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12/17

日曜日

翌朝。


九時ちょうどに、スマホが震えた。


休日の朝に聞くには、あまりにも無遠慮な音だった。


スマホのアラームを止め、重いまぶたを開ける。


待ち合わせは、午後一時。


早めに準備しておきたくて、いつもより早い時間に設定していた。


それなのに眠れたのは、深夜三時を過ぎてからだ。


もう少しだけ。


そう思って、目を閉じる。


けれど、今日の予定が頭に触れた瞬間、眠気は静かに消えた。


布団から起き上がる。


着替えを済ませ、階段を下りた。


洗面所の鏡に、自分が映っている。


紺のシャツ。


細身のチノパン。


白のスニーカー。


飾り気がない。


悪くはないと思うが、良いとも言い切れない。


問題は、見るのが彼女だけじゃないことだ。


莉々も来るかもしれない。


口が軽そうだし、私服ひとつで何か言われそうな気がした。


その場では何もなくても、あとで笑い話にされる。


そう考えると、鏡の中の自分が急に頼りなく見えた。


女子は私服で印象が変わる、とどこかで聞いたことがある。


彼女は今日、どんな格好で来るのだろう。


考えないようにしても、すぐにそこへ戻ってしまう。


鏡の中の自分は、いつもと大して変わらなかった。


袖を直す。


襟元に触れる。


もう一度、全身を見る。


それでも、何かが良くなるわけではない。


他に準備できることは、もうなかった。


部屋に戻って椅子に座る。


すぐに立ち上がる。


ベッドに横になっても、時計の音だけが近くなる。


どこにいても、待ち合わせまでの時間は少しも短くならなかった。


十二時三十分。


駅までなら、余裕を持って行ける時間だった。


自転車にまたがり、ペダルを踏む。


不思議と、頭は冷えていた。


家を出るまであれだけ落ち着かなかったのに、走り始めると余計なことが少しずつ後ろへ流れていく。


ペダルを一つ漕ぐたびに、彼女との距離だけが確実に縮まっていた。





一時。


指定された駅の改札前に、僕は立っていた。


自転車を漕いでいる間は、不思議と落ち着いていた。


けれど、立ち止まった途端、それが戻ってきた。


心臓が、速い。


大丈夫。


友達も来る。


今日はそういう日だ。


そう思いながら、改札の周りに目を走らせる。


出てくる人。


入っていく人。


誰かを待っている人。


一人ひとりの顔を、こんなに真剣に見たことはなかったかもしれない。


違う。


違う。


まだ来ていない。


「たいしくん! お待たせ〜」


すぐ横から声がした。


振り返った瞬間、少しだけ息が止まった。


白のオーバーサイズTシャツに、くすんだテラコッタのミニスカート。


足元は白のスニーカー。


首元に細いゴールドのネックレスが一本。


ショートヘアに合わせた小さなフープピアスが、動くたびに揺れていた。


派手じゃない。


でも、ちゃんと選んできた感じがした。


制服じゃない彼女を見たのは初めてだった。


同じ人間なのに、どこか違う人みたいに見えた。


「……待ってない」


それだけ言って、視線を逸らした。


「ほんと? よかった。ちょっと急いできたんだけど、遅れてたらどうしよって思って」


「……うん。大丈夫」


「たいしくんって、お出かけのときそういう服装なんだ。似合ってるね」


「……あ、ありがと」


女の子に服装を褒められたのは、たぶん初めてだった。


しかも、彼女に。


「似合ってる」と言われただけなのに、返事をしたあとも耳のあたりに熱が残っている。


僕も、何か言えばよかった。


今日の彼女は、制服のときとは違って見えた。


鞄の持ち方も、髪の揺れ方も、いつもより少し柔らかい。


制服のときの彼女を思い出そうとしても、目の前の姿が先に割り込んでくる。


見慣れていたはずの輪郭が、知らない光で縁取られていた。


けれど、今それを言えば、褒められたから返しただけに聞こえる気がした。


それは嫌だった。


本当に思ったことまで、形だけの言葉みたいになる。


そう考えているうちに、言えるタイミングは過ぎていた。


ふと、周りを見る。


友達が、まだ来ていない。


改札の前にも、駅の柱のそばにも、それらしい人影はなかった。


「じゃ、行こっか!」


「え?」


彼女はすでに向きを変えていた。


迷いのない足取りで先へ進んでいく。


確かめる間もなかった。


僕は、答えの出ないまま彼女の後ろをついていった。


駅から数分歩いたところに、そのカフェはあった。


淡いベージュの外壁に、小さな黒板が立てかけてある。


今日のおすすめが、丸みのある手書きの文字で書かれていた。


大きくはないが、外から見ても中が少し暗くて落ち着いていることが分かった。


中へ入ると、日曜らしい穏やかな混み具合だった。


天井が高く、間接照明が木目のテーブルをやわらかく照らしている。


BGMは小さく、隣の会話がちょうど聞こえない程度の音量だった。


長居できる店だと、すぐに分かった。


向かい合って座る。


