夏隣③
「つむぎー!! おはよー!」
背後から、ぱたぱたと軽い足音が近づいてくる。
振り返らなくてもわかる、鈴を転がしたような張りのある声。紬は歩幅を緩め、肩越しにその声を待った。
「あこ。おはよう……。遅れるんじゃなかったの?」
「急げば間に合うかもーって思って! 走ってきた! あっつーい!」
あこは肩を上下させて息を荒げながらも、満面の笑みを浮かべていた。彼女が来ると、それだけで空気が弾むようだった。
「無理しなくていいのに」
「えー。だって、紬と一緒に登校したいじゃん。ほら、行こ!」
あこが紬の制服の袖をぐいっと引く。二人は歩調を合わせ、再び緩やかな坂道を歩きはじめた。
──いつも一緒に登校してるんだから。
そう言いかけて、紬は言葉を呑み込んだ。「夏休み前日の登校は今日しかないでしょ!」というあこの茶目っ気たっぷりの反論が、容易に想像できてしまったからだ。
並んで歩く二人の影が、朝の光に引っ張られてアスファルトの上に長く伸びていく。重なったり離れたり、ゆらゆらと陽炎のように揺れながら。
「ねえ紬、夏休みに入ったらさ、どっか行こうよ! 海とか、山とか!」
「えー?山?毎日見てるのに?ていうか、暑いよ」
「あはは、確かに! じゃあ新しくできたカフェは?! 映画も! あ、夜お祭りもあるじゃん!今年こそ行こ、浴衣着てさ!」
「いいけど……行くまでに宿題、半分くらいは終わらせてよ?」
はしゃぐあこに、紬は小さく肩をすくめて釘を刺す。
するとあこは坂道の途中でくるりと身を翻し、器用に後ろ向きに歩きながら紬の顔を覗き込んできた。
「大丈夫! 紬と一緒にやるから!」
にっと笑う屈託のない笑顔。その眩しさに、胸の奥がくすぐったくなった。あこの毛先がふわりと跳ね、その向こうで朝露がガラス玉のように煌めいていた。
「転んでも知らないからね」
「転ばないし! もう、紬はなんで夏休み前なのにそんなにローテンションなのさー」
「……そう?」
「そうだよ! あこなんて、楽しみすぎて昨日眠れなかったんだから!」
言われてみれば、あこの瞳の奥にはうっすらと寝不足の陰りがある。
「子どもじゃないんだから……」
「まだ子どもですー! もう、紬は昔からそうだけど〜」
あこは頬を膨らませ、不満げな表情をしてみせた。
(そんなの──)
あこだって、と紬は心の中で呟く。
あこは、昔からこうだった。
誰の輪にいても気づけば中心にいる。人を笑顔にする、その天性の明るさが、時々ほんの少しだけ羨ましかった。
気づけば幼い頃からあこと共に過ごしてきた。彼女が涙を流した姿を見たのは、長い記憶の中でたったの二度しかない。
──そのどちらも、紬は今でも鮮明に覚えていた。
「あっ、そうだ! 今年も紬のおばあちゃんち、行っていい? って、うちらもう高校生だけど!」
あこは思いついたように目を輝かせた。
夏休み、両親が共働きで忙しかった紬は、近所にある祖母の家に預けられるのが常だった。そして毎年、あこは「一緒に宿題をやる」という名目で、我が物顔でその家にやってくるのだ。
もっとも、ペンを握っていた時間より、縁側で寝転がって漫画を読んでいた時間のほうが長かった気もする。思い出すのは、そんな他愛のない夏の記憶ばかりだ。
「いいんじゃない?今年もおばあちゃん、喜ぶと思う」
「ほんと!? やったー!」
相変わらず大袈裟な喜び方だ。けれど、そのひたむきな反応を見ると、不思議とこちらまで満たされた気持ちになる。小学校の頃から、何一つ変わらない関係性。
(懐かしいな……)
そんな感傷を抱きながら見上げた空は、真新しいノートの一頁のように、どこまでも青く澄み渡っていた。東の山際から顔を出しきった太陽と、白い巨塔のようにそびえ立つ入道雲。その圧倒的な白さは、どんな隠し事も暴いてしまいそうな潔さを帯びている。
「紬、今日ちょっとぼんやりしてない?」
不意に、あこが声音を和らげて言った。
「え、してる?」
「うん。……もしかして、私が遅刻しかけたこと、まだ怒ってる?」
「……いや怒ってないよ」
「よかった〜!」
あこはわざとらしく胸に手を当てて、ほっと息を吐き出す。本当に怒っていると心配していたらしい。素直すぎる彼女の仕草に、紬の口元が自然と綻ぶ。
