デート?
帰りのHR。
担任の声は、いつもより少し軽かった。
三連休が近いからかもしれない。
来週のテストにも一応触れた。
けれど、無理に空気を引き締める気はないらしい。
「勉強するかどうかは、各自で判断してくれ」
それだけ言って、話はすぐに終わった。
悪くない担任だと思う。
HRが終わってから教室を出た。
研究部へ向かう廊下を歩きながら、昨日のやり取りが頭の端に引っかかっていた。
——まあ、思われたでしょ。
あんりの平坦な声が、妙に残っている。
冗談だったことは分かっている。
最後にそう言っていたし、あんりなりの軽口だったのだろう。
それでも、あのときはうまく流せなかった。
ただそれだけのことなのに、まだ少しだけ引っかかっている。
気にしているのは、たぶん僕だけだ。
ほんの一拍だけ間を置いてから、部室の扉を押し開けた。
中では、あんりがいつもと変わらず推理小説を読んでいる。
ページをめくる指先も、椅子に座る姿勢も、昨日と何ひとつ変わっていなかった。
そのことに、少しだけ肩の力が抜ける。
「……また負けたか」
扉のそばで、独り言のように呟く。
「遠回りするあなたが、私に勝てるわけないでしょ」
あんりは本から目を離さずに返した。
いつも通りの声音だった。
昨日のことなんて、最初からなかったみたいに。
それでいい。
こちらも、何もなかった顔でいられる。
席に腰を下ろすと、部室の静けさがゆっくり戻ってきた。
ここにある人の気配は、僕とあんりのものだけ。
ページがめくられる小さな音だけが、時間の流れをかろうじて形にしていた。
廊下を通る人影もない。
時間だけが、静かに流れている。
その空気に身を預けかけたときだった。
ポケットの奥で、スマホが震えた。
気づきはしたが、すぐには動かなかった。
意識の端に引っかけたまま、思考だけがそちらへと向いていく。
「たいし、最近勉強できてる?」
不意に、あんりの声が差し込む。
「……んー」
考え事をしたままのような曖昧な返事が、口からこぼれた。
意識はまだ、ポケットの中に引き留められている。
ひと呼吸だけ遅れて、ようやく視線を手元へ落とした。
指先で画面を確かめる。
画面に、彼女の名前があった。
【やっほ〜追加ありがとね!】
反射的に腰が浮き、椅子の脚が悲鳴を上げた。
気づいたときには、半分立ち上がりかけていた。
スマホを握った手だけが、机の下で止まっている。
あんりは、こちらを見た。
何か言いかけたように見えたけれど、すぐに視線を戻した。
「……あ、うん。できてないかな」
何に答えたのか、自分でも少し遅れて分かる。
腰を下ろし直して、画面に視線を戻した。
彼女の文面は、何度見てもそこにある。
指先が、少し迷う。
【よろしくお願いします】
送信してから、すぐに画面を伏せた。
他に何も出てこなかった。
名前を追加してもらっただけなのに、まるで何か正式な場に出した文章みたいだった。
「今日の小テストも、私が勝ってそうだし」
あんりの声が、横から届く。
「来週の中間テスト、勝負になる?」
何も返せなかった。
あんりは、それ以上踏み込んでこなかった。
机の下で、伏せたスマホだけがやけに気になっていた。
小説のページをめくる音が、やけに大きく聞こえた。
机の上で、短い振動があった。
【日曜日って空いてる? よかったらどっか行かない?】
画面の文字を見たまま、しばらく動けなかった。
何度見ても、そこに同じ言葉がある。
見間違いではない。
現実の方が、少し遅れて追いついてくるような感覚だった。
教室を出る必要なんてなかった。
返事なら、家に帰ってからでもできる。
落ち着いて考えて、それから送ればいい。
分かっている。
それでも、高ぶった鼓動を留めることはできなかった。
椅子の脚が、床を小さく擦る。
スマホを握ったまま、鞄も持たずに立ち上がった。
あんりの方を見る余裕もない。
そのまま、何も言わずに教室を出た。
廊下を歩いている間、スマホはずっと手の中にあった。
画面はもう暗い。
それなのに、親指が何度も縁をなぞる。
靴音が、いつもの自分より少し先を歩いていた。
靴を履き替えた記憶も、どこか薄い。
気づけば、校門を出ていた。
自転車のペダルを踏みながら、彼女からのメッセージのことばかり考えていた。
デートの誘いなのか。
彼女と、二人で?
