第9話 茶館
「茉莉、明日茶館に行くわよ!」
「茶館ですね、分かりました」
明日は日曜日。学校帰りに藍子が突然言い出したことにも、茉莉は取り乱すことなく落ち着いて答えた。
「ところで、茶館てどういうところ? 名前からするとお茶が飲めるのよね?」
「知らないで言っていたのですか、藍子様?」
「今朝、お兄様達が話しているのを聞いただけで、詳しくは知らないのよ」
思いつきですぐに行動しようとするところは、いかにも藍子らしい。
「あら、そんなことも知らないんですの、星河藍子さん?」
後ろから聞き慣れた声が聞こえてきた。
「盗み聞きとは行儀が悪いわね、上弦澪子さん」
立ち止まって振り返る藍子。
「あなたこそ茶館がどういうところか知っているの、澪子さん?」
「も、もちろんですわ、お、お茶が飲める館、ですわ!」
「字、そのままじゃない」
「な、なんですって!」
「行けば分かるので、とにかく明日行ってみましょう、藍子様」
「そうですよ、澪子様」
一戦交えそうな藍子と澪子の間に、茉莉と道子が入った。
◇ ◇ ◇
そして、翌日曜日。
「私、今日はコーヒーを飲むわ!」
藍子が高らかに宣言した。
藍子と茉莉、澪子と道子の4人は、連れ立って茶館へと向かっていた。
「コーヒーこそ高貴な私に相応しい飲み物なの!」
「あら、コーヒーがどのようなものがご存じなのかしら、藍子さん?」
「当たり前でしょ! あなたこそ、コーヒーの何たるかを知っているのか怪しいものだわ、澪子さん」
早くも火花を散らす二人。
「心配いりません、藍子様。私がしっかりと調べておきましたから!」
「大丈夫です、澪子様。私にお任せください!」
茉莉と道子も諜報役としての意地をぶつけ合っている。
そして――――
「ここが茶館、なのね……」
「そう、みたいですわね……」
藍子と澪子は茶館の前で呟いた。茉莉と道子もそばで固まっている。
茶館は立派な2階建ての洋館だ。
「と、殿方ばかりですね……」
店の中を覗きながら茉莉が言った。
そう、茶館の客は大人の男性ばかりだったのだ。
男性客たちはカップを傾けながら新聞を読んだり、中には大きな声で議論を交わしている者もいる。
とても15、6歳の女学生が気軽に入っていける雰囲気ではなかった。
「帰りますか、藍子様……?」
不安いっぱいの顔で茉莉が訊いた。
「な、何を言っているの、茉莉! こ、高貴な私はこの程度のことに、ひるんだりはしないのよ!」
「こ、声が震えていますわよ、藍子さん……!」
「あ、あなただって、澪子さん……!」
などと茶館の前で4人でごちゃごちゃやっていると、
「どうかしましたか、お嬢様方?」
と、後ろから男性に声をかけられた。
「「「ひゃぁーー!」」」
藍子達は飛び上がって驚いた。
「あ、驚かせてしまって、すみません」
藍子は振り返って声の主を見た。
「た、高之瀬さん!」
そこにいたのは、エレベーターで藍子達を助けてくれた高之瀬涼二巡査だった。
「覚えていてくれたのですね」
「も、もも勿論です、命の恩人ですから!」
藍子の顔は真っ赤である。
「というか、藍子さん、なんで巡査様のお名前をご存じなの!?」
驚きから立ち直った澪子が食ってかかった。
「勿論、教えていただいたからです」
すかさず茉莉が答えた。
「と、殿方に名前を教えていただくなんて……!」
「後でお礼をしなくてはいけないでしょ?」
悔やしまぎれに言う澪子に藍子が言い返し、例のごとくいがみ合いが始まりそうなところ、
「ははは……ところで皆さん、こんなところで何を?」
と、とりなすように高之瀬涼二が訊いた。
「わ、私達、さ……」
「さ、茶館に……」
「ちょっと、私が話してるんだから!」
「あなたこそ、図々しいですわ!」
またしても一戦交えそうな藍子と澪子を横目に、
「皆で茶館に来たのですが、店内が殿方ばかりなので気後れしてしまいまして……」
と、茉莉が落ち着いて説明した。
「なるほど。確かに女学生の方だけでは入りづらいかもしれませんね」
「はい、ですので……」
「どうすれば、よろしいかと……」
藍子と澪子が進み出て高之瀬に答えた。
「そうしたら、私がご一緒させていただくのはどうでしょう? 今日は非番でたまたまここに立ち寄ろうと思っていましたので」
持ち前の爽やか笑顔で高之瀬が答えた。
「是非……!」
「お願いしますわ……!」
令嬢の嗜みはどこへやら、藍子と澪子は高之瀬に詰め寄った。
「それでは」
ということで、高之瀬に先導してもらって、藍子達は茶館に入ることができた。
「よう、高之瀬!」
入るとすぐに奥の席にいた大柄な男性が声をかけてきた。
「君も来てたのか、村野井」
高之瀬も挨拶を返す。
「あの方は、あの時の」
「はい、あの時お嬢様方の救出に携わった、私の同僚の村野井です」
藍子達が改めて村野井に礼を言うと、
「お役に立てて良かったです!」
と、その大柄な体を揺らしながら、人の良さそうな笑顔で答えた。
高之瀬と村野井のおかげで、藍子達はすっかり緊張も解けた。
