第4話 主にふさわしい服を②
脱衣所で服を脱ぎ、手拭いを身体の前に持って浴場へ入る。
白い湯気の向こうに、いくつもの洗い場と大きな湯船が見えた。石の床には温かな湯が流れ、人々の声が高い天井へ響いている。
「わぁ……」
こんなにたくさんのお湯を見たのは初めてだった。
周りの人を真似て小さな椅子へ座り、桶で身体へ湯をかける。置かれていた石鹸を手に取ったものの、どう使えばいいのか分からない。とりあえず腕へ擦りつけ、次は髪の表面を撫でてみた。
「おい、お前!」
「は、はい!」
背後から低い声をかけられ、身体が跳ねた。
振り返ると、短く刈った茶色い髪と、頬に傷のある青年が立っていた。肩幅が広く、腕も僕の胴ほど太い。怒っているように見える顔で、こちらをじっと見下ろしている。
やっぱり、僕みたいなのが入ってきたら迷惑だったんだ。
「貧民街の子だな?」
「……はい。ごめんなさい」
「なんで謝るんだよ」
青年は呆れたように頭をかいた。
「せっかく金を払って入ったんだろ。そんな洗い方じゃ、ちっとも綺麗にならねえぞ」
「でも、やり方が分からなくて……」
「まず石鹸を手で泡立てる。髪は表面を撫でるだけじゃ駄目だ。指を根元まで入れて、頭の皮を揉むように洗うんだよ」
言われたとおりにやってみるが、泡はすぐに消えてしまった。髪へ指を入れようとしても、固まった汚れに引っかかってうまく動かない。
「違う違う。ああ、もう、じれってえな」
青年は僕の後ろへ座り、石鹸を手の中で泡立てた。
「目は閉じてろ。俺が洗ってやる」
「いいんですか?」
「放っておいたら、日が暮れても終わらなさそうだからな」
大きな手が、僕の髪をわしゃわしゃと洗い始めた。
少し乱暴なのに痛くはない。指が頭を揉むたび、固まっていた汚れが落ちていくのが分かった。
「気持ちいい……」
「そうだろ。髪はちゃんと洗えば気持ちいいんだ」
何度も湯で流し、泡が黒くならなくなるまで洗ってもらった。身体の洗い方も教わり、最後に頭から湯をかけてもらう。
「よし。これですっかり綺麗になったな」
「ありがとうございます!」
「礼はいいから、ほら。次は湯船だ」
青年に連れられ、僕は大きな湯船へ入った。
足先から身体を沈めると、温かさが全身へ染み込んでくる。冷えて固まっていた身体が、少しずつほどけていくようだった。
「気持ちいい……」
「お前、そればっかりだな」
青年は豪快に笑い、僕の隣へ肩まで浸かった。
「そういや、俺はオリバーってんだ。お前は?」
「コルジです。いろいろありがとうございます、オリバーさん」
「気にすんな。俺も元は別の街のスラム出でな。放っておけなかっただけだ」
「今も、貧民街に住んでいるんですか?」
「いや。今は冒険者として、そこそこやれてる」
「冒険者……」
聞いたことはある。
街の外へ出て魔物を倒したり、危険な場所へ入り、依頼をこなしてお金を稼ぐ人たちだ。
「興味があるのか?」
「僕にも、できるでしょうか?」
「やめとけ、やめとけ。今のお前じゃ、最初の仕事で死んじまうぞ」
「そう、ですよね……」
分かっていたはずなのに、胸が少しだけ沈んだ。
「そんな顔すんな。今すぐは無理って話だ」
オリバーさんは湯船の縁へ腕を乗せた。
「本気でやりたいなら、どこかのクランへ入って、雑用をしながら鍛えてもらう手もある」
「クラン、ですか?」
「ああ。複数の冒険者が集まって作る組織だ。戦う奴だけじゃねえ。荷物を運ぶ奴、飯を作る奴、道具を直す職人なんかを抱えてるところもある」
「冒険者じゃなくても、入れるんですか?」
「クラン次第だな。でかくて実績のあるところには、冒険者ギルドや貴族から直接仕事が来る。そうなりゃ、裏方の人手だって必要になるさ」
「すごい……」
戦える人だけではない。
いろいろな人が集まり、互いに助け合って仕事をする場所。
それなら、今の僕にもできることがあるのかもしれない。
「オリバーさんも、クランに入っているんですか?」
「俺は入ってねえよ。誰かに命令されるのが苦手でな」
オリバーさんは笑いながら湯船から立ち上がった。
「さて、俺は先に上がる。お前も、あんまり長く入ってのぼせるなよ」
「はい。ありがとうございました、オリバーさん!」
「またな、コルジ」
大きな背中が湯気の向こうへ消えていく。
僕は教えてもらった言葉を、もう一度心の中で繰り返した。
クラン。
今までの僕には、縁のないものだと思っていた。
◇ ◇ ◇
浴場から上がり、ルキアさんから渡された包みを開いた。
