誘い
キーンコーンカーンコーン。
一時間目の終わりを告げる音が、教室に広がった。
GoTalk、か。
あの訳が、あの速さで出てくる。
思っていたより、ずっと使える。
ただ、使いどころは選んだ方がいい。
毎回あの精度で答えていたら、さすがに目立つ。
今回は、たまたまやり過ごせただけだ。
褒められた余韻よりも先に、そんな計算ばかりが頭を占めていた。
休み時間になると、すぐに教室を出た。
声をかけてくる相手はいない。
分かっているのに、廊下に出るまで、背中のあたりが落ち着かなかった。
トイレを済ませ、洗面台の前に立つ。
蛇口をひねる。
水が勢いよく落ちて、その音が狭い空間を満たした。
手を差し出す。
冷たさが指先に触れて、そこでようやく、自分がずっと力んでいたことに気づいた。
流れる水を見ているうちに、肩の力が少しだけ抜けた。
そのとき——。
「たいしくん、今ちょっといい?」
水を止めようとした指が、蛇口の手前で止まる。
その声だけで、誰が立っているのか分かった。
反射的に振り返る。
目が合った瞬間、うまく受け止めきれずに視線を逸らした。
彼女が、そこにいた。
「ねぇねぇ、今日さ。よかったら一緒にお昼食べない?」
「……え、」
返事が遅れた。
聞き間違いかと思った。
けれど、彼女は当たり前みたいにこちらを見ている。
「嫌ならいいんだけど、どうかな?」
嫌なわけがない。
そう思ったのに、すぐには頷けなかった。
視線が、彼女の顔と床のあいだで止まる。
指先だけが、落ち着きなく動いていた。
「……うん。いいよ」
ようやく出た声は、自分でも驚くくらい小さかった。
「そっか! じゃあまた〜」
彼女はぱっと笑って、それだけ言い残すと、軽い足取りで教室の方へ戻っていった。
その背中が廊下の角に消えても、僕はしばらく動けなかった。
昼休み。
彼女と一緒に昼を食べる。
その事実だけが、少し遅れて頭の中に広がっていく。
本当に、僕でいいのか。
そう思った次の瞬間には、さっきの笑顔が浮かんでいた。
胸の奥が、妙に落ち着かない。
なのに嫌ではなかった。
むしろ、その落ち着かなさを手放したくなかった。
一歩踏み出す。
足元が少し軽い。
たぶん、普通に歩けていなかった。
それでも、誰にも気づかれない程度の浮かれ方で済んでいるはずだった。
キーンコーンカーンコーン。
二時間目の始まりを告げる鐘が、どこか遠くで鳴った。
指先で、机を刻む。
一定の速さで、意味もなく。
彼女と、昼を食べる。
どうして誘ったんだろう。
好意——なのか。
いや、そんな小さな火を育てるな。
でも、二人きりなのか。
それとも、誰か他にも呼んでいるのか。
考えが、ぐるぐると同じところを回る。
教室は相変わらず騒がしい。
笑い声、椅子の擦れる音、誰かの話し声。
それが全部、頭の中のざわつきと混ざり合って、どこまでが外の音で、どこからが自分の声なのか、だんだん分からなくなってくる。
机に額を預け、静かに目を閉じた。
二時間目の開始を告げる鐘が鳴っても、先生は来なかった。
教室の前の扉は閉まったまま。
黒板の前にも、教卓の横にも、いつもの姿はない。
最初の一分は、誰も何も言わなかった。
まだ来るだろう、という空気だけが、教室に薄く残っていた。
けれど、二分が過ぎる頃には、その緊張も少しずつ緩み始める。
椅子がきしみ、誰かが小さく笑い、机の下でスマホを触る気配が増えていく。
「先生、授業忘れてんじゃね」
本郷が嬉しそうに言った。
その声を合図にしたように、教室があっという間に自由になった。
教室の真ん中あたりで、女子たちがいつの間にか集まり始めていた。
「真希ちゃん、NOW SHOT撮ろうよ」
「え、なにそれ。今を撮るやつ?」
「そうそう。最近ちょっと流行ってるんだよね」
彼女は少し考えるように教室を見回し、それから、ぱっと表情を明るくした。
「じゃあ——授業始まってるのに先生が来ない、NOW SHOT!」
カシャ。
「ちょっと、みんな!」
クラス委員が立ち上がり、教室に向かって声を張った。
けれど、その声はほとんど届いていない。
本郷は机の下でスマホを横向きにし、ゲームを起動している。
別の男子たちは机を寄せ合い、授業が始まる前よりも大きな声で話し込んでいた。
クラス委員の声だけが、行き場をなくしたみたいに教室の中で浮いている。
何度か注意しようとして、結局、彼女は口を閉じた。
それから、黙って教室を出ていく。
たぶん、先生を呼びに行ったのだろう。
本郷のスマホから、短い電子音が漏れた。
「本郷、音消せ」
「なんで。せっかく先生いないんだから、音出してやりたかったんだけど」
「数分後、先生来るぞ」
まさとが言った。
「なんで分かんの?」
「委員長、呼びに行った」
その一言で、本郷の顔から少しだけ余裕が消えた。
「……チッ」
舌打ちして、本郷は渋々スマホを伏せた。
予想通り、数分後に生物の先生が戻ってきた。
「すまんすまん、寝てたわ」
そんな冗談を言いながら教壇に立つ。
教室から笑いが漏れた。
「授業を少し進めてから小テストをやるつもりだったが、時間がなくなったのですぐ始めるぞ」
小さなブーイングが、あちこちから漏れた。
どうしてこのタイミングで小テストなんて——そんな不満が、教室全体に薄く広がっている。
「最近の授業をちゃんと聞いているかの確認だ。それと、最終テストも近いからな。気を引き締めてもらう」
淡々とした説明が、黒板の前から落ちてくる。
正論だった。
だからこそ、反論の余地はない。
くすぶっていた不満は行き場を失い、そのまま静かに沈んでいった。
前の席から、肩越しにプリントが回ってくる。
指先で受け取り、机に置いた。
「……」
一問目に目を落とした瞬間、言葉が出なかった。
分からない。
どこかで見たはずなのに、何を聞かれているのかが掴めない。
問題文を目で追う。
見覚えのあるはずの単語が、うまく意味に繋がらない。
シャープペンシルを持つ手は止まったまま、芯だけが紙の上で空回りしていた。
書こうとすればするほど、余計に分からなくなる。
やがて時間が過ぎ、二時間目の終わりを告げる音が鳴った。
途端に、教室のあちこちで声が弾けた。
「あそこ合ってた?」
「あれ全然分かんなかったんだけど」
「三番って、たぶん——」
その先を聞く前に、ポケットへ手を入れた。
イヤホンを取り出し、片方ずつ耳に差し込む。
ざわめきが、少しだけ輪郭を失う。
机の端に置いた小テストが、視界の隅で白く残っていた。
指先でそれを裏返す。
それから、何もなかったみたいに窓の外を見た。