会話が途切れ、心地よい沈黙が訪れる。けれどその静寂を気まずいとは感じない。ジリジリと鳴き始めた蝉の声と、通り抜ける朝の風が、二人の隙間を柔らかく満たしていく。遠くのあぜ道から、トラクターの低いエンジン音が地鳴りのように響いてきた。
──ずっと、このままでいられたらいいのに。
ふとそんな思いが胸をよぎる。
水田の水面は鏡のように青空を映し、風が駆け抜けるたびに微細な波紋を広げている。
けれど、世界は願うだけでは止まってくれない。
あこは高校を卒業したら、この村を出ていく。
それはもう何年も前から決まっている未来だった。
離ればなれになると知った幼い二人は胸を痛めたものだが、今のあこは違う。進学先を見据え、不器用なりに必死で牙を研いでいる。
なのに、私は──。
別れの季節まで、まだ数年ある。
それなのに、夏の鋭い光は、時折皮肉なほど鮮やかに未来の予感を連れてくる。
あこと過ごす「今」の密度は変わらないはずなのに、その先にある終着点だけが、確実に一歩ずつ近づいている。
いつまでも立ち止まってはいられない。
──分かっているのに。
ただ、自分だけがグラウンドに取り残され、季節の歩度から置いていかれているような、静かな焦燥が心の中で燻っていた。
二人が鬱蒼とした森に面した細道を抜ける頃、太陽はさらに高度を上げ、世界の色彩を一段と濃く塗り替えた。青は深く、緑は重なり、二人の影はくっきりと鋭い輪郭を持ち始める。
坂を下りきると、視界が一気に開けた。
視界いっぱいに広がる田んぼの水面には、砕けた青空がモザイクのように映り込み、風が吹くたびにその模様を万華鏡のように変えていく。
「今日、めちゃくちゃ綺麗じゃない?」
あこが弾んだ声を上げる。まるで、この景色を初めて目にしたかのような新鮮な反応をしてみせる。
「毎日見てるでしょ」
「毎日見てるけどさ! 毎日違うじゃん、こういうのって!」
同じ景色、同じ通学路。それなのに、光の角度も、草の匂いも、確かに昨日とは違っている。
「あ、そういえば紬」
悪戯っぽい笑みを浮かべて、あこがこちらを盗み見る。
「昨日、図書室で寝てたでしょ?」
「……見てたの?」
「窓から丸見えだったもーん。当番中なのに椅子に座ったまま、こうやってさ」
あこは両手を重ねて机に突っ伏すジェスチャーをしてみせる。紬はきまり悪そうに、ほんのりと頬を朱に染めた。
「最近、なんだか眠くて。暑さのせいかな」
「珍しいなって思っただけ。紬、学校で居眠りなんて滅多にしないでしょ」
「うん……そうなんだよね」
最近、ふいに強い眠気が訪れる。授業中にうとうとするのとは、どこか違う。歩いていても、本を読んでいても、瞬きをしたほんの一瞬、意識がどこかへ引き込まれるような感覚があった。
「夢とか見た?」
「……うーん。覚えてない」
「そっかー、レアだったから、写真撮っておけばよかったな!」
「ちょっと、やめてよ」
紬は視線を誤魔化すように田んぼへと逃がし、風にそよぐ青々とした稲穂を、歩きながらしばらく見つめていた。
そんな他愛のない会話を重ねるうちに、いつの間にか周囲には同じ制服を着た生徒たちの姿が増えていた。
自転車で颯爽と追い抜いていく男子生徒。バスの停留所から群れをなして歩いてくる女子生徒たち。
静寂に包まれていた通学路は、瞬く間に学校の朝らしい活気と喧騒に塗り替えられていく。
やがて校門前の横断歩道に差し掛かり、二人は赤信号の手前で足を止めた。
すると隣で、あこが不意に、白い右手をこちらに差し出してきた。
「はい、紬」
校門をくぐる直前、遮るように出された掌。
「なに、これ」
「なんとなく! 学校入る前の、気合いのタッチ!」
論理的な意味なんてない。けれど、いかにもあこらしい振る舞いで、それがあこなりの励まし方だった。
紬は柔らかく目元を細め、その手のひらに自分の手を軽く重ねた。
ぱちん、と乾いた音が朝の空気に弾ける。それと同時に、歩行者用の信号が青へと変わった。
「よし、今日も頑張ろー!」
「頑張ることなんてある?」
「あるよ! 最後の日だもん! 楽しまなきゃ損じゃん! じゃ、また後でね!」
あこはそう言って、再び弾むような足取りで人混みの向こうへと駆けていった。その背中を見送りながら、紬は手のひらに残るあこの温もりを、そっと握りしめた。