生成りのシャツは肌へ触れても痛くなく、濃紺のズボンは腰紐で身体に合わせられる。靴下を履いてから革の短靴へ足を入れると、今までの靴とは違って、どこも擦れなかった。
壁に掛けられた曇った鏡の前へ立つ。
「これが……僕?」
汚れの落ちた黒髪は、光を受けて艶やかに輝いていた。泥に隠れていた顔は思っていたより白く、鏡の中では淡い紫色の瞳が大きく見開かれている。
着ている服も、鏡に映る顔も、自分ではないように思えた。
恐る恐る浴場の外へ出ると、ルキアさんはすでに入口のそばで待っていた。
白銀の鎧と剣は消え、代わりに黒を基調にした、見慣れない騎士服をまとっている。高い襟元と胸元には銀色の留め具が並び、細く絞られた腰から、長い後ろ裾が流れるように伸びていた。
濡れた白銀の髪が黒い衣装の上で輝き、浴場へ入る前よりもずっと綺麗に見える。
「ごめんなさい。待たせましたか?」
「いや、私も先ほど出たところだ」
ルキアさんは僕を見るなり、碧い瞳を大きく見開いた。
「主よ。湯浴みの前から良い男だったが、今はさらに磨きがかかったな」
「そ、そんなことないです」
「何を言う。艶やかな黒髪に、淡いアメジストの瞳。これならば、どこへ出しても恥ずかしくない」
「僕は、どこにも出されませんよ……?」
「そういう意味ではないのだが」
ルキアさんは困ったように笑い、それから僕の髪を優しく撫でた。
「よく似合っている。選んだ甲斐があった」
「ありがとうございます、ルキアさん」
僕が笑うと、ルキアさんも嬉しそうに頷いた。
◇ ◇ ◇
空き家へ戻ってから、僕は改めてルキアさんの姿を見た。
「そういえば、ルキアさんの鎧と剣はどうしたんですか?」
「ああ。浴場へ入る前に気づいたのだが、どうやらこのように出し入れできるらしい」
ルキアさんの身体が淡い光に包まれた。
黒い騎士服を覆うように光が集まり、次の瞬間には、白銀の鎧が全身へ装着され、腰には剣が下がっていた。
「すごい!」
「私自身にも仕組みは分からない。召喚された際に与えられた力のようだ。以前の私には、このような芸当はできなかったからな」
再び淡い光が瞬くと、鎧と剣が消え、黒い騎士服姿へ戻った。
「これなら、着替えるのも早いですね」
「召喚時に身につけていた装備だけのようだが、戦いの備えとしては非常に有用だ」
ルキアさんは自分の腕や肩を確かめ、満足そうに頷いた。
外が暗くなる頃には、身体の奥に重い疲れが残っていた。食事と湯浴みを終えても、まだ本調子ではないらしい。
「今日はもう眠ろう、主」
「でも、毛布は1枚しかありません」
「何も問題はない」
ルキアさんは床へ座り、毛布を広げると、僕を自分の隣へ招いた。
言われるまま横になると、背中から腕が回される。ルキアさんが僕を胸元へ抱き寄せ、その上から2人へ毛布をかけた。
「こうすれば寒くないだろう?」
「う、うん……」
黒い衣服越しに伝わる身体は温かかった。
それに、湯浴みを終えたルキアさんからは、花と石鹸が混ざったような香りがする。抱きしめられていると、身体から余計な力が抜けていった。
「ルキアさん、お風呂に入ったからかな。前よりも、もっといい匂いがします」
「そ、そうか」
頭の上から聞こえた声が、わずかに上ずった。
僕はオリバーさんから聞いた話を思い出す。
「ルキアさん。クランって知っていますか?」
「ああ。戦士や魔術師が集まり、同じ目的のために動く組織だな」
「戦えない人も、そこで働けることがあるそうです」
「主は、クランに入りたいのか?」
「分かりません。ただ、いろいろな人が集まって助け合う場所なら、少し気になります」
僕には、できないことがたくさんある。
けれど、誰かと一緒なら、できることもあるのかもしれない。
ルキアさんの腕に、少しだけ力がこもった。
「ならば、いつか主にふさわしいクランを見つけよう」
「うん……」
「もし見つからなければ、主自身が作ればよい。その時は、私が最初の1人となろう」
「僕が、クランを……?」
そんな大きなこと、自分にできるとは思えなかった。
それでも、ルキアさんの声を聞いていると、ほんの少しだけ想像してみたくなる。
この崩れた空き家に、いろいろな人が集まっているところを。
「おやすみ、我が主」
「おやすみなさい、ルキアさん」
髪を撫でる指の感触と、ルキアさんの温もりに包まれながら、僕は眠りへ落ちていった。
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