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告白

次の日の朝。


HRの時間、担任は教卓の椅子に座ったままだった。


片手でプリントをめくり、もう片方の手で欠伸を隠している。


「特に連絡はありません」


それだけ言うと、担任はまた手元の紙に目を落とした。


教室の空気をまとめる気は、最初からなさそうだった。


ふと視線を向けると、後ろの席の莉々が真希の肩をとんとんと叩いていた。


莉々が何かを耳打ちすると、真希の肩が一瞬止まった。


それから、こらえきれないように揺れ始める。


ざわついた教室の中で、その笑い声だけが耳に残った。


見ているだけで、息が楽になった。


——でも同時に、その輪に入れない誰かがいることにも気づく。


スマホを取り出す。


アプリの一覧に、GoTalkのアイコン。


僕はそのアイコンをしばらく眺めていた。





三時間目の授業中だった。


真希が隣の席の男子と、小声で何かを話していた。


いつものことのはずだった。


隣の男子が何かを言う。


真希が笑った。


その声だけが、耳に残る。


反射的に、片方の耳を手で覆った。


すぐに手を下ろす。


指先が、机の上で止まった。


黒板には、さっきより文字が増えている。


けれど、どこから書けばいいのか分からない。


もう一度、視線がそちらへ寄った。


真希が、隣の男子にノートを見せていた。


机の端が触れそうなくらい、二人の距離が近い。


すぐに目を外した。


シャーペンを持ち直す。


芯の先が紙に触れる。


それでも、手は動かなかった。


罫線だけが、白いページの上に並んでいる。


さっきの笑い声が、まだ耳の奥に残っていた。





放課後。


補習の教室は、二階の端にあった。


廊下を進むにつれて、人の声が遠ざかっていく。


部活へ向かう生徒たちの足音だけが、階段の方へ流れていた。


扉を開けると、本郷がいた。


一番前の席で、椅子に浅く腰かけている。


机に肘をつき、窓の外を見ていた。


他にも数人いた。


顔に見覚えはなかった。


席に着く。


椅子を引いて、少し遅れて腰を下ろした。


机の表面には、消しゴムの跡が薄く残っていた。


先生が配ったプリントを、黙って受け取る。


紙はまだ温かい。


印刷された文字が、やけにはっきり見えた。


隣の席から、本郷の声が聞こえる。


「はぁ……早く帰りてぇ」


本郷は頬杖をついたまま、プリントの端を指で弾いていた。


しばらくして、その指が止まる。


「なぁ、お前さ」


声が、こっちへ向いた。


顔を上げると、本郷が僕を見ていた。


「……俺?」


「終わったら見せて」


周りに聞こえないくらいの声だった。


僕はすぐに返事をしなかった。


本郷は、プリントを軽く持ち上げる。


「これ。分かった?」


少しの間、紙の白さだけを見ていた。


「……分かった」


本郷はそれで満足したみたいに、また頬杖をついた。


息が喉の奥で止まる。


吐き出す前に、シャーペンを握り直した。


一問目に視線を落とす。


問題文を読む。


途中で、目だけが先へ滑る。


もう一度、最初から読む。


芯の先が紙に触れた。


そのまま、動かない。


カチ、とシャーペンを押す。


芯が少し伸びる。


もう一度押した。


カチ。


強く書き出した瞬間、細い音がして、芯が折れた。


黒い欠片が、プリントの上に転がる。


本郷が隣で小さく欠伸をした。


僕は折れた芯を指で払って、またシャーペンを押した。


カチ。


今度は少しだけ力を抜いて、問題文の下に線を引く。


けれど、手の中のペンは重かった。


窓の外では、部活へ向かう生徒たちが校庭を横切っていた。


鞄を肩にかけた誰かが、友達に呼ばれて走り出す。


遠くで笑い声が上がる。


その声だけが、薄い窓ガラスを通り抜けてきた。


プリントの一問目は、まだ空白のままだった。


夜十七時。


蛍光灯のスイッチを入れる。


