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葛藤

一週間後。


朝のHR。


「先週のテスト、お疲れさまでした」


担任は、いつものけだるい声で言った。


「今日から各教科で返却が始まります。赤点だった人は、それぞれの担当の先生から補修の連絡があると思うので、逃げないように」


教室がざわつく。


心当たりのある顔が、あちこちで分かりやすく歪んだ。


「本郷、お前赤点何個ある?」


まさとが後ろから聞いた。


本郷は前を向いたまま、椅子の背にもたれている。


「赤点って何点からだっけ」


声に、まるで危機感がなかった。


「三十点未満。まあ確定だろ」


「舐めんなよ」


本郷は少しだけ顎を上げた。


「彼女ができた俺は一味違うね」


まさとが短く笑う。


聞くつもりがなくても、会話は耳に入ってくる。


本郷と一緒に補習。


それだけは避けたい。


けれど、回避できる確信はなかった。





一時間目が終わった。


返却されたテスト用紙を前に、教室のあちこちで声が上がっていた。


「終わった」


「補修確定じゃん」


「これ親に見せたくないんだけど」


本郷の方からも、やけに大きなため息が聞こえる。


僕は返されたテスト用紙を、一度だけ見た。


赤い印はない。


それだけで、ひとまず十分だった。


十分だと思ってしまったことに、少しだけ嫌な感じが残る。


右上の数字には、もう目を向けなかった。


紙を半分に折り、机の中へ滑り込ませる。


見えなくなれば、少しは遠くなる気がした。





二時間目。


体育の授業。


五月の空は高く、グラウンドには風が通っていた。


サッカーボールを蹴る音と、誰かの笑い声が、乾いた土の上を転がっていく。


男子たちは思い思いにボールを追いかけていた。


女子は少し離れた場所で試合をしている。


ただ、たまに蹴られたボールが予想もしない方向へ飛んでいくせいで、ある意味では男子より危なかった。


僕はフィールドの端に腰を下ろし、それを遠くから眺めていた。


体を動かすことは得意じゃない。


運動神経がいいとも言えない。


体育の授業だけは、いつも少し気が重い。


地面に目を落とす。


蟻が一匹、土の上をうろうろしていた。


何かを探しているのか、ただ迷っているのかは分からない。


蟻を観察するのは、相当暇な人間だけだ。


今の僕は、それだった。


「やほ、何してる?」


顔を上げると、莉々が立っていた。


「何もしてない」


「だよね」


莉々は隣に腰を下ろした。


少し距離を置いて座ったつもりだったが、それでも近かった。


グラウンドを眺めながら、少しの間何も言わなかった。


「ねえ、ちょっと聞いていい?」


「何?」


「真希って、たいしくんからどんなふうに見える?」


唐突だった。


「……どんなふうに、って」


「なんとなく気になっただけ。印象とか」


責めているわけでも、探っているわけでもない。


本当にただそれだけ、という軽さだった。


答えなければ、また別の角度から聞いてくるだろう。


この人はそういう聞き方をする。


視線をグラウンドへ逃がしたまま、短く返す。


「……光、かな」


「光?」


「見てるだけで、なんか楽しくなる。そばにいると、少し元気になれる」


莉々は小さく頷いた。


「光か。まあ、明るいよね」


それだけ言って、また前を向く。


聞いた通りのものが返ってきた、というような顔だった。


しばらく、二人ともグラウンドを眺めていた。


「あんなに素敵なのに、彼氏いないの意外だよね」


何気ない一言だった。


それでも、頭の中でゆっくりと沈んでいく。


——彼氏がいない保証なんて、どこにもなかった。


「ちょっと、聞いてる?」


莉々の声が、遠くから戻ってくる。


「真希、最近なんか変なんだよね」


視線を向けると、莉々は少しだけ眉を寄せていた。


心配というより、どこか引っかかっているような顔だった。


「じゃ、見学頑張って」


それだけ言って、莉々は立ち上がった。


足音が遠ざかっていく。


グラウンドに笑い声が戻る。


何も変わっていないのに、足元だけが少し重くなった気がした。





四時間目。


返却されたテスト用紙が、机の上に伏せられている。


点数は見た。


見なければよかった。


指先で紙の端をわずかに持ち上げて、また戻す。


赤い数字が、瞼の裏にぼんやりと残っている。


黒板の前で、先生が何かを話している。


僕は顔だけを上げていた。


視線は黒板のあたりに置いている。


けれど、文字の並びは少しも入ってこない。


真希に、好きな人がいるのかもしれない。


そう考えると、胸の奥に重いものが落ちた。


嫉妬とも違う。


ただ、じわりと冷たい。


莉々は何気なく言っただけだ。


深い意味なんてなかったのかもしれない。


それでも、一度入ってきたものは、そう簡単には出ていかなかった。


先生が教科書のページをめくる。


何人かがノートに書き込む音がした。