「私はコーヒーにするわ!」
「私もコーヒーをいただきますわ!」
鼻息も荒く言う藍子と澪子に、
「大丈夫ですか? コーヒーは苦いですよ?」
と、高之瀬が面白がっているような顔で言った。
「コーヒーにはミルクと砂糖を入れた方が飲みやすいそうですよ、藍子様」
茉莉が懐から取り出した紙片を見ながら言った。
「高貴な私は、一切の混ぜものがないコーヒーを飲まなくてはいけないのよ!」
「そうですわ! 名家の者として当然ですわ!」
藍子も澪子も意地になって言った。
そして、高之瀬が皆の分を注文してくれた。
「早速、コーヒーを……」
「ですわね……」
藍子と澪子は、いきなりコーヒーをそのまま口にした。
「「苦っ!」」
二人は令嬢らしからぬ顔と声を晒してしまった。
「だから、言ったのに……」
そう言いながら、茉莉はミルクと砂糖入りのコーヒーを美味しそうに口にした。
「美味しい……」
道子もちゃっかりミルク砂糖入りを飲んでいる。
「さあさあ、こちらのカステラを召し上がってください」
笑いを噛み殺しながら、高之瀬が藍子と澪子にカステラを勧めた。
「美味しい!!」
「美味しいですわ!!」
甘いカステラを口にして、満面の笑みを浮かべる藍子と澪子。
「苦いコーヒーを飲んで、甘くておいしいお菓子をいただく! なんて高貴な体験なのかしら!」
「これぞ名家の者に相応しい上品なお味ですわ!」
ご機嫌な二人を見て高之瀬と村野井も楽しそうにしている。
「このクッキーというお菓子も美味しいですよ」
「ええ、カステラほど甘くはないので、ミルク入りコーヒーに合います」
道子と茉莉もそれぞれ楽しんでいるようだ。
「それにしても、高之瀬も隅に置けないなぁ」
「何がだ、村野井?」
「こんな可憐で美しいご令嬢を4人も連れてくるなんて、驚きじゃないか」
「偶然、外で一緒になっただけだよ」
面白がる村野井に顔をしかめながら答える高之瀬。
「そ、そそそうです、私達はたまたま偶然……」
「で、ででですわ! 本当に偶然に……」
慌てて否定する藍子と澪子。身内でもない男性と示し合わせて来たなどと噂が立ったら大変だ。
「これは、失礼しました、お嬢様方」
村野井はすぐに謝ったが、どこか面白がっている様子は残したままだった。
こうして藍子たち4人は、初めての茶館を心ゆくまで楽しんだ。
「ああ、素晴らしかったわ! 高貴な私も大満足よ!」
「それは良かったです」
大満足の藍子を好ましげに見ながら高之瀬が言った。
茶館を出た藍子は、無意識のうちに来た道とは反対側に歩き出していた。
そして、数町先の脇道に間違って入ろうとした。
「藍子様、そっちは……」
「えっ?」
茉莉が制止しようとした。すると、
「お嬢様……お恵みを……」
と、みすぼらしい格好の男が藍子の袖を掴もうとした。
「……!」
藍子は咄嗟のことに声も出なかった。
すると、
「離れなさい!」
と鋭く言って、高之瀬が藍子と男の間に素早く体を入れた。
「あ、あの……あの、人は……」
高之瀬が男を追い払ってくれた後も、恐怖で声が震える藍子。
「物乞いです。申し訳ありません、お嬢様。私がもっと早く注意しておくべきでした」
高之瀬が丁寧に頭を下げた。
恐怖心が薄れると、藍子を守るように肩に載せられている高之瀬の手のぬくもりが、強く感じられた。
「そ、そんなことありませんわ! 守っていただいてありがとうございます!」
妙な顔のほてりを振り払うように、藍子は元気を装って答えた。
「それにしても、帝都にあのような人がいるなんて……」
澪子が気味悪そうに言った。
「はい……彼らも法を犯しているわけではないので、我々も頭を悩ませているのです……」
村野井が渋い表情で言った。
「ゆ、許せませんわ……!」
「そうですね、我々も一層の治安の維持に努めなくては……」
高之瀬が言いかけたところで、
「違うのです! 高貴な私が住む街に、あのような人がいることが許せないのです!」
「それは、私もそう思いますが……」
藍子に同意するが、さすがにためらいがちな茉莉。
「早速、お父様に進言するわ!」
「え、進言?」
「そうよ! 帝都の貧困対策を早急に進めるべき、とね!」
これには高之瀬と村野井も驚きを隠せない様子だ。
「それはまた、どでかいことを言いなさる」
「こら、失礼だろ、そんな言い方は」
村野井の言葉を諌める高之瀬。
だが、藍子の耳にはそれも入っていないようだ。
「高貴な私に新しい目標ができたわ!」
「わ、私だって、お父様にお伝えしますわ、この現状を!」
目を輝かす藍子に澪子も触発されたようだ。
「私も警官であり、士族のはしくれでもあります。精一杯協力させていただきます」
高之瀬が真摯な表情で藍子を真正面から見つめて言った。
「士族のお家柄なのですね、高之瀬さん……」
「はい、貧乏士族ですけどね」
自虐的な笑みで答える高之瀬。
それは、帝都の未来を見据えていた藍子の心に、自らの未来の小さな光が見えた瞬間だった。




