第8話 運動会
「運動会こそ私の高貴さを示すうってつけの場だわ、そう思うでしょ、茉莉?」
今は体育の授業、運動会の行進の練習中だ。
「そうですね、藍子様はお転婆ですから」
「お転婆とは随分ね! 運動神経抜群と言ってほしいわ! でもね、私が一番期待しているのはあなたよ、茉莉」
「私、ですか?」
「そうよ。高貴な私でも足の速さではあなたに敵わないもの」
上級華族の令嬢とはいえ、藍子は元武家の家柄。
男兄弟に囲まれて育ったためか、藍子は幼い頃から運動が得意だった。
茉莉も元御庭番の士族の娘だ。足も速く、跳躍力もある。
「私が一番になれれば最高だけど、徒競走に関しては茉莉に軍配が上がるわね」
「ありがとうございます」
「自信はあるんでしょ?」
「……はい」
そう言いながらも、茉莉の表情は冴えない。
「どうしたの?」
「実は、心に引っかかることがあるのです」
「引っかかる?」
「はい……」
「はい、そこ! おしゃべりしない!」
体育の教師に注意され、話は中断された。
◇ ◇ ◇
「今度の運動会、徒競走は道子さんの優勝で決まりですわね」
「はい、お任せください、澪子様!」
休み時間に、澪子と道子が聞こえよがしに話している。
例のごとくチラチラと藍子の方を見ている。
「負けてなるものですか! ねえ、茉莉!」
「はい、仁井津さんには負ける気がしません、けど……」
先ほど同様、茉莉は言い淀む。
「さっきもそうだったわね」
「はい、気になる人がいまして」
「気になる人?」
「はい、隣のクラスの波戸裡霧絵さんのことが……」
「はとりきりえ……波戸裡って聞いたことがあるわね」
上向き加減で記憶を辿る藍子。
「はい、元忍びの名家です」
「ああ、そうだったわね。それなら茉莉が危機感を抱くのも分かるわ。それで、どうなの?」
「どう、とは?」
「決まっているでしょ、勝算よ」
「勝算ですか……」
そう言って茉莉は小さく微笑むと、少し考えてから答えた。
「勝てます、と言いたいところですが、良くて五分五分、といったところです」
「そう。負ける可能性が高いということなのね」
「はい、すみません」
「いいのよ。それに勝負はやってみなければ分からないじゃない」
「藍子様……」
「それにね、高貴な私には分かるの! あなたはきっと素晴らしい勝負をしてくれるってね!」
自信満々の笑顔で茉莉の両肩に手を載せる藍子。
「素晴らしいですわ、望田さん! 道子さんに敵わないまでも善戦しようとするその心意気!」
澪子は藍子と茉莉の会話を聞いて勘違いをしている。隣の道子も勝ち誇った顔だ。
「何を言っているの? 私はね……」
「はい、もう、休み時間は終わりですよ!」
教師が教室に入ってきて会話は中断された。
そして、その日の放課後。
「茉莉、行くわよ!」
「え、どこへですか?」
「決まっているでしょ、あなたの好敵手のところよ! 宣戦布告をしようじゃないの」
そう言って藍子は、鞄を手にすると茉莉の手を取った。
「あの、藍子様、宣戦布告なんて……落ち着いてください」
「あら、宣戦布告とは、いかにもあなたらしいですわね、藍子さん。いいでしょう、正々堂々受けて……」
「さようなら、澪子さん」
澪子に最後まで言わさずに、藍子は教室を出ていった。
「ち、ちょっと、お待ちなさいよっ!」
肩透かしを食らって顔を真っ赤にする澪子。
「波戸裡霧絵さん!」
藍子は隣のクラスの入り口で大声で呼びかけた。
「はい……?」
教室の中ほどにいた生徒が驚いたような顔をしている。
「今日はあなたに宣戦布告に来たの!」
「宣戦布告!?」
「藍子様、いきなり過ぎです!」
意味不明に堂々としている藍子を茉莉が諌める。
「ええっと……どういうこと?」
「高貴な私の親友があなたと徒競走で対決するのよ!」
「あなたの、親友?」
「すみません、私です、波戸裡さん」
申し訳なさそうに進み出る茉莉。
「望田さん……そういうことね」
茉莉を見て霧絵は、おおよその事情を理解したようだ。
「心配しないで、多分私は望田さんには勝てないわ」
「あら、早々に白旗を揚げるの?」