僕の机の上では、ペンが転がったままだった。


手は膝の上で、指先だけが小さく動いている。


窓の外を見る。


空には、特に何もなかった。





四時間目が終わる鐘が鳴った。


僕は鞄を持って、すぐに教室を出た。


昼休みの廊下には、もう人の流れができていた。


財布を手にした生徒が階段へ向かい、踊り場のあたりで何人かが足を止めている。


売店へ行く声が、上の階から降ってきた。


すれ違うたびに、肩が少し引っかかる。


鞄を持つ手に、力が入った。


踊り場を曲がるたびに、廊下の奥が少しずつ近づいてくる。


下の階へ降りるころには、研究部の教室の扉が視界に入っていた。


扉を開けて、いつもの席に座る。


机の上に弁当を広げた。


窓から入る光だけが、床の上をゆっくり動いていた。


声も、椅子を引く音もない。


箸を持ったまま、しばらく動けなかった。


蓋の裏についた水滴が、机にひとつ落ちる。


卵焼きの甘い匂いが、今日は少し重い。


一口だけ運ぶ。


噛む音が、やけに近く聞こえた。


飲み込むまでに時間がかかる。


喉の奥で、何かが細く引っかかっていた。


いつもなら、この静けさが好きだった。


けれど今日は、窓の外のざわめきばかりが耳に残った。


箸の先で、ご飯を少し崩す。


弁当箱の隅に寄せたまま、また手が止まる。


昼休みは、まだ始まったばっかりだった。





放課後。


研究部の教室の前まで来て、足が止まった。


廊下には、もうほとんど人がいない。


遠くの教室から、椅子を引く音だけが聞こえた。


ドアの取っ手に手をかける。


冷たい感触が、指先に残った。


少し遅れて、扉を開ける。


中には、あんりがいた。


いつもの席で本を読んでいる。


僕が入っても、すぐには顔を上げなかった。


鞄を机の横に置いて、椅子を引く。


座る音が、思ったより大きく響いた。


ページをめくる音が止まる。


「今日はいつもより遅かったね」


あんりは本から顔を上げないまま言った。


「部活、サボる気だった?」


「一応来ただろ」


「一応ね」


そこでようやく、あんりが顔を上げた。


目だけが、少し笑っている。


「それで、テスト何点だった?」


僕は答えなかった。


机の上に置いた鞄の持ち手を、指で押さえる。


革の跡が、指先に薄く残った。


あんりは僕の顔を見て、すぐに視線を本へ戻した。


「まあ、見るまでもないか」


ページの角を指で弾く。


「今回は全部、私が勝ってると思うけど」


何も言えない。


でも、机の下で握った手に、少しだけ力が入った。


「今はテストより大事なことがある」


「以前のあなたに言ってやりたいね」


あんりは推理小説を閉じて、席を立った。


「今日のテーマは一人でやって。前回、私一人でやったから」


それだけ言って、あんりは鞄を肩にかけた。


椅子の脚が、床を短く擦る。


僕は何も返せないまま、その音だけを聞いていた。


あんりの足音が、教室の後ろを通り過ぎていく。


振り返ることも、立ち止まることもなく、扉の向こうへ消えた。


少し遅れて、扉が静かに閉まった。


電卓を叩きながら、ぼんやりと考えていた。


恋をするまでの僕は、無駄を嫌っていた。


感情で動かない。


必要のないことに時間を使わない。


それが、自分にとって正しいやり方だった。


でも今は違う。


テストの点数は落ちた。


授業中、気づくと真希のことを考えている。


勉強しようとしても、指が止まる。


どこを取っても、以前の自分からは遠ざかっていた。


それでも、戻りたいとは思えなかった。


理屈で割り切れないものが、たしかにここにある。


正しいかどうかを考える前に、体がそちらへ向いている。


そういう状態を恋と呼ぶのなら、僕はもう、ずいぶん深いところまで来てしまったのだと思う。


電卓を置いて、天井を見上げた。


今の僕には、真希のほうが大事だった。


それだけは、はっきりしていた。





夜十時。


部屋には、小さな蛍光灯の光だけが残っていた。


ベッドに寝そべり、腕を枕にして天井を見る。


白い天井は、何も答えなかった。


スマホを手に取る。


真希とのチャット欄を開くと、最後のやり取りが画面の下に残っていた。


親指が、テキストボックスの上で止まる。


明日。


そこまで打って、指が動かなくなった。


画面の光が、布団の上に薄く落ちている。


たった二文字なのに、胸の奥が少し詰まった。


莉々の言葉が、ふいに耳の奥で戻ってくる。


——彼氏いないの意外だよね。


今はいない。


それだけだった。


スマホを握る手に、少し力が入る。


送信ボタンの近くで、親指が迷ったまま止まっていた。


息を吸う。


思ったより浅かった。


数秒だけ画面を見つめてから、入力した文字を消した。


部屋が、さっきより静かになった気がした。


スマホを伏せて、布団を被る。


暗くなった中で、鼓動だけがやけにはっきり聞こえた。

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