第20話 魔境から逃げるもの
朝食を終えると、エマさんが僕の上着を差し出した。袖にあったほつれはきれいに縫い直され、破れかけていた裾にも当て布がしてある。
「これなら、しばらくは大丈夫だと思います」
「ありがとうございます。前より丈夫になったみたいです」
「裁縫道具のおかげです。こちらこそ、使わせていただいてありがとうございます」
エマさんはまだ長く立っていると疲れるものの、顔色は前よりよくなっていた。ノアとリナは僕たちの昼食用のパンを収納袋へ入れ、忘れ物がないか何度も確かめている。
「コルジ兄ちゃん、今日は何を倒すの?」
「まだ決まってないよ。ギルドへ行って、受けられる依頼を探すんだ」
「帰ってきたら聞かせてね!」
「うん。危なくない話だけね」
僕が答えると、リナは少し不満そうに頬を膨らませた。ルキアさんとカレンさんが支度を終え、僕たちは3人で冒険者ギルドへ向かった。
◇ ◇ ◇
ギルドへ入ると、依頼板の前にいつもより多くの冒険者が集まっていた。
畑へ現れた角兎、街道付近で目撃されたゴブリン、家畜を襲った獣型の魔物。バルバーナ魔境周辺の討伐依頼が、板の半分近くを埋めている。
「こんなに多かったでしょうか」
「数日前より増えておりますね」
カレンさんが依頼札を見比べる。受付へ向かうと、いつもの女性が僕たちに気づき、少し困ったように笑った。
「今日は魔境の外へ出てきた魔物の報告が多いんです」
「何かあったんですか?」
「まだ分かりません。餌が減った時期や縄張り争いが起きた時には、外縁部へ移動することもありますから。ただ、今日は奥へ入りすぎないでくださいね。異常があれば、依頼を中断して戻ってください」
僕たちは街道近くに現れた角兎の討伐依頼を選んだ。受付の女性は依頼札を確認すると、もう一度バルバーナ魔境へ近づきすぎないよう念を押した。
◇ ◇ ◇
南東の門を出て街道を進み、依頼書に書かれた目撃地点まで来た。角兎の姿はなかったが、カレンさんが街道脇に小さな足跡を見つける。跡を追うと、バルバーナ魔境の外縁部へ続いていた。
森の中は、妙に静かだった。枝葉を揺らす風の音はあるのに、鳥の鳴き声も虫の羽音もほとんど聞こえない。
「以前来た時と違いますね」
「はい。生き物の気配が薄すぎます」
カレンさんが地面へ膝をつき、湿った土に残る跡を調べた。小さな足跡と、人に似た裸足の跡が、どちらも森の外へ向かって重なっている。
「こちらは角兎、こちらはゴブリンでございます」
「同じ方へ向かっていますね」
「はい。数も少なくありません」
ルキアさんは森の奥へ顔を向け、しばらく黙っていた。
「獲物を追う足取りではないな」
「では、何をしているのでしょうか」
「逃げている」
低い声が落ちた直後、茂みの奥から枝の折れる音が近づいてきた。
「何か来ます」
カレンさんが僕の前へ出る。ルキアさんも片手を上げ、いつでも鎧を呼び出せるよう構えた。
最初に飛び出してきたのは、4匹の角兎だった。僕たちを見ても角を向けず、そのまま脇を駆け抜けて森の外へ消えていく。
続いて現れたのは、3匹のゴブリンだった。1匹は腕から血を流し、もう1匹は肩で息をしている。こちらへ気づいたゴブリンは足を止めかけたが、武器を構えることもなく角兎と同じ方向へ走り去った。
「ゴブリンまで……」
「我らに構う余裕もないようだ」
ルキアさんは追おうとせず、魔物たちが消えた方角を見送った。
依頼の対象は角兎だった。追えば倒せたかもしれない。それでも、森の奥から何が迫っているのか分からない今、逃げる魔物を追う方が危険だった。それに、何かから必死に逃げている背中へ刃を向ける気にもなれなかった。
「奥に、何がいるんでしょう」
「確かめに向かうべきではございません」
カレンさんがすぐに答えた。
「森の様子と足跡だけでも、ギルドへ報告する価値はございます。ここから先へ進めば、戻れなくなる可能性もございます」
「うむ。主よ、今日は退くべきだ」
「分かりました。街へ戻りましょう」
◇ ◇ ◇
