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正解

外が白み始めた頃。


僕はスマホを握ったまま、机に突っ伏して眠っていた。


チチチチ、と鳥の声が窓の外から聞こえる。


その音で、意識が浅い眠りの底から引き上げられた。


「……ん」


反射的に顔を上げ、振り向いて時計を見る。


七時五十分。


家から学校までは、自転車で二十分ほど。


朝のHRは八時三十分からだ。


朝食を手短に済ませれば、まだ間に合う。


机の上のスマホには、昨夜見ていたアニメのED画面が、そのまま停止していた。


その上に、無機質な通知が重なっている。


——バッテリー残量:10%


わずかに眉を寄せ、指先で通知を消す。


遮られていた画面が現れる。


『tomorrow ラブ』


恋愛もののアニメだ。


どうやら昨日は、同級生同士の純愛が少しずつ進んでいくのを追っているうちに、そのまま寝落ちしてしまったらしい。


スマホを手に取り、僕は急いで支度を始めた。



ペダルを踏む。


いつもより少しだけ、リズムが軽かった。


急いでいるわけじゃない。


ただ、足が動いていた。


校門を通り過ぎ、駐輪場に自転車を停める。


施錠して、校舎へ向かう。


いつもなら面倒に感じる靴の履き替えも、今日はそれほど気にならなかった。


スマホを確認する。


八時二十二分。


HRまで八分。


まだ余裕があった。


スクールシューズに足を入れながら、ひもを結んでいると、背後から突風のように別学年の生徒が走り抜けた。


すれ違いざまに肩が当たる。


向こうは振り返りもしない。


足音だけが廊下の奥に消えていった。


立ち上がった瞬間、今度は別の生徒が横から割り込むように階段へ駆け込んでいく。


息を切らして、鞄を揺らして、周りが見えていない走り方だった。


廊下が、せわしない空気で満ちていた。


——やっぱり、こういう朝は落ち着かない。


いつも、余裕を持って登校していた。


こんな時間になるのは珍しく、自分でも少し意外だった。


三階まで上がりきると、廊下の窓際に人影があった。


体格のいい男子生徒が、スマホを耳に当てて誰かと話している。


片手で髪を直したり、意味もなく歩く速度を緩めたりしている。


ただの友人と話しているにしては、少し落ち着きがない。


相手は、おそらく女子だろう。


すれ違いざま、何気なく視線を向ける。


——本郷だった。


こちらの視線に気づいたのか、本郷がふと顔を上げる。


目が合った瞬間、眉間に露骨なしわが寄った。


見てんじゃねぇ、とでも言いたげな顔だった。


まずい。


反射的に視線を外す。


本郷とは、できるだけ関わらないようにしている。


軽い気持ちで見たことを、すぐに後悔した。


そのまま足早に教室へ向かい、扉に手をかける。


「今日、ギリ間に合った〜」


背中に、彼女の声が届いた。


扉の取っ手にかけた指が、そこで止まる。


さっきまで本郷に向いていた意識が、声ひとつで乱された。


「たいしくん、おはよ〜!」


彼女の声が近づく。


振り返れば、たぶん目が合う。


そう分かっているのに、顔を向ける動きが途中で鈍った。


「あ……おはよ」


顔は向けないまま、短く返す。


たった一言、返事をしただけだった。


会話と呼ぶには短すぎる。


それでも、彼女と言葉を交わせたという事実だけが、朝の嫌な流れを少しだけ塗り替えていく。


「たいしくんがこの時間まで教室にいないのって、珍しくない?」


「……うん、まあ……ちょっと夜更かししてて」


それだけ言って、僕は逃げるように歩き出した。


本当は、もう少し話していたかった。


せっかく彼女の方から声をかけてくれたのに。


分かっている。


けれど、これ以上そこに立っていたら、返す言葉を選び損ねる気がした。


考えれば考えるほど、かえって不自然になる。


だから、体の方が先に動いた。


昨日、画面に並んでいた助言は、まだ頭に残っている。


けれど、彼女を前にした瞬間、どれも使い方が分からなくなった。


はたから見れば、避けているように見えたかもしれない。


そんなつもりはない。


話したいからこそ、うまくそこにいられなかった。


席に着く頃には、彼女はもう別の友達に囲まれていた。


次々と飛んでくる挨拶に、笑いながら応えている。


あれはもう、挨拶というより小さな嵐だ。


僕とは、あまりにも世界が違う。


分かっているのに、心は勝手に引っ張られる。


HRの鐘の音とともに、僕の一日が始まった。


「はい、おはようございます。本郷もいるな」


相変わらずのけだるい声で、先生が言った。


だが、その声を聞いている者はほとんどいない。


本郷は体をまさとの方へ向け、弾むような声で話しかけた。