予想外の答えに、意外そうな顔になる藍子。
「ちょっと待って、波戸裡さん」
「なに、望田さん?」
「実力で言ったらあなたと私は同等、いえ、もしかしたら……」
「いずれ分かるわ」
そう言って霧絵は帰り支度をして、教室を出ていった。
「今のはどういうこと、茉莉?」
「分かりません……」
◇ ◇ ◇
そして、運動会の日。
藍子は障害物競走、二人三脚などで八面六臂の活躍をした。
当初は「運動なんて名家の令嬢がやるものではありませんわ」などと言っていた澪子も、
「それなら、私の高貴な活躍を指をくわえて見ていればいいわ!」
と藍子に挑発されたおかげで、生来の負けず嫌いがむくむくと頭をもたげ、それこそ、歯を食いしばって藍子に食い下がったのだった。
そして、いよいよ徒競走。期待に胸を膨らませて藍子は徒競走の選手達を見た。
その中には勿論、予選を勝ち抜いた望田茉莉、仁井津道子、そして波戸裡霧絵がいる。
「道子さん、頑張るのですよ!」
澪子が大きな声で声援を送った。
「随分と気合が入っているのね」
藍子が面白そうに言った。日頃、上品を装っている澪子にしては珍しい大声だったからである。
「あ、当たり前ですわ……!」
顔を赤らめる澪子を藍子は好ましげに見ると、
「きっと勝てるわ、茉莉! あなたは高貴な私の親友なのだから!」
と、澪子に負けない大声で声援を送った。
霧絵や他の選手にも学友からの声援が送られている。
(茉莉……!)
親友の勝利を信じてはいるものの、藍子は祈るような気持ちで両手を握りしめた。
そして、
「位置についてぇ! よぉーーい……」
バンッ!
選手が一斉に跳び出した。
距離は50間(約91m)。
やはり速いのは、茉莉、道子、霧絵の3人だった。中程に達するまでは、この3人が横一線に並んでいた。
「茉莉ぃーーーー!」
「道子さぁーーーーん!」
藍子と澪子があらん限りの声で声援を送る。
ゴールが近づくにつれ、横一線に見えた3人の間にも差が出てきた。
そしてゴール。
1位は茉莉、2位は道子だった。
霧絵は後半が伸びず、後の選手に追いつかれ4位だった。
「茉莉、やったわね! さすが高貴な私の親友だわ!」
叫びながら藍子はゴール地点の茉莉に駆け寄った。
「あ、ありがとう、ございます……はぁ。はぁ……」
膝に手を乗せて肩で息をする茉莉。
「よくやりましたわ、道子さん!」
「あ、ありがとう、ござい、ます……」
澪子も駆け寄って道子を労っている。
「それにしても、波戸裡さんは……」
藍子は霧絵を見た。彼女も茉莉や道子同様、肩で息をしている。
「それなんですが、藍子様……」
やっと息も整った茉莉が言った。
「波戸裡さんは本来の実力が出せなかったのかと……」
「え……? それはどういうこと、茉莉?」
「波戸裡さんの足元を見てください」
「足元?」
言われて藍子が見ると、霧絵は白い足袋を履いている。
「波戸裡さんは、足袋を?」
「はい、私も仁井津さんも、他の選手も皆ゴム底の運動靴ですが、波戸裡さんだけが足袋なのです」
ゴム底の運動靴は高価だ。華族と一部の裕福な士族しか持っていない。
「茉莉、正直に答えてほしいのだけれど」
藍子がいつになく静かな声で訊いた。
「はい、藍子様」
「もし、波戸裡さんが運動靴を履いていたら、あなたは勝てる?」
「……多分勝てません」
うつむき加減で答える茉莉。
「ああ、なんということなの! 高貴な私の親友の勝利は履物のおかげだったなんて!」
「すみません、藍子様」
「違うのよ! そんな不完全な勝利は高貴な私のプライドが許さないの! それに、あなたがハンデのおかげで勝てたなどと陰口を言われてしまうじゃない!」
「藍子様……」
「それじゃ、行くわよ、茉莉?」
「え……?」
藍子は茉莉を連れて、霧絵の下に向かった。
「波戸裡霧絵さん!」
「はい……?」
「あなたに再戦を申し込むわ!」
「え、再戦?」
ビシッと藍子に指をさされてキョトンとする霧絵。
「そうよ! 今回の徒競走、あなたにハンデがあったことに気づかなかったの! 高貴な私としたことがそんな大切なことに気づかないなんて、悔しいったらないわ!」