視線の置き場がなくて、テーブルの木目をなぞるように眺めた。


「たいしくん、この店来たことある?」


「……ないかな」


「何か飲む?」


「……うん」


渡されたメニューに目を落とす。


文字が多くて、どれを選べばいいのかすぐには分からなかった。


「甘いのって平気?」


「……たぶん」


「たぶんなんだ」


真希が少し笑った。


「じゃあ、緑茶でいいかな? 甘くないし、ここの飲みやすいよ」


「……うん」


「じゃあ私はミルクティーにしよっと」


彼女は迷いなくそう言って、次にパンのメニューへ視線を移した。


「たいしくん、こういうの食べる? チーズ入ってるやつ」


「……たぶん」


「またたぶん」


笑われて、視線をメニューの端へ逃がす。


それでも、彼女は急かさなかった。


いくつか指差しながら、これは重い、これは食べやすい、これはちょっと味が濃い、とひとつずつ教えてくれる。


結局、焼き色のついた小さなパンのセットを選んだ。


自分ひとりなら、たぶん適当に済ませていた。


けれど、こうして誰かとメニューを決めるのは、思っていたより悪くなかった。


しばらくして、注文したものが運ばれてくる。


何もなかったテーブルに、まず緑茶のグラスが置かれた。


その隣に、彼女のミルクティーが続く。


淡い茶色の上に、白い泡が少しだけ残っていた。


僕の前には、焼き色のついた小さなパンと、控えめに添えられたサラダ。


彼女の前には、ベリーソースのかかったフレンチトーストが置かれた。


白い皿の上で、赤いソースがゆっくり流れている。


端には小さなクリームまで乗っていた。


同じテーブルなのに、僕の前だけ少し静かで、彼女の前だけ色が多い。


さっきまで木目しかなかった場所が、急に別の時間みたいに見えた。


「そういえば、来週テストだよね」


真希がストローを手に取りながら言った。


「たいしくん、勉強できてる?」


「……あんまり」


そう答えながら、グラスの水滴を指先でなぞった。


「だよね〜。私、テストだからってあんまり気にしないタイプなんだよね」


彼女はミルクティーを軽く混ぜながら言った。


「テスト直前に、ばーって一気に覚えるの。暗記はちょっと得意」


少しだけ誇らしげだった。


「……俺も、そんな感じ」


少し嘘をついた。


本来なら、一週間前には始めている。


「え、そうなの?」


彼女が顔を上げる。


「なんか嬉しい〜。たいしくんは頭いいから、ちゃんと前から勉強してるのかと思ってた」


「……そんなことないけどね」


「私はほんとに直前じゃないと動けないからさ。ちゃんと前からやれたらいいんだけど」


そう言って、彼女は小さく笑った。


「でも、さすがに遅くまでは悪いから、今日は少しだけ付き合ってね〜」


付き合って。


その言葉だけが、会話の中で少しだけ形を変えた。


意味が違うことくらい、分かっている。


それでも、返事が少し遅れた。


「……うん」


ふと気づく。


友達が、一向に来ない。


店の入口に目を向ける。


誰かが入ってくるたびに、彼女の友達かと思った。


けれど、違う。


席に近づいてくる人はいない。


彼女も、誰かを待っている様子には見えなかった。


もしかして——今日は、二人きりなのか。


その考えが頭に触れた瞬間、指先がかすかに震えた。


テーブルの下で、こっそり握り込む。


緑茶のグラスには、まだ半分ほど残っていた。


減らない理由は、自分でも分かっている。


紅茶を飲み干した彼女が、ふと顔を上げた。


「たいしくんって、仲のいい友達っていたりする?」


唐突な質問に、入口の方へ向いていた意識が引き戻された。


「……いないね」


答えるまで、時間はかからなかった。


考える必要のないことだった。


浅く考えても、深く考えても、答えは同じだった。


「……そうなんだ」


彼女はそう言って、少しだけ黙った。


さっきまで自然に流れていた会話が、そこで一度止まる。


店内の音が、急に近くなった。


「友達って、欲しいと思う?」


声の調子が、少し違っていた。


明るく軽く聞いているわけではない。


それでも、重くしすぎないようにしているのが分かった。


「……あんまり、思わないかな」


彼女はすぐには返さなかった。


笑っていなかった。


その顔を見た瞬間、さっきまでの落ち着かなさが引いていく。


二人きりかもしれないとか、何を言えばいいのかとか、そういうものが少し遠くなった。


「どうして、いらないの?」


改めて聞かれると、すぐには答えられなかった。


いらない。


そう思っているはずなのに、理由を言葉にしようとすると、少しだけ形が崩れた。


寂しさを埋めるため。


一人でいるのが恥ずかしいから。


なんとなく話が合う相手がいたから。


友達を作る理由なんて、たいていそんなものだと思っていた。


僕が見てきた関係は、どれも脆かった。


少し返事を間違えるだけで、空気が変わる。


一度ずれた距離は、たいてい元には戻らない。


卒業すれば、少しずつ連絡は減っていく。


それでも友達と呼ぶのなら、たぶん僕の欲しいものとは違う。