「まさと! マジでビッグニュースあるんだよ」


「なんだよ。昨日休んだ理由か?」


「そう! 昨日、デートした」


「はぁ……」


呆れたように返しつつも、まさとは話を聞いている。


「どんな女だよ?」


「マジで清楚」


そう言うと、本郷は口元に手を立て、まるで内緒話でもするみたいに「清楚」と小声で繰り返し、くすくすと笑った。


——朝、電話してた相手か。


「お前が清楚な女とデート?」


「でさ、そのまま勢いで告白したら付き合うことになったわけっ」


「お前ってほんと、全部勢いだよな。尊敬するよ、本郷君」


半分呆れ、半分本音。


そんな調子でまさとは返す。


それでも本郷は気にした様子もなく、むしろ褒められたかのように笑っていた。



キーンコーンカーンコーン。


一時間目のチャイムが鳴り終わるのと同時に、英語の教師が教室に入ってきた。


——せめて、少しくらい遅れてくれればいいのに。


そんな空気が教室に漂うが、この教師にはまるで届かない。


小柄で、眼鏡をかけた男性教師。


柔らかく崩れた口元に、常に穏やかな笑みを浮かべている。


教壇の上に授業用のプリントを整えて置くと、そのまま背筋を伸ばして立つ。


無理のない自然な姿勢のまま、教室全体を静かに見渡していた。


明らかにやる気に満ちている。


それが、教室のだるさと噛み合っていない。


先生は教壇に立ち、騒がしい教室をそのままに、生徒が席に戻るのを待っていた。


まだ立ち歩いている者も多い。


それでも怒る気配はない。


——この人、たぶん先生が向いてるんだろうな。


そんなことを、ぼんやりと思った。


「朝から英語はないよねー」


「しかもあのやる気。余計にだるいんだけど」


後ろの席から、小さく抑えた声が聞こえてくる。


聞こえないようにしているつもりなのだろう。


けれど、距離が近いせいで、言葉の端ははっきり耳に届いていた。


表では普通にしていても、裏ではこうして愚痴をこぼす。


うちの担任と比べているだけなのか。


それとも、ただのないものねだりなのか。


どちらにせよ、人は理由をつけたがる。


ふと、彼女ならどう言うのだろうと思った。


少なくとも、悪くは言わない気がする。


「いいじゃん、楽しそうで〜」


そんなふうに、何でもないことみたいに笑って流してしまいそうだった。


たぶん彼女が言う「楽しそう」は、授業そのものではない。


その少しずれた受け取り方を想像して、思わず口元が緩みそうになった。


気づけば、また彼女のことを考えている。


恋は、人を変える。


後ろでは、さっきの女子たちがまだ小声で文句を言っていた。


学校が嫌で仕方ないのかもしれない。


けれど今の僕は、胸の奥で鳴るこの鼓動さえ、どこか心地よかった。


英語の授業は、だらけきった空気のまま終盤に差し掛かっていた。


黒板の文字は、ほとんど頭に入っていない。


頬杖をついたまま、視線だけを窓の外へ逃がしていた。


「じゃあ、この辺で英文の和訳してもらいますよ」


その一言で、教室の空気がわずかに締まった。


誰かが小さく息を呑む。


遅れて、意識を教室へ引き戻した。


先生が指したのは、窓際の一番前の席。


僕の列だ。


当てられた生徒が、たどたどしく一文を訳し始める。


英語が苦手なのか、途中で詰まる。


語尾が曖昧に揺れたまま、どうにか最後まで押し切った。


一拍。


「惜しい。その訳、翻訳ツールにそのまま通したみたいになってるな。日本語として読んだとき、主語がどこにいるか分からなくなってる」


先生は黒板に向き直り、白いチョークで訳文の一部を囲った。


それから、迷いのない手つきで余分な言葉を消し、横に新しい訳を書き足していく。


先ほど当てられた生徒の答えは、乾いた音とともに、少しずつ別の形へ整えられていった。


大きな間違いではない。


けれど、その小さな訂正に、教室のあちこちがざわついた。


「そんな分かるわけ」


「英語とか意味なくね」


そんな声が、机の間をすり抜けていく。


名指しされた生徒は、かすかに肩をすぼめて頷き、視線を机へ落とした。


そのとき、机の下でスマホが短く震えた。


視線だけを落として画面を確認する。


通知欄に、GoTalkの文字が浮かんでいた。


その表示を見た瞬間、さっきの先生の言葉が頭の中で重なる。


翻訳ツールにそのまま通したみたい。


僕は黒板へ視線を戻す。


黒板には、先生の手で整えられた訳文が白く残っていた。


翻訳なんて、本当にそんなに曖昧なものなのか。


GoTalkなら、どこまで正確に訳せるのだろう。


胸の奥に、試してみたいという衝動が静かに芽を出した。


この先生は、窓際の列を前から順番に指していく。


最初の授業で気づいていた。


次に指されたのは、さっきの生徒の真後ろだった。


予想通りだ。


自分の席までの距離を、指で数える。