白い光が、狭い部屋をくっきりと切り取る。


机の前に座り、スマホを見つめた。


画面には、真希とのチャットが映し出されていた。


テキストボックスを指で押す。


『明日の放課後って暇?』


告白に直接関わる内容じゃない。


それでも、送るのをためらった。


何度も消して、また打って。


無駄な時間が積み重なっていく。


こういう無駄が、僕は一番嫌いだ。


それでも指が止まった。


数十分の葛藤の末、送信ボタンを押した。


スパっという効果音とともに、スマホを画面ごと伏せた。


心臓の音が、耳の奥まで届いていた。


お腹の奥が、じわりと痛む。


夜に食べたものが、胃の中で暴れている。


息を吸っても、うまく下まで入っていかなかった。


すぐに返信が来るとは思っていなかった。


けれど、この時間が耐えがたかった。


三十分後。


通知の音が鳴った。


ベッドに横になっていた体が、反射みたいに起き上がる。


布団が膝から落ちた。


急いでスマホを手に取る。


指がうまく当たらず、画面が一度だけ暗いまま揺れた。


もう一度押す。


【明日の放課後空いてるよ〜】


その文字を見た瞬間、胸の奥が跳ねた。


すぐに返信しそうになって、親指を止める。


息を一つ飲み込んだ。


早すぎる気がした。


でも、遅すぎても変な気がした。


テキストボックスを開いたまま、しばらく画面を見つめる。


何て返せばいいのか分からない。


たった一文を送るだけなのに、指先だけが熱かった。


【話したいことがあるから話したい】


スマホを切って、布団に倒れ込む。


真希からの返信を待ちながら、どこにも向けられない緊張だけが、部屋に漂っていた。





次の日の朝。


廊下で真希と会った。


「あ、おはよう」


先に声をかけてきたのは真希だった。


「おはよう」


返事をして、顔を上げる。


目が合っても、すぐには逸らさなかった。


真希が少し笑う。


その表情を見ても、前みたいに言葉が詰まることはなかった。


並んで教室へ向かう。


廊下の窓から、朝の光が床に伸びていた。


真希の歩く速さに、自然と足が合う。


短い会話を交わしながら、教室の扉をくぐった。


その間、何度か目が合った。


それでも、ちゃんと返せた。


席に着いてから、少し遅れて息を吐く。


机の上に置いた手が、まだほんのり熱かった。





時刻は十二時を過ぎていた。


昼休みの教室は、いつも通り騒がしい。


机の上に広げた弁当箱を、ぼんやりと眺める。


箸は、ほとんど動いていない。


朝はまだ、平気だった。


けれど、時計の針が進むたびに、放課後だけが近づいてくる。


卵焼きの端をつまむ。


口元まで運んで、途中で止まった。


喉の奥が狭い。


弁当箱の中身は、ほとんど減っていない。


それなのに、胃の奥だけが重かった。


卵焼きをひとつ、箸でつまむ。


口元まで運んで、止まる。


匂いだけで、胸のあたりが詰まった。


それでも口に押し込んだ。


噛むたびに、喉が拒むみたいに固くなる。


水筒を手に取って、無理やり流し込んだ。


喉の奥を通っていく感触が、やけにはっきり残る。


箸を握ったまま、弁当箱を見下ろした。


食べられない。


でも、逃げるつもりもなかった。


僕の覚悟は、もうできていた。





放課後になった。


そこまでの時間は、やけに長かった。


先生に指されても、しばらく自分のことだと分からなかった。


少し遅れて顔を上げると、教室の視線がこちらに向いていた。


気づけば、時計ばかり見ていた。


授業が終わるたびに、放課後が近づいてくる。


最後のチャイムが鳴った。


教室の中が一度、大きく動いた。


話し声や鞄を閉める音が、まとめて廊下へ流れていく。


僕はイヤホンをつけて、机に突っ伏した。


音楽は流れている。


けれど、曲の形はほとんど分からなかった。


目を閉じて、ただ時間が過ぎるのを待つ。


やがて、教室には僕だけが残った。


机の上に置いた手が、わずかに湿っている。


握って、開く。


