葛藤
一週間後。
朝のHR。
「先週のテスト、お疲れさまでした」
担任は、いつものけだるい声で言った。
「今日から各教科で返却が始まります。赤点だった人は、それぞれの担当の先生から補修の連絡があると思うので、逃げないように」
教室がざわつく。
心当たりのある顔が、あちこちで分かりやすく歪んだ。
「本郷、お前赤点何個ある?」
まさとが後ろから聞いた。
本郷は前を向いたまま、椅子の背にもたれている。
「赤点って何点からだっけ」
声に、まるで危機感がなかった。
「三十点未満。まあ確定だろ」
「舐めんなよ」
本郷は少しだけ顎を上げた。
「彼女ができた俺は一味違うね」
まさとが短く笑う。
聞くつもりがなくても、会話は耳に入ってくる。
本郷と一緒に補習。
それだけは避けたい。
けれど、回避できる確信はなかった。
*
一時間目が終わった。
返却されたテスト用紙を前に、教室のあちこちで声が上がっていた。
「終わった」
「補修確定じゃん」
「これ親に見せたくないんだけど」
本郷の方からも、やけに大きなため息が聞こえる。
僕は返されたテスト用紙を、一度だけ見た。
赤い印はない。
それだけで、ひとまず十分だった。
十分だと思ってしまったことに、少しだけ嫌な感じが残る。
右上の数字には、もう目を向けなかった。
紙を半分に折り、机の中へ滑り込ませる。
見えなくなれば、少しは遠くなる気がした。
*
二時間目。
体育の授業。
五月の空は高く、グラウンドには風が通っていた。
サッカーボールを蹴る音と、誰かの笑い声が、乾いた土の上を転がっていく。
男子たちは思い思いにボールを追いかけていた。
女子は少し離れた場所で試合をしている。
ただ、たまに蹴られたボールが予想もしない方向へ飛んでいくせいで、ある意味では男子より危なかった。
僕はフィールドの端に腰を下ろし、それを遠くから眺めていた。
体を動かすことは得意じゃない。
運動神経がいいとも言えない。
体育の授業だけは、いつも少し気が重い。
地面に目を落とす。
蟻が一匹、土の上をうろうろしていた。
何かを探しているのか、ただ迷っているのかは分からない。
蟻を観察するのは、相当暇な人間だけだ。
今の僕は、それだった。
「やほ、何してる?」
顔を上げると、莉々が立っていた。
「何もしてない」
「だよね」
莉々は隣に腰を下ろした。
少し距離を置いて座ったつもりだったが、それでも近かった。
グラウンドを眺めながら、少しの間何も言わなかった。
「ねえ、ちょっと聞いていい?」
「何?」
「真希って、たいしくんからどんなふうに見える?」
唐突だった。
「……どんなふうに、って」
「なんとなく気になっただけ。印象とか」
責めているわけでも、探っているわけでもない。
本当にただそれだけ、という軽さだった。
答えなければ、また別の角度から聞いてくるだろう。
この人はそういう聞き方をする。
視線をグラウンドへ逃がしたまま、短く返す。
「……光、かな」
「光?」
「見てるだけで、なんか楽しくなる。そばにいると、少し元気になれる」
莉々は小さく頷いた。
「光か。まあ、明るいよね」
それだけ言って、また前を向く。
聞いた通りのものが返ってきた、というような顔だった。
しばらく、二人ともグラウンドを眺めていた。
「あんなに素敵なのに、彼氏いないの意外だよね」
何気ない一言だった。
それでも、頭の中でゆっくりと沈んでいく。
——彼氏がいない保証なんて、どこにもなかった。
「ちょっと、聞いてる?」
莉々の声が、遠くから戻ってくる。
「真希、最近なんか変なんだよね」
視線を向けると、莉々は少しだけ眉を寄せていた。
心配というより、どこか引っかかっているような顔だった。
「じゃ、見学頑張って」
それだけ言って、莉々は立ち上がった。
足音が遠ざかっていく。
グラウンドに笑い声が戻る。
何も変わっていないのに、足元だけが少し重くなった気がした。
*
四時間目。
返却されたテスト用紙が、机の上に伏せられている。
点数は見た。
見なければよかった。
指先で紙の端をわずかに持ち上げて、また戻す。
赤い数字が、瞼の裏にぼんやりと残っている。
黒板の前で、先生が何かを話している。
僕は顔だけを上げていた。
視線は黒板のあたりに置いている。
けれど、文字の並びは少しも入ってこない。
真希に、好きな人がいるのかもしれない。
そう考えると、胸の奥に重いものが落ちた。
嫉妬とも違う。
ただ、じわりと冷たい。
莉々は何気なく言っただけだ。
深い意味なんてなかったのかもしれない。
それでも、一度入ってきたものは、そう簡単には出ていかなかった。
先生が教科書のページをめくる。
何人かがノートに書き込む音がした。
