありません。この後、合コンの予定が入っておりますので、これにて失礼いたします」
──合コン。
あまりに世俗的で、似つかわしくない四音。良殻とアンワルの思考リソースは一瞬でフリーズした。
動揺する二人をよそに、石須は無機質な事務連絡を続けるように付け加える。
「私の市場価値も、減価償却を考慮した適切なタイミングで投資しないと、期待値が暴落してしまいますから。……ちなみに本日の成約確率は、過去のパラメータから32.4%と算出済みです。有意差が出るか微妙なラインですが、まずは試行回数を稼いで参ります。それでは」
踵を返し、数式を解き終えた後のような清々しさで、彼女は夜の街へと消えていった。
◆
翌日。同じ場所、同じ時刻。しかし、目の前の人物だけが昨日と違う。
「……は? 誰だアンタ。……いや、石須か!?」
ふわふわのピンクニットに、ゆるふわの巻き髪。
バグかあるいはレンダリングミスか……良殻は目を丸くした。
「合コンで出会った彼が言ったの。『君の言葉は尖っているけれど、その外装を親しみやすいUIに変更すれば、僕の感情と完全に同期する』って」
石須は「恋をすると脳内伝達物質が異常値を叩き出すのは統計的事実よ」と、うっとりと語る。
だが、それも一瞬。すぐに数字を操る鋭利な目つきへと戻った。
「でも、私の計算精度は落ちていないわ。さあ、次のページ。『私の外装が彼の求める最高のUIに収束したとき、結婚がナッシュ均衡になる確率』を、ゲーム理論で算出しましょうか」
(……ダメだ。浮かれすぎてて、内容がさっぱり入ってこねぇ……!)
そもそも、と良殻は頬杖をつき、石須の指先がホワイトボードを叩く音を遠くに聞いていた。
(なんでも数値化しようとして、可愛げがねぇだろ……)
女ってのは、もっとこう……何も言わずとも、すべてを識っているようなのがいい。
慈愛に満ちていて、その無防備さにコッチが逆に狂いそうになるような女だ。
髪は陽に透ける紫で、瞳はナイルの恵みどころか全生命の根源がそこに凝縮されているような……その輝きだけで俺の心臓は何度も──
「四野君ッ! 聞いているのかしら!?」
数千年前から一気に意識を引き戻された感覚に、流石の良殻もビクリとして手からペンを落とした。
「あ゛あ゛あ゛……ッ、今、何か思い出しそうに──あぁ、クソ! んなもん精々5%程度だろ!」
「……なによその数値。前提条件がバグってるわ。私の家事能力による期待利得を過小評価しないで。いい、私のアイロンがけスキルを変数に組み込んで、今すぐ計算をアップデートしなさい!」
「んなもん……ッ、知るかッ!」
脳裏をよぎった、やたらと具体的な女性像。それは氾濫のごとく押し寄せる数式に、あっけなく流されてしまったのだった。
その頃、元・女神(8)は──
「……ケチャップと豆板醤の甘酸っぱい匂い……お父さん、エビチリ食べたでしょ!? あと五目あんかけ焼きそばも! お口の端にパリパリのクズが付いてるから春巻きも食べたね!? ほのかな甘い匂いは……杏仁豆腐まで食べてる! ズルい! お父さんだけズルいよ!」
「な、なんでそこまで知ってるんだ!? ほれ、パックに詰めてもらってきたから、機嫌直せ……っ」
組合の集まりから帰ってきた父を詰っていた。




