連絡先
キーンコーンカーンコーン。
昼休みの鐘が鳴った。
教室では、すでに何人かが弁当を広げている。
弁当箱のふたが開く音に混じって、温かいご飯の匂いが少しずつ広がっていった。
いつもなら、その匂いだけで空腹を思い出す。
けれど、今日だけは受け付けなかった。
売店に行くしかない。
鞄から財布を取り出し、中を開く。
小銭の音が、やけに乾いて聞こえた。
財布を閉じる前に、ふと教室の中央へ目が向く。
彼女の席は、空いていた。
指先で財布の口を押さえ、鞄を肩にかける。
席を立つと、扉までの短い距離が少しだけ遠く見えた。
それでも、行かないわけにはいかない。
僕は教室を出た。
一階のフロアには、すでに長い列ができていた。
苦手だ、こういうのが。
入学してから一度も売店を使わなかったのは、ひとえにこの人混みのせいだ。
溜め息をひとつ飲み込んで、列の後ろに並んだ。
何を買うか考えながら、ぼんやりと前を眺めていると——。
「たいしくん発見。売店来るんだね~」
背後から、聞き慣れた声がした。
振り返ると、彼女がいた。
その後ろには、友達らしい女子が四人ほど続いている。
二人きりじゃない。
当たり前だ。
昼に誘われたからといって、そういう意味に取った自分が恥ずかしかった。
小さな期待を、静かに飲み込む。
軽く返事をして、また前に向き直った。
彼女は、僕の隣にさりげなく並んできた。
「この売店のさ、カルチっていうサンドイッチ食べたことある? 私のイチ推しなんだけど」
「……食べたことない」
答えながら、視線は棚に向けたままだった。
彼女がこちらを見ているのは分かる。
顔を向けなくても、まっすぐな視線だけが妙にはっきり伝わってくる。
指先に汗がにじんで、握った財布の感触がやけに気になる。
「絶対おいしいから! 食べてみてよ、損しないから」
有無を言わせない熱量だった。
ただのサンドイッチを勧めているだけなのに、彼女の声には変に迷いがない。
自分が好きなものを、当然みたいに人へ差し出せる。
そういうところが、少しだけ眩しかった。
結局、カルチだけを買った。
二百九十八円。
財布の中身を考えると、これが限界だった。
レジを離れながら、袋の中を覗く。
特別なものには見えない。
どこにでもありそうな、普通のサンドイッチだ。
けれど、ふと顔を上げると、レジの向こうにいた彼女と目が合いかけた。
慌てて視線をずらす。
それでも、彼女が嬉しそうに笑っているのだけは分かった。
売店も、たまには悪くないかもしれない。
教室に戻ると、彼女たちは慣れた様子で机を寄せ始めた。
椅子の脚が床を擦り、いくつかの机が自然にひとつの輪を作っていく。
僕はその少し外側で、袋を持ったまま立っていた。
どこに入ればいいのか分からない。
「たいしくん、こっちこっち」
彼女が、何でもないことみたいに手招きする。
その声に合わせて、隣の女子が椅子を少しずらした。
気づけば、僕もその輪の中に座っていた。
こんなふうに誰かと机を囲んで食べるのは、いつ以来だろう。
左にも、右にも、女子がいる。
正面には彼女がいる。
嬉しい、より先に、体が固まった。
彼女と昼を食べている。
その事実だけなら、嬉しい。
けれど今は、その周りにある視線や距離の近さの方が先に迫ってくる。
救いがあるとすれば、昼食を教室で取る生徒が少ないことくらいだった。
逃げ出したい気持ちを奥歯で噛みしめながら、袋からカルチを取り出す。
彼女がこちらを見ている気がした。
指先でパンを押さえ、一口かじった。
カリッとした食感の後に、ハニーマスタードの甘さが来た。
カルパスの塩気が、それをきれいに引き締める。
思っていたより、ずっとうまかった。
顔に出ていたらしい。
彼女はにやにやしていた。
「ねえ、たいしくんだっけ。なんでうちらと食べてるの?」
彼女の隣に座っていた莉々が、こちらを見て言った。
箸を止めるほどの質問ではない。
けれど、返し方を間違えれば、その場の空気まで変わりそうだった。
「クラス交流……?」
答えたのは、僕ではなく彼女だった。
「何それ。あんたクラス委員か」
莉々が笑いながら突っ込む。
周りの女子たちも、つられるように小さく笑った。
彼女は特に気にした様子もなく、明るい顔のまま続ける。
「でもさ、たいしくん、英語すごかったじゃん。莉々も驚いてたよね」
「まあ、あれはみんな驚いてたでしょ。英語のテスト、自信ないし」
莉々の視線が、またこちらへ戻る。
「たいしくん、英語得意なの?」
「……全然、できないよ」
視線を外したまま答えた。
