夏隣②
ローファーに足を滑り込ませ、扉を開けると、夏の光が視界いっぱいに広がった。
空は白く霞み、遠くの輪郭がわずかに滲にじんでいる。昨夜の雨を残した地面が、苛烈な日だまりの中で鈍く輝いていた。
緩い坂道に出ると、蝉の声が一気に押し寄せてくる。
「もう帰りたい……」
毎年、今が一番暑いような気がしている。テレビのニュースが「十年に一度の猛暑」だの「三十年に一度の酷暑」だのと言い立てるのを何度も聞いてきたが、結局のところ、毎年等しくうだるように暑いのだ。
いっそ夏休みを前倒ししてくれたらいいのに――。
紬は漏れそうになった息を飲み込むように天を仰ぎ、歩き出した。
今日は夏休み前日の登校日。待ち合わせもないのだから、もう少しゆっくり家を出ても構わない。それなのに、いつもの時間でなければ、どうにも足取りが定まらなかった。
――ほんと、融通が利かないな。
我ながら面倒な性格だと思う。自分でも呆あきれてしまうほどに。そのどうしようもなさに苦笑し、歩きながらふっと口元を緩めた。こうして一人の通学路で、あれこれと思考を巡らせては不毛な脳内裁判を始めてしまうのも、昔からの彼女の癖だった。
考えごとをしていても、足は勝手に正しい道へと進んでいく。
村の道には、朝の生活音が点々と浮かんでいた。
洗濯物のはためく音。ホースから弧を描く水しぶき。家々の間を縫うように、細い水路がきらりと光る。
畦道では、赤いランドセルを背負った班長らしき女の子が「帽子!ちゃんと被って!」と声を張り上げていた。その後ろで虫かごを掲げる子どもの背中が、まっすぐに陽射しを受け止めている。紬は、それらを横目に通り過ぎる。
少し先の畑では、腰の曲がった老人が黙々と鍬を振るっていた。挨拶を交わすほど近くはない。それでも、その姿があるだけで、この朝が〝いつも通り〟なのだとわかる。
「平和だなぁ……」
思わずそんな言葉が口をついていた。
目の前に広がっているのは、まるで絵に描いたような、歪みのない田舎の朝だ。
それなのに、その完成された風景を見つめていると、なぜか自分だけがこの世界に取り残されているような、奇妙な焦燥感が胸の奥をかすめていくのだった。
「おはよう、紬ちゃん」
ふいに横から声をかけられ、紬は小さく肩を跳ね上げた。見ると、生垣の向こうから近所のつや子さんが顔を覗かせている。
「あっ、おはようございます……」
咄嗟に出てきたのは、そんな愛想のない返事だけだった。つや子さんは優しく目を細めて会釈を返すと、そのまま自宅の玄関へと引っ込んでいく。
――今日も暑いですね、くらい言えばよかった。
遠ざかる背中を見送りながら、紬は小さく唇を噛む。いつも、あと一言が足りない。そんな不器用さに、さっそく今日最初の反省会を始めながら、再びローファーの踵を鳴らして歩き出した。
ここ、巻桑村は、平地の果てから山が壁のように立ち上がる、地図の端の小さな村だ。
由緒ある神社と、毎年同じ顔ぶれが集まる祭りが残っている。古いしきたりの匂いが、まだあちこちに染みついていた。
朝の光が山の稜線に溶けるように、薄い霧が漂っている。水田は空を映し、風が渡るたび、きらめきが細かく揺れた。
やがて、遠くに学校の校舎が見えてくる。その背後には、村を象徴するように山がそびえていた。校舎と山のあいだには、ゆるやかな緑の斜面が続いている。山の中腹には、古い旅館と小さな美術館が寄り添うように建ち
並ぶ。
その山は、いつも背景として「そこ」にある。遠足で何度か登ったことのある、ごくありふれた山。けれど、夏だけは、その緑がやたらと濃く見えるのだった。葉の一枚一枚が朝日に照らされ、濃淡の層をなして揺れている。
湿気でスカートが足に張りつき、紬は小さく顔をしかめる。湿気が多い朝は、どうにもこうした些細な不快感が増える。エアコンの効いた教室に入れば、きっとすぐに忘れてしまうのに、それまでは逃げ場がないのだ。
「あーもうっ……最悪……」
――そのとき。
紬は、ふと足を止めた。
山の中腹辺りに、誰かが立っているような気がしたのだ。
けれど、あんな場所から人が見えるはずはない。紬は目を細める。もう一度見ると、そこにはただ、いつもの濃い緑が広がっているだけだった。
「影……かな」
額の汗を手の甲で拭ぬぐいながら、紬は再び学校へ向かって歩き出した。