心の底から分かり合える。


そういうものがどこかにあると、昔は思っていたのかもしれない。


けれど、見つからないものを探し続けるのは疲れる。


いつの間にか、最初から求めない方が楽になっていた。


彼女に聞かれて、初めてそこまで考えた。


「一人でも十分だからかな」


少し考えてから、そう答えた。


「友達が絶対に必要って感じ、あんまりないし」


「……え、そうかな? 寂しくない?」


「寂しくはないよ」


そこは、迷わなかった。


「周りはそう思いそうだけど、僕は一人でいいって思えてるから」


真希は少しだけ目を丸くした。


それから、止まっていた空気をほどくみたいに、ふっと笑った。


「すごっ。自立してる。本当に同い年?」


冗談めかした声だった。


「……同い年だよ」


そう返すだけで、少し口元が緩みそうになる。


「たいしくんって、学校楽しい?」


「楽しい」


即答していた。


自分でも、少し驚いた。


「返事早っ。なんでなんで?」


君がいるから。


そんなこと、言えるはずがない。


「……まあ、前よりは」


それくらいで誤魔化した。


途中、真希がトイレへ立った。


一人になると、急にテーブルの上が広く見えた。


緑茶のグラスも、空いた皿も、さっきまでより少しだけ距離がある。


何か話題を考えようとした。


戻ってきたら、今度は自分から何か言えばいい。


けれど、頭はうまく動かなかった。


木目を目で追っているうちに、彼女が戻ってくる。


席に着くなり、何でもないことみたいに話し始めた。


途切れたはずの時間が、また自然に動き出す。


場を作るのは、いつも彼女だった。





店を出ると、時刻は二時を少し過ぎていた。


駅前の空気は、入る前より少し明るく感じた。


歩き出してから、何度か目が合った。


ほんの一瞬。


すぐに逸らしてしまうくらいの短さだった。


それでも、今日はその一瞬にいちいち意味が生まれる。


人生で初めてのデートかもしれない。


そう断言できないのは、真希がどう思っているのか分からないからだ。


けれど少なくとも、僕にとってはそういう日だ。


胸のあたりに残ったものを抱えたまま、真希の後ろをついていく。


真希の鞄が揺れる。


髪が肩のあたりで小さく跳ねる。


それを見ているだけで、次にどこへ向かうのかなんて、少しどうでもよくなっていた。





カチャ。


家の扉を開ける。


誰もいないリビングに、そのまま倒れ込んだ。


クッションに顔を埋めて、しばらく動けなかった。


時刻は十八時過ぎ。


信じられないくらい、あっという間だった。


仰向けになって、今日のことを順番に思い返す。


カフェを出たあと、映画を見た。


終わってから、真希と感想を言い合った。


真希は、まだ画面の熱を残したまま話していた。


あの場面がすごかったとか、あのキャラがかっこよかったとか、言葉が次々に出てくる。


その横で、僕は少し違うことを考えていた。


戦う理由。


追い詰められた人間が、どこで折れて、どこで踏みとどまるのか。


単純な勝ち負けではないところが、妙に引っかかっていた。


それを話すと、真希はしばらく黙った。


「そこまで考えながら見てたんだ」


驚いているというより、知らないものに触れたような顔だった。


帰り道では、ツミツミの話になった。


真希がスマホを見せながら説明してくれる。


ルールも、コツも、たぶんちゃんと聞いていた。


けれど、途中からは画面より、真希の指の動きばかり見ていた。


細い指が、迷いなく画面の上を滑っていく。


そのたびに、小さな光が指先に弾かれる。


同じ時間に、同じものを見ていた。


ただそれだけのことが、ずっと残っている。


誰かとこんなふうに時間を過ごしたのは、初めてだった。


テストのことを気にかけてくれていたが、今となってはどうでもよかった。


一応椅子に座り、教科書を開く。


けれど、駄目だった。


文字を追っていても、意味が入ってこない。


さっきまで隣にいた人間の顔が、画面の上に透けて見えるようだった。


指がペンシルを握ったまま、どこにも動かない。


諦めて、背もたれに体を預けた。


天井の白い壁。


何もないはずなのに、目が止まる。


視線を動かす理由がなかった。


そのとき、机の上のスマホが鳴った。


体が勝手に動いた。


画面には、真希の名前があった。


【今日はありがと〜たいしくんのこといっぱい知れてよかった!また来週ね】


しばらく、その文面を見ていた。


また来週。


その言葉だけで、今日がまだ終わっていないような気がした。


少し間を置いて、写真が届く。


カフェで撮った一枚だった。


真希は、よく撮れていた。


画面の中でも、当たり前みたいに笑っている。


その隣で、僕だけが不自然に固まっていた。


口元は中途半端で、視線も少しずれている。


並んでいるのに、同じ写真の中にいる感じがしない。


不釣り合いだな、と自分でも思った。

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