「え、でもめちゃくちゃきれいに訳してたじゃん」
莉々が食い気味に聞いてくる。
軽い調子なのに、照準だけは外してくれない。
「先生も驚いてたもんね〜」
莉々の隣の女子が言った。
数秒だけ、言葉が止まった。
カルチの袋を握る指に、少し力が入る。
さっきまで普通のサンドイッチだったはずのそれが、急に食べづらくなった。
圧に負けて、口が動いた。
「頭、使ったら……勉強しなくても分かるよ」
莉々が、ぽかんと口を開けた。
日本語としては聞こえているはずなのに、意味だけが届いていない。
他の子たちも小さく首をかしげて、僕の言葉の置き場所を探しているようだった。
変な空気を作った。
そう分かったのに、回収する言葉が出てこない。
カルチを持つ指先だけが、袋の端を無意味に折っていた。
「真希、今の聞いた?」
莉々が隣へ顔を向ける。
彼女は一瞬だけ間を置いて、すぐに口を開いた。
「いいなあ……私も勉強しなくても分かるようになりたい」
「いや、意味通じてる? てか真希は長く椅子に座ることすらできないから、そもそも論外でしょ」
「え! 何それディス!?」
「ううん、褒めてる。ハムスターみたいで可愛いなって」
「ハムスターは嬉しい! ありがと!」
「真希ちゃん……それ、たぶんディスられてるよ」
別の子がぼそりと言った。
笑い声が、机の間にこぼれる。
僕の的外れな一言は、彼女の声ひとつで、いつの間にか軽いものに変わっていた。
さっきまで喉の奥に引っかかっていた息が、少しだけ通る。
異質なままの僕を、誰も気にしていなかった。
——彼女は他の人とは、違う。
普段の僕なら、絶対にここにいない。
五時間目が始まった。
昼のことを、ぼんやりと思い返す。
楽しかった。
それは本当だと思う。
ただ、彼女と話せたというより、彼女のそばにいた、という方が近かった。
あの輪の中で、僕はずっと少し外側にいた。
それでも。
ハムスターと言われて、本気で喜んでいた彼女の顔が浮かぶ。
その表情だけで、昼休みのほとんどが許されたような気がした。
昼食を終え、席へ戻ろうとしたときだった。
彼女が机を元の位置へ戻しながら、すれ違いざまに何かを差し出してきた。
視線は友達の方へ向いたまま。
その手元だけが、ほんの少しこちらへ寄る。
小さく折り畳まれた紙切れだった。
受け取った手が、ほんの一瞬だけ止まる。
中身を確かめることなく、僕はそれをポケットへ滑り込ませた。
触れなくても分かるくらい、その小さな紙切れがずっと存在を主張していた。
開けたい。
開けたいのに、指が動かない。
相手が違えば、こんなふうに躊躇うことなんてなかったはずだ。
五時間目も、気づけば半分を過ぎていた。
先生の声は聞こえている。
けれど、意識はずっとポケットの中に引っかかったままだった。
授業の隙に、GoTalkで確認した。こういう形で渡されるものは、大抵、深刻な内容ではない——と。
冷静に考えれば、些細なことのはずだ。
視線を合わせず、友達の方を向いたまま渡してきた。
大げさな意味なんてない。
たぶん、ない。
そう思いながら、机の下でゆっくりとポケットへ手を伸ばす。
指先が布に触れた瞬間、そこだけ熱を持っているような気がした。
触れた瞬間、自分の手がじっとりと汗ばんでいることに気づいた。
机の下で、息を潜めるようにして折り目をほどいていく。
一枚、二枚——紙が擦れるかすかな音が、やけに大きく感じられた。
誰かに見られている気がして、思わず視線だけを上げる。
だが、教室は何事もない顔で授業を続けている。
その現実に、かえって心臓の音だけが浮き上がった。
走り書きの文字が、目に飛び込んでくる。
「そう言えばさ、連絡先交換してなかったよね! よかったら追加してね~
NEW CHAT ID:216797」
笑みがこぼれた。
NEW CHATを立ち上げようとして、指が滑って別のアプリを開いた。
焦れば焦るほど、指が言うことを聞かない。
紙を取り出し、IDを一文字ずつ確認しながら打ち込んだ。
検索結果に、彼女のアカウントが現れた。
アイコンは、友達と撮った写真だった。
全員が笑っている。
ただ、彼女だけ少し違った。
他の子たちとは、どこか違う笑顔だった。
何が違うのか、うまく言葉にできない。
でも、確かに違う。
追加ボタンを押した。
彼女と、連絡先を交換した。
その事実だけが、授業の音から少し浮いている。
何度思い返しても、うまく現実に馴染まなかった。
——それにしても、なぜ連絡先を渡してきたんだろう。
また一つ、彼女には聞きづらい疑問が増えた。