「私の落ち度です、ごめんなさい、波戸裡さん」
「え……ええ?」
藍子と茉莉の様子に何がなんだか分からなくなる霧絵。
「あなた用に運動靴を用意させてもらうわ、霧絵さん! そして、再戦よ! そうしないと私の高貴な心が納得できないの!」
◇ ◇ ◇
そして数日後の放課後の校庭。
茉莉と霧絵は改めて徒競走の勝負をすることになった。
「あの、上弦さん……?」
霧絵が戸惑い気味に訊いた。
「当然、道子さんとも決着をつけていただきますわ」
と、すまし顔で答える澪子の横には道子もいる。
「呼んでもいないのに図々しいわね」
「なんですって!?」
「藍子様、上弦様、審判をお願いします」
一波乱起こしそうな二人に茉莉が割って入った。
茉莉、霧絵、道子が横に並んだ。
「本当に良かったのかな……」
藍子が用意してくれた運動靴を見ながら霧絵が呟いた。
「勿論です。これが藍子様なのです。それに……」
「それに?」
「私も同じ条件で勝負したいです、波戸裡さん」
「そう、だね……私もよ、望田さん」
「私もですよ!」
茉莉と霧絵、そして道子は顔を見合わせて笑みを交わした。
「では、位置についてぇーー」
澪子が右手を上げる。
「よおぉーーい……ドン!」
3人が一斉に跳び出し、中間地点までは横一線で駆けていく。運動会の時と同じだ。
だが、四分の三を過ぎたあたりで、霧絵が身体一つ前に出た。
茉莉も道子も必死で霧絵に追いすがる。
だが、尚も差は広がり、霧絵が一番で最終線を駆け抜けた。
続いて身体3つ分程の差で茉莉が、そのすぐ後に道子が駆け抜けた。
「素晴らしかったわ、みんな!」
走り終わった三人に藍子が駆け寄った。
「はぁ、はぁ……すみません、藍子様……負けてしまいました、はぁ、はぁ……」
「何を言っているの、茉莉! あなたは絶好の好敵手を得たのよ!」
「藍子様……」
「最速の座を争う二人の好敵手、望田茉莉と波戸裡霧絵、その運命やいかに! ああ、高貴な私こそその座にいるべきなのに、悔しいったらないわ!」
まるで自分が芝居の主役のように振る舞う藍子に、
「ちょっと! 道子さんのことも忘れてもらっては困るわ!」
と、澪子が食ってかかった。
「あら、そうだったわね。運命の勝負にも引き立て役は必要だものね」
「引き立て役ですってぇ! きぃーー!」
「さあ、波戸裡さん、一緒に帰りましょう。これからのことを話しながら」
「これからのこと?」
こうして、藍子達は賑やかにお喋りしながら、校庭をあとにした。
――――――――
『波戸裡霧絵の日記』
星河藍子さんという人は不思議な人だ。
こちらの都合など一切構わずに人を巻き込んでいく。
今回の徒競走の再戦もそうだ。
運動会では望田さん達に勝てるとは思っていなかった。
帝都女学校に通う生徒は比較的裕福な家の者が多い。
そういう家の者は、運動会という晴れの舞台では高価な運動靴を履いてくる。
我が波戸裡家は貧しい。運動会のために運動靴を用意してもらうなどとてもできない。
でも、それは仕方のないことだ。私も納得している。
なのに星河さんは違った。彼女の親友の望田茉莉さんの勝利が完全無欠でないと納得できないのだそうだ。
そして星河さんは私に運動靴を貸してくれた。
初めて履く運動靴は、自分を全く別の世界に連れて行ってくれた。
再戦で、私は望田さんに勝つことができた。ついでに仁井津道子さんにも。
星河さんは、望田さんが負けたにも関わらず、嬉しそうだった。
そして、これからのことと星河さんが言ったのは、陸上競技部の創設だった。
その陸上競技部の初代部長を私がやるように、と彼女は言うのだ。
思ってもみなかったことだが、いざ言われてみると、俄然興味が湧いてきた。
気が付くと「やってみる」と私は答えていた。
やはり私は、走ることが好きなのだと、自分の気持ちの奥底の欲求を知ることになった。
追記 : 後日、部室としてあてがわれた小部屋に、10足程の運動靴が届けられた。星河さんのご実家からの寄付とのことだった。