そう思った瞬間、ペダルがいつもより軽く感じた。
足に力が入っていることに、少し遅れて気づく。
風が顔に当たる。
家までの見慣れた道が、今日だけ少し違って見えた。
タイヤがコンクリートを擦る音がして、自転車が止まる。
信号は赤だった。
車が目の前を横切っていく。
その流れをぼんやり目で追っているうちに、頭の中に別の声が落ちてきた。
落ち着け。
今日の昼だって、二人きりじゃなかった。
また彼女の友達がいるのかもしれない。
そもそも二人きりだと思っているのは、僕だけかもしれない。
胸の奥が、すっと冷えた。
握ったままのブレーキが、指に食い込んでいた。
信号が青になった。
ペダルをゆっくり踏み直して、家へ向かう。
*
家に着くなり、鞄を放り出して、そのままベッドに倒れ込んだ。
シーツの柔らかさに体を預けながら、天井を見上げる。
ポケットからスマホを取り出し、画面を開いた。
表示されたメッセージを、もう一度だけ確認する。
すぐに返せばいい。
それなのに、親指は画面の上でわずかに止まった。
——ここで何を返すかで、何かが変わる気がした。
ほんの短い逡巡のあと、指先に力を込める。
【いいよ】
送信。
小さく息を吐き出す。
たったそれだけの動作なのに、妙に大きなことをしたような感覚が残った。
それから、いくつかやり取りを重ねて、待ち合わせの時間と場所が決まっていった。
友達も来るのかもしれない。
それでも現実の予定として形になっていくたびに、胸の奥が少しずつ浮き立っていった。
スマホを胸の上に置く。
枕元の電子時計が、暗がりの中で薄く光っていた。
数字のあいだの小さな点だけが、一定の間隔で瞬いている。
——何を着ていこうか。
クローゼットの中身が、頭の中に順番に並びはじめる。
無難な服にするか、それとも少しだけ印象を変えるか。
目を閉じると、まだ見ていないはずのその日の光景が、ぼんやりと浮かびかけた。
服を選ぶのに、思った以上に時間がかかった。
女の子と出かけたことがない。
そもそも、誰かと出かけること自体、ほとんどない。
クローゼットを開けて、閉めて、また開けた。
手が止まったまま、スマホを取り出した。
GoTalkを開く。
『女の子と初めてデートするときの服装。清潔感があって派手すぎない格好』
送信すると、すぐに返答が表示された。
『初めてのデートでは、相手に強い印象を与える服装よりも、清潔感があり、落ち着いた服装が適しています。
おすすめは以下です。
・無地、または細かい柄のシャツ
・黒、紺、ベージュなど落ち着いた色のパンツ
・白か黒のスニーカー
・派手なアクセサリーは避ける
重要なのは、服で目立つことではなく、不快感を与えないことです。迷った場合は、シンプルで清潔に見える組み合わせを選ぶのが安全です』
画面の文字を読みながら、クローゼットの中身を思い浮かべた。
クローゼットを開け直す。
紺のシャツと、細身のチノパンが目に入った。
派手ではない。
汚れもない。
条件には合っている。
これでいい。
これ以上考えたところで、答えはたぶん変わらない。
さっきまであれだけ迷っていた時間が、少し馬鹿らしくなる。
最初からGoTalkに聞いていればよかった。
そう思ったところで、またスマホへ目が向いた。
次の質問を打ち込む。
『女の子と初めてデートする場所。定番な場所教えて』
送信して、返ってきた候補を上から眺める。
最初に出てきたのは、カフェだった。
定番ではあるのだろうが、カフェは、無理だ。
向かい合ったまま沈黙が来たら、たぶん耐えられない。
何か話さなければいけない時間だけが、テーブルの上に置かれる気がした。
いくつかの候補を読み飛ばしていくうちに、水族館という文字が目に入った。
水族館か。
歩きながら見られるし、目の前に話題もある。
沈黙しても、たぶん不自然にはならない。
条件だけなら、悪くないのだろう。
けれど、生き物にあまり興味を持てない僕には、どうしても気が乗らなかった。
名前も知らない魚を前にして、うまく反応できる気がしない。
その点、映画ならまだいい。
同じ作品を見る。
終わったあとに、感想を言い合える。
面白かったか、つまらなかったか。
どの場面が残ったのか。
作品そのものより、彼女が何をどう受け取るのか。
僕は、そっちの方が気になった。
そう思った時点で、ほとんど答えは決まっていた。
夕方。
母と向かい合って夕食を食べた。
「今日の唐揚げ、美味しくない? 焼き加減ぴったりだと思うんだけど」
「うん。そうだね」
「そこは、いつも美味しいよ、でしょ」
母は、突っ込むように言って、少しだけ口元を緩めた。
箸を持つ手が少し止まった。
女性というものは難しい。
美味しいかと聞かれたから、美味しいと答えた。
それでも正解ではないらしい。
「たいしとこうして向かい合って食べるの、久しぶりだね」
母は何でもないように言った。
「最近、何か変わった?」
「別に」
唐揚げを飲み込んで、席を立つ。
「ごちそうさま」
母の返事を待たずに、僕は自分の部屋へ戻った。
翌日、部屋の棚を整理した。
ずっと並んだままだった本。
昔は発売日を心待ちにしていたゲーム機。
引き出しの奥で眠っていたカード。
どれも、手放す気になれずにいたものだった。
それをひとまとめにして、買い取り店へ持っていった。
思っていたより、まとまった金額になった。
財布に移すと、薄かった中身が少しだけ重みを持つ。
それだけで、日曜日がまた近くなった気がした。
家に戻ってから、もう一度クローゼットを開ける。
服を並べてみても、昨日と答えは変わらない。
それでも、袖のしわを確かめたり、靴の汚れを見直したりしているうちに、時間だけが過ぎていった。
鞄の中も確認する。
財布。
スマホ。
ハンカチ。
念のためのモバイルバッテリー。
足りないものは、たぶんない。
たぶん、という言葉が残ったまま、僕はベッドに腰を下ろした。
スマホを開く。
指先が、少し迷ってからGoTalkの画面を呼び出した。
『緊張って、なんのためにある?』
送信してから、すぐに画面を伏せた。
答えが欲しいのか。
ただ、何かに触れていたいだけなのか。
自分でもよく分からなかった。