僕の机の上では、ペンが転がったままだった。
手は膝の上で、指先だけが小さく動いている。
窓の外を見る。
空には、特に何もなかった。
*
四時間目が終わる鐘が鳴った。
僕は鞄を持って、すぐに教室を出た。
昼休みの廊下には、もう人の流れができていた。
財布を手にした生徒が階段へ向かい、踊り場のあたりで何人かが足を止めている。
売店へ行く声が、上の階から降ってきた。
すれ違うたびに、肩が少し引っかかる。
鞄を持つ手に、力が入った。
踊り場を曲がるたびに、廊下の奥が少しずつ近づいてくる。
下の階へ降りるころには、研究部の教室の扉が視界に入っていた。
扉を開けて、いつもの席に座る。
机の上に弁当を広げた。
窓から入る光だけが、床の上をゆっくり動いていた。
声も、椅子を引く音もない。
箸を持ったまま、しばらく動けなかった。
蓋の裏についた水滴が、机にひとつ落ちる。
卵焼きの甘い匂いが、今日は少し重い。
一口だけ運ぶ。
噛む音が、やけに近く聞こえた。
飲み込むまでに時間がかかる。
喉の奥で、何かが細く引っかかっていた。
いつもなら、この静けさが好きだった。
けれど今日は、窓の外のざわめきばかりが耳に残った。
箸の先で、ご飯を少し崩す。
弁当箱の隅に寄せたまま、また手が止まる。
昼休みは、まだ始まったばっかりだった。
*
放課後。
研究部の教室の前まで来て、足が止まった。
廊下には、もうほとんど人がいない。
遠くの教室から、椅子を引く音だけが聞こえた。
ドアの取っ手に手をかける。
冷たい感触が、指先に残った。
少し遅れて、扉を開ける。
中には、あんりがいた。
いつもの席で本を読んでいる。
僕が入っても、すぐには顔を上げなかった。
鞄を机の横に置いて、椅子を引く。
座る音が、思ったより大きく響いた。
ページをめくる音が止まる。
「今日はいつもより遅かったね」
あんりは本から顔を上げないまま言った。
「部活、サボる気だった?」
「一応来ただろ」
「一応ね」
そこでようやく、あんりが顔を上げた。
目だけが、少し笑っている。
「それで、テスト何点だった?」
僕は答えなかった。
机の上に置いた鞄の持ち手を、指で押さえる。
革の跡が、指先に薄く残った。
あんりは僕の顔を見て、すぐに視線を本へ戻した。
「まあ、見るまでもないか」
ページの角を指で弾く。
「今回は全部、私が勝ってると思うけど」
何も言えない。
でも、机の下で握った手に、少しだけ力が入った。
「今はテストより大事なことがある」
「以前のあなたに言ってやりたいね」
あんりは推理小説を閉じて、席を立った。
「今日のテーマは一人でやって。前回、私一人でやったから」
それだけ言って、あんりは鞄を肩にかけた。
椅子の脚が、床を短く擦る。
僕は何も返せないまま、その音だけを聞いていた。
あんりの足音が、教室の後ろを通り過ぎていく。
振り返ることも、立ち止まることもなく、扉の向こうへ消えた。
少し遅れて、扉が静かに閉まった。
電卓を叩きながら、ぼんやりと考えていた。
恋をするまでの僕は、無駄を嫌っていた。
感情で動かない。
必要のないことに時間を使わない。
それが、自分にとって正しいやり方だった。
でも今は違う。
テストの点数は落ちた。
授業中、気づくと真希のことを考えている。
勉強しようとしても、指が止まる。
どこを取っても、以前の自分からは遠ざかっていた。
それでも、戻りたいとは思えなかった。
理屈で割り切れないものが、たしかにここにある。
正しいかどうかを考える前に、体がそちらへ向いている。
そういう状態を恋と呼ぶのなら、僕はもう、ずいぶん深いところまで来てしまったのだと思う。
電卓を置いて、天井を見上げた。
今の僕には、真希のほうが大事だった。
それだけは、はっきりしていた。
*
夜十時。
部屋には、小さな蛍光灯の光だけが残っていた。
ベッドに寝そべり、腕を枕にして天井を見る。
白い天井は、何も答えなかった。
スマホを手に取る。
真希とのチャット欄を開くと、最後のやり取りが画面の下に残っていた。
親指が、テキストボックスの上で止まる。
明日。
そこまで打って、指が動かなくなった。
画面の光が、布団の上に薄く落ちている。
たった二文字なのに、胸の奥が少し詰まった。
莉々の言葉が、ふいに耳の奥で戻ってくる。
——彼氏いないの意外だよね。
今はいない。
それだけだった。
スマホを握る手に、少し力が入る。
送信ボタンの近くで、親指が迷ったまま止まっていた。
息を吸う。
思ったより浅かった。
数秒だけ画面を見つめてから、入力した文字を消した。
部屋が、さっきより静かになった気がした。
スマホを伏せて、布団を被る。
暗くなった中で、鼓動だけがやけにはっきり聞こえた。




