第18話 お化粧競争
「はぁーー………」
4月のある日の昼休み、ベンチに腰掛けた藍子は珍しく大きなため息をついた。
「どうしたんですか、藍子様? 焼きそばパンが売り切れでコロッケパンになってしまったのが、そんなに悲しいのですか?」
「違うわよ! まあ、それもちょっと悲しくはあるけど」
茉莉の言葉にショックを受けながらも、しっかりコロッケパンを食べる藍子。
「実はね、お母様にお化粧を覚えなさいって言われたの」
「お化粧ですか」
「ええ。茉莉は言われてない?」
「いずれは覚えなさいとは言われてます」
「やっぱり、そうよね」
そこで、またため息をつく藍子。
「お化粧が嫌なのですか?」
「嫌ではないわ、けどね」
「何かあるのですか?」
「今度、授業参観があるでしょ?」
「はい」
「そのためなのよ、お母様がお化粧しなさいって言うの」
「なるほど、そういうことですか」
「そう、そういうことよ」
授業参観。帝都女学校に通う女子生徒の母親が見に来る。
だが、授業参観には女子生徒の母親以外の御婦人も来るのだ。
「独身のご子息のお母様方も来るそうですね。お嫁さん探しに」
「そうなのよ! 息子のお嫁探しに来ている御婦人の気を引くためにお化粧をするなんて、高貴な私のプライドが許さないわ!」
藍子は立ち上がって拳を握りしめた。
「だから、私はお化粧無しで勝負するわ!」
「要はお化粧が面倒臭いのですね」
「ち、違うわよ! ちょっと苦手というだけよ!」
「そんなことでよろしいのかしら、藍子さん」
狙いすましたように澪子が話に入ってきた。
「そう言うあなたはお化粧に自信があるのかしら、澪子さん?」
「もちろんですわ。名家の娘としての嗜みですもの」
「むむ、お母様と同じことを言うのね」
一本取られて、しょげた顔になる藍子。
「それに授業参観というのは方便で、実質的には嫁候補品評会ですもの」
「随分と達観してるのね」
冷めた表情の澪子を目を丸くして見る藍子。
「華族の令嬢の宿命ですから」
そう言う澪子には、いつもの覇気が見られない。
そんな、澪子をじっと見ていた藍子が、
「よし、決めたわ!」
と、大きな声で言った。
「何をですの?」
「お化粧よ!」
「お化粧?」
「そう、誰が一番上手にお化粧ができるか、競争するのよ!」
「何でそんなことをしますの?」
「そうすれば、つまらない授業参観も楽しくなるでしょ!」
「だとしたら、猛特訓が必要ですね、藍子様」
「ぐっ……鋭いところを突くわね、茉莉」
藍子と茉莉のやり取りを見て澪子の顔にも明るさが戻ってきた。
「分かりましたわ。やりましょう、お化粧競争」
「勝負よ、澪子さん!」
「望むところですわ、藍子さん!」
こうして、いつもの藍子と澪子になるのだった。
◇ ◇ ◇
その日の下校時の校庭でのこと。
「ああは言ったけど、どうしようかしら」
「え、何か考えがあるんじゃなかったのですか?」
「無いわよ」
あっさりと茉莉に答える藍子。
「まさか、本当に無かったなんて」
「高貴な私が全力で特訓すれば何とかなるわ!」
などと話しているところ、藍子たちの前を歩いていた女生徒が、1枚の紙を落とすのが見えた。
「あなた、落としたわよ!」
そう声をかけながら、藍子は小走りで駆け寄って落ちた紙片を拾った。
藍子が何気なく見ると、それは化粧品のチラシだった。
「あ、どうもありがとう」
女生徒が振り返って言った。
「これ、お化粧品のチラシよね?」
「うん、そうだけど」
「あなた、お化粧に詳しいの!?」
「え、えっと……」
藍子ぐっと顔を近づけられて戸惑う女生徒。
「顔が近すぎます、藍子様」
「あ、ごめんなさい、私、1年1組の星河藍子よ!」
茉莉の言葉に我に返る藍子。
「1年3組の藍原千夜子です」
「千夜子さん、あなたにお願いがあるの!」
自己紹介もそこそこに、またしても千夜子に迫る藍子。
「お願い、って、私に……?」
「私にお化粧法を伝授してほしいの!」
「で、伝授?」
「藍子様、話が急すぎます」
怯えたように身を引く千夜子を見て、茉莉がたしなめる。
それではと、歩きながら話を始めた。
「お化粧競争かぁ、なんだか楽しそうね」
藍子の話を聞いた千夜子は興味を持ってくれたようだ。
「でしょう? 競争となると私の高貴な心が訴えるのよ! 勝つべし、てね!」
「ふふ、随分と大げさね」
「これが藍子様の通常運転です」
ツッコミを忘れない茉莉。
「でも、私は雑誌の記事や広告のチラシを見て憧れてるだけだから……」
「私なんか、チラシすら見たことないわ!」
「威張らないでください、藍子様」
「星河さんみたいなお家柄なら出入りの業者さんに教わったほうが……」
「それではだめなのよ!」
「え!?」
強烈に反対されて目を丸くする千夜子。
「敵と同じ方法で勝っても意味はないの! 高貴な私は独自の方法で勝たなくては気がすまないのよ!」
「そういうもの、なの……?」
「そういうものなんです」
茉莉が解説を入れる。
「なので、今度の土曜日の午後に私にお化粧を教えてくれる、千夜子さん?」