魔境を離れて街道へ戻ると、遠くから地面を叩く音が聞こえてきた。
音は急速に大きくなり、背後の林から茶色い巨体が飛び出す。大きな牙を持つ猪の魔物で、背中には深い傷が走っていた。
魔物はこちらを見ていない。街道の先だけを見て、土を蹴り上げながら突進している。
「あの先に荷車があります!」
街道の曲がり角で、荷車を引いていた男が振り返った。馬が悲鳴を上げ、御者台の男が手綱を引くものの、道幅が狭くて逃げる場所がない。
「ご主人様、こちらへ」
カレンさんに腕を引かれ、僕は街道脇へ下がった。その前へルキアさんが踏み出す。
「私が止める」
ルキアさんの全身を白銀の光が包み、鎧が現れた。彼女は街道の中央へ立ち、迫る魔物の牙を両手で受け止める。
土が大きく抉れ、ルキアさんの靴が地面へ沈んだ。それでも彼女の身体は後ろへ下がらず、魔物の足だけが空しく土を掻いている。
「カレンさん!」
「承知しております」
カレンさんの短剣が魔物の前脚へ突き刺さった。体勢を崩した巨体を、ルキアさんが牙ごと横へ投げ飛ばす。
魔物は街道脇へ転がり、それでも起き上がろうとした。ルキアさんが一歩で距離を詰め、光をまとった剣を首元へ振り下ろす。
巨体が動かなくなったのを確かめ、僕たちは荷車へ駆け寄った。
「怪我はありませんか?」
「あ、ああ。馬も無事だ。助かったよ」
御者台から降りた男は、倒れた魔物を見て顔を強張らせた。
「牙猪が、こんな場所まで出てくるなんて……」
「牙猪という魔物なんですか?」
「バルバーナの奥にいる魔物だ。普段なら、街道近くで見るような奴じゃない」
男の言葉を聞いた時、視界の端で光が瞬いた。
【街道へ飛び出した牙猪を討伐し、荷車を守りました:+10】
【貢献ポイント:14/100】
ルキアさんが牙猪の死体を街道から離れた場所へ移し、カレンさんが魔石だけを素早く回収した。依頼の角兎は1匹も倒していない。それでも、今見たことを早く伝えなければならないと思った。
「依頼は終わっていませんけど、ギルドへ戻りましょう」
「よい判断だ、主よ。報酬よりも、今見たものを伝える方が先である」
「わたくしも賛成でございます」
荷車の男へ街まで同行することを伝え、僕たちは来た道を引き返した。
◇ ◇ ◇
ギルドへ戻ると、僕は受付の女性へ森で見たことを順番に話した。
角兎とゴブリンが同じ方向へ逃げていたこと。森から鳥や虫の気配が消えていたこと。普段は奥にいる牙猪が、傷を負ったまま街道へ飛び出してきたこと。
受付の女性は途中で口を挟まず、紙へ書き留めていく。最後まで聞くと、近くの職員を呼び、記録を奥の部屋へ運ばせた。
「報告ありがとうございます。角兎の依頼は未達成になりますが、今回は異常報告を優先してくださったので、途中で切り上げたことは問題ありません」
「何が起きているんでしょうか」
「まだ、はっきりとは言えません。今日はもう魔境へ近づかず、城へ戻ってください」
受付の女性は笑おうとしたが、口元がわずかに強張っていた。
その時、入口の扉が勢いよく開いた。
「南東監視所から緊急報告です!」
土埃にまみれた兵士が駆け込み、封をした紙を職員へ差し出す。奥から出てきた男が封を切り、紙面に目を走らせた途端、顔色を変えた。
「バルバーナ方面の依頼をすべて止めろ。採取も討伐もだ」
受付の女性が依頼板へ駆け寄り、札を外し始める。他の職員も続き、さっきまで並んでいた討伐や採取の依頼が、次々に板から消えていった。
「何があったんですか?」
僕が尋ねても、受付の女性は手を止めなかった。
「今はまだ、お伝えできません。3人とも、すぐに帰ってください」
彼女の手には、外した依頼札が強く握られていた。
バルバーナ魔境へ向かう依頼は、1枚も残っていなかった。
―――
【今回の貢献ポイント】
・街道へ飛び出した牙猪を討伐し、荷車を守った:+10
獲得ポイント:10
所持ポイント:14/100
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