三人。


さっきのペースなら一人一文。


時間は、ある。


姿勢は崩さないまま、手元だけをわずかに動かし、スマホを机の下へと滑り込ませた。


教師の視線が黒板へ移る、その一瞬。


見逃せば終わるほど短い隙をすくい上げるように、指先だけで画面を点灯させる。


GoTalkの画面が、ひそやかに立ち上がった。


呼吸を浅く整え、机上の教科書に視線を落としたまま、英文をなぞる。


そしてそのまま、覚えたばかりの文を追うように、慎重に入力していく。


If he hadn't opened that door……


打ち込み始めた瞬間、二人前の生徒が答え始めた。


声が聞こえる。


たどたどしい訳だった。


先生が「惜しい」と言う前から、違うと分かった。


上半身は動かさない。


顔だけ前へ向けたまま、視線を手元へ落とす。


一文字打つごとに先生の位置を確かめ、また手元へ戻す。


その繰り返しを、誰にも気づかれないように続けた。


先生は黒板に向き直り、白い粉を残しながら文字を刻みつけていく。


背を向けたままでも説明は淀まず、言葉は途切れることなく教室に流れ続けていた。


この先生は手を抜かない。


生徒の誤りを見逃さず、その都度、丁寧に、そして容赦なく正しい形へと整えていく。


だからこそ——今、この瞬間だけは都合がいい。


あの背中が、こちらに向いていないという事実が。


視線を落としたまま、指先だけで最後の一文字を打ち込む。


わずかな間を置いて、息を殺すように送信した。


英文が、画面の中で静かに解体されていく。


——その瞬間、前の席の生徒が当てられた。


心臓が、一度だけ大きく跳ねた。


反射的に、太腿の下にスマホを押し込む。


前の生徒が答え始めた。


先生の視線がそちらへ向く。


指先だけで画面を引き出す。


体の角度は変えない。


目だけを、ほんの少し落とす。


『もし彼がその扉を——』


そこで画面が切れた。


訳の続きが、まだ来ていない。


「惜しいですね。ここの構文は——」


先生の声が教室に響く。


この授業で英文を正確に訳せた生徒は、まだ一人もいない。


そのたびに先生は黒板へ向かい、修正を書き足していく。


黒板はすでに英文と日本語で埋め尽くされ、消しきれない白い粉が端に溜まっていた。


間違いの上に正しい形が重なって、この先生の熱だけがそこに刻まれていく。


指先に、汗が滲んでいた。


先生の視線が黒板に向く瞬間を、息を止めて待つ。


チョークが黒板に触れた音がした。


画面を引き出す。


残りを目に焼き付ける。


口の中が、少し乾いていた。


「では、たいしくん。プリントの下から三行目。この構文を訳してみてくれ」


先生の視線が、こちらに向く。


一瞬、教室の音が遠のいた。


机の下で、指先がわずかに丸まる。


深く息を吐く。


「……先生。発音を確認したいので、一度読んでもらえますか」


自然に聞こえる範囲で、最小限の言葉を選んだ。


先生は少しだけ頷く。


「分かりました」


先生は手元のプリントに視線を落とし、下から三行目の英文を確認する。


細い指先が、紙の上をゆっくりとなぞった。


教室のざわめきが、少しだけ薄くなる。


「では——」


先生は顔を上げ、英文を読み上げた。


「If he hadn't opened that door, there would have been a future that never had to be lost」


先生の声が教室に流れている間、頭の中で断片をつなぐ。


「……もし、彼がその扉を開けなかったなら」


一拍、置く。


視線が、いくつかこちらへ向いた気がした。


「失わずに済んだ未来が、あったのかもしれない」


声に出した瞬間、教室が少しだけ静かになった。


さっきまで誰も、うまく訳せなかった一文だった。


黒板には、直訳に近い言葉がいくつも残っている。


その中で、自分の訳だけが、妙に浮いて見えた。


翻訳ツールにそのまま通したような言葉ではない。


文の形をなぞっただけでもない。


意味を拾って、日本語として置き直した言葉。


先生は一瞬言葉を失い、それから顔をほころばせた。


「たいしくん、すごいですね。正解です!」


少しだけ大げさな声が、教室に響いた。


教室が、わずかにざわついていた。


それも無理はない。


僕は英語が得意なわけじゃない。


指されてもろくに答えられない、普通側の人間だ。


このクラスで、英語の訳を淀みなく言えるやつなんて、そう多くはない。


思い当たるのは、委員長くらいだ。


そもそも、この学校のレベルは高くない。


その中で頭が回るやつがいれば、大抵はどこかしら浮いている。

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