「え、ええ、私でよければ……」
「私がお迎えに行きますね」
そして、土曜日の午後。
千夜子と茉莉は、それぞれ大きな風呂敷包みを持って藍子の屋敷にやってきた。
「それって、お化粧の……?」
「ええ、母や知り合いからもらった雑誌や、チラシなの。集めてたらいつの間にかこんなに増えちゃって」
はにかんだように微笑む千夜子。
「素晴らしいわ! なんて高貴なの!」
目をキラキラさせて、婦人雑誌や美容雑誌、化粧品チラシを手に取る藍子。
「でも、私、実際の化粧品はお母さんが持っている白粉と紅くらいしか知らないの。私の家、あまりの裕福じゃないから……」
「全然大丈夫よ! 足りないものは後で一緒に買いに行きましょう!」
「え、いいの?」
「勿論よ! 千夜子さんと茉莉も私が買った新しいお化粧品を使うのよ! 失敗する時は死なば諸共なんだからね!」
「物騒なことを言わないでください、藍子様」
こうして、三人の娘たちの賑やかなお化粧特訓が始まった。
「まずは、白粉よね!」
そう言いながら、藍子は勢いよく白粉を塗りたくっていった。
「なんだかお化けみたいになっちゃったわ……」
鏡を見てがっかりする藍子。
「そこは、頬骨や顎の形に合わせて塗り方を変えるといいみたい」
化粧法の記事を見ながら解説をする千夜子。
「なるほど……」
ちゃっかり者の茉莉は、藍子の失敗の様子を見て、頷きながら白粉を塗っている。
「してやられたわ!」
そんな茉莉を見て奮起する藍子。
こうして、お互いの出来栄えを見せ合いながら化粧を進め、
「中々いい感じになったわよね、私達!」
と、自画自賛しあえるところまで進んだ。
ひと通り化粧をした後は、3人で化粧法や美容法の記事を読んだ。
「この色付き白粉って素敵じゃない?」
「私はニキビが気になるので美顔水を使ってみたいです」
「お肌のお手入れは大事ね。保湿クリームもいいって記事に書いてあるわ」
そこに、お茶と菓子を持った女中と共に、藍子の母、星河鈴子が部屋に入ってきた。
「お化粧の特訓は捗っているかしら?」
「ええ、お母様!」
元気よく答える藍子の顔を見て、
「うーーん……ぎりぎり及第点、といったところかしら、ね」
と、複雑な表情になる鈴子。
「これから、私達はもっと上達するわ! ね?」
そう言って、茉莉と千夜子を見る藍子。
「だから、明日、デパートメントにお化粧品を買いに行きたいの、いいでしょう、お母様?」
「随分と積極的になったのね、藍子。いいわ、いってらっしゃい」
そう言うと、鈴子は千夜子を見て微笑むと、
「あなたのおかげね、藍原さん。この子がお化粧に興味を持ってくれて安心したわ」
「い、いえ、そんな……」
「お母様も授業参観に来るの?」
「勿論よ。あなたのお兄さんのお嫁さん候補を見つけなきゃいけませんからね」
「お兄様のお嫁さん!?」
「そうよ。だから、あなたもそういう目で見られるのだということを、心に留めておくのですよ、藍子」
「はい、お母様」
素直に答えたものの、どことなく覇気が薄れてしまった藍子。
「藍子様、何か気になることでも?」
鈴子達が出ていった後で茉莉が遠慮がちに訊いた。
「ううん、何でもないわ! 明日が楽しみね、茉莉、千夜子さん!」
と、いつもの元気を取り戻して答える藍子だった。
◇ ◇ ◇
授業参観の前日の放課後の玄関先で。
「今日は茉莉さんは一緒ではないの
かしら?」
澪子が藍子に話しかけてきた。
「ええ、今日は士族の会があるからって、先に帰ったわ」
「道子さんも同じですわ」
そして、2人は揃って校舎から出て歩き出した。
「ねえ、澪子さん」
「なにかしら、藍子さん?」
「えっと……私、頑張って特訓したの、お化粧!」
「私もですわ!」
「負けないわよ!」
「私だって負けませんわ!」
いつも通りの調子で言い合うと、なぜか可笑しくなって、2人で笑い出してしまった。
しばらく歩いた後、藍子が言った。
「お母様がね、授業参観にお兄様のお嫁さん候補を探しに来るんだって」
「私のお母様もそうですわ」
「だからね、私もそのつもりでいなさいって」
「私も言われてますわ」
「そういうものなのよね、私達って」
「そうですわね」
そして、しばらく無言で歩いてから、再び藍子が言った。
「もし……」
「もし?」
「もし、私達が華族の娘じゃなかったら、って考えたことはある?」
「そんなことは……」
「考えたことない?」
「少しは、ありますわ……ほんの少し……」
やがて、ふたりが別れる角に着いた。
「私ね、澪子さんとの勝負大好きなのよ、絶対に勝ってやるって」
「私もですわ」
お互いに言うと、不敵な笑みを交わした。
「なのに、今度の勝負は勝てなくてもいいかな、なんて思っちゃって……変よね
ははは……」
「私もですわ……不思議ですわね、ふふ……」
そして、藍子と澪子は、笑いながら手と手を合わせて、それぞれの家路へと向かった。
明日の、授業参観という女学生にとっての試練に、心を揺さぶられながら。