それでも、指先の感覚は戻らなかった。


しばらくして、廊下から足音が近づいてきた。


扉が開く。


「ごめん! 遅くなっちゃった」


真希が息を弾ませながら入ってきた。


「大丈夫だよ」


声は出た。


けれど、自分の声ではないみたいに聞こえた。


真希が教室に入ってくる。


扉が閉まる音を聞いて、机の下で握っていた指の力が抜けた。


手のひらに、爪の跡が残っていた。


真希は鞄を机の横に置いて、椅子を引いた。


そのまま座ると、大きく背伸びをする。


固まっていたものをほどくみたいに、肩を少し回した。


「賑やかな教室も悪くないかもね〜」


そう言って、真希は誰もいない教室を見渡した。


さっきまであった声は、もう残っていない。


夕方の光だけが、机の端に薄く乗っていた。


僕は返事をしようとして、口を開く。


けれど、うまく言葉にならなかった。


喉の奥が、ひどく乾いている。


「……いや、賑やかなほうがいいか!」


真希は自分で言い直して、少し笑った。


どちらが本当かを確かめるみたいだった。


僕はその横顔を見ていた。


机の下で、指先が膝の布をつかむ。


「真希がいるから、教室が賑やかなんじゃないかな」


声に出すと、思っていたより静かに響いた。


「え! そうかな?」


真希は少し驚いたように笑った。


「……それだと、嬉しいかも」


そこで一度、言葉が途切れた。


僕は息を吸う。


「学校行くの嫌だったけど、真希がいるから行きたいって思えるし」


「え、何それ!」


真希が笑う。


「アプローチみたい」


冗談として受け取った笑い方だった。


僕も笑えばよかった。


そこで終わらせれば、まだ戻れた。


けれど、口元は動かなかった。


少し、黙った。


真希の笑顔が、ゆっくり静まっていく。


「俺、真希のこと好きだよ」


言った瞬間、教室の空気が変わった。


二人でいるはずなのに、誰もいないみたいに静かだった。


真希が作るはずのない沈黙が、机と机の間に落ちていた。


「……え?」


真希の声が、小さく落ちた。


さっきまで浮かんでいた笑みが、まだ口元に残っている。


けれど、目だけが少し遅れて止まった。


「好きって、どういう?」


真希は一度、言葉を切った。


「恋愛として?」


確認するような声だった。


冗談を拾うときの軽さは、もうなかった。


「うん」


喉の奥が乾いていた。


それでも、目は逸らさなかった。


「恋愛として、好きだよ」


教室の中が、また静かになる。


真希はすぐには答えなかった。


机の端に置いた指が、少しだけ動く。


爪の先で、机の表面をなぞっていた。


視線が僕から外れて、窓の方へ流れる。


夕方の光が、真希の横顔に薄くかかっていた。


「……私は」


そこで、真希は一度息を吸った。


「たいしくんが思ってるような人じゃないよ」


真希は少し目を伏せた。


「考え方も、やっぱり分からないし」


一度、息を吸う。


「たいしくんを見てると、昔の私みたいで」


そこで言葉が止まった。


「誰かを必要としてるのかなって、勝手に思ってた」


真希の指先が、制服の袖口をつまむ。


「でも、たいしくんは強い人だった」


その言葉だけが、静かな教室に残った。


振られた。


それだけは、はっきりと分かった。


真希の言葉が、頭の中でゆっくり繰り返される。


指先が小さく震えた。


止めようとして、膝の上で握り込む。


それでも震えは収まらなかった。


「このまま、友達として関わるのはだめかな?」


答えられなかった。


喉が動かない。


息だけが浅く抜ける。


椅子を引いた。


床を擦る音が、やけに大きく響いた。


鞄を持って、席を立つ。


足元が少し頼りなかった。


教室を出るとき、背中の方で真希が何か言っていた気がした。


でも、その声を聞ける状態じゃなかった。


廊下の空気は少し冷たかった。

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