告白
次の日の朝。
HRの時間、担任は教卓の椅子に座ったままだった。
片手でプリントをめくり、もう片方の手で欠伸を隠している。
「特に連絡はありません」
それだけ言うと、担任はまた手元の紙に目を落とした。
教室の空気をまとめる気は、最初からなさそうだった。
ふと視線を向けると、後ろの席の莉々が真希の肩をとんとんと叩いていた。
莉々が何かを耳打ちすると、真希の肩が一瞬止まった。
それから、こらえきれないように揺れ始める。
ざわついた教室の中で、その笑い声だけが耳に残った。
見ているだけで、息が楽になった。
——でも同時に、その輪に入れない誰かがいることにも気づく。
スマホを取り出す。
アプリの一覧に、GoTalkのアイコン。
僕はそのアイコンをしばらく眺めていた。
*
三時間目の授業中だった。
真希が隣の席の男子と、小声で何かを話していた。
いつものことのはずだった。
隣の男子が何かを言う。
真希が笑った。
その声だけが、耳に残る。
反射的に、片方の耳を手で覆った。
すぐに手を下ろす。
指先が、机の上で止まった。
黒板には、さっきより文字が増えている。
けれど、どこから書けばいいのか分からない。
もう一度、視線がそちらへ寄った。
真希が、隣の男子にノートを見せていた。
机の端が触れそうなくらい、二人の距離が近い。
すぐに目を外した。
シャーペンを持ち直す。
芯の先が紙に触れる。
それでも、手は動かなかった。
罫線だけが、白いページの上に並んでいる。
さっきの笑い声が、まだ耳の奥に残っていた。
*
放課後。
補習の教室は、二階の端にあった。
廊下を進むにつれて、人の声が遠ざかっていく。
部活へ向かう生徒たちの足音だけが、階段の方へ流れていた。
扉を開けると、本郷がいた。
一番前の席で、椅子に浅く腰かけている。
机に肘をつき、窓の外を見ていた。
他にも数人いた。
顔に見覚えはなかった。
席に着く。
椅子を引いて、少し遅れて腰を下ろした。
机の表面には、消しゴムの跡が薄く残っていた。
先生が配ったプリントを、黙って受け取る。
紙はまだ温かい。
印刷された文字が、やけにはっきり見えた。
隣の席から、本郷の声が聞こえる。
「はぁ……早く帰りてぇ」
本郷は頬杖をついたまま、プリントの端を指で弾いていた。
しばらくして、その指が止まる。
「なぁ、お前さ」
声が、こっちへ向いた。
顔を上げると、本郷が僕を見ていた。
「……俺?」
「終わったら見せて」
周りに聞こえないくらいの声だった。
僕はすぐに返事をしなかった。
本郷は、プリントを軽く持ち上げる。
「これ。分かった?」
少しの間、紙の白さだけを見ていた。
「……分かった」
本郷はそれで満足したみたいに、また頬杖をついた。
息が喉の奥で止まる。
吐き出す前に、シャーペンを握り直した。
一問目に視線を落とす。
問題文を読む。
途中で、目だけが先へ滑る。
もう一度、最初から読む。
芯の先が紙に触れた。
そのまま、動かない。
カチ、とシャーペンを押す。
芯が少し伸びる。
もう一度押した。
カチ。
強く書き出した瞬間、細い音がして、芯が折れた。
黒い欠片が、プリントの上に転がる。
本郷が隣で小さく欠伸をした。
僕は折れた芯を指で払って、またシャーペンを押した。
カチ。
今度は少しだけ力を抜いて、問題文の下に線を引く。
けれど、手の中のペンは重かった。
窓の外では、部活へ向かう生徒たちが校庭を横切っていた。
鞄を肩にかけた誰かが、友達に呼ばれて走り出す。
遠くで笑い声が上がる。
その声だけが、薄い窓ガラスを通り抜けてきた。
プリントの一問目は、まだ空白のままだった。
夜十七時。
蛍光灯のスイッチを入れる。
白い光が、狭い部屋をくっきりと切り取る。
机の前に座り、スマホを見つめた。
画面には、真希とのチャットが映し出されていた。
テキストボックスを指で押す。
『明日の放課後って暇?』
告白に直接関わる内容じゃない。
それでも、送るのをためらった。
何度も消して、また打って。
無駄な時間が積み重なっていく。
こういう無駄が、僕は一番嫌いだ。
それでも指が止まった。
数十分の葛藤の末、送信ボタンを押した。
スパっという効果音とともに、スマホを画面ごと伏せた。
心臓の音が、耳の奥まで届いていた。
お腹の奥が、じわりと痛む。
夜に食べたものが、胃の中で暴れている。
息を吸っても、うまく下まで入っていかなかった。
すぐに返信が来るとは思っていなかった。
けれど、この時間が耐えがたかった。
三十分後。
通知の音が鳴った。
ベッドに横になっていた体が、反射みたいに起き上がる。
布団が膝から落ちた。
急いでスマホを手に取る。
指がうまく当たらず、画面が一度だけ暗いまま揺れた。
もう一度押す。
【明日の放課後空いてるよ〜】
その文字を見た瞬間、胸の奥が跳ねた。
すぐに返信しそうになって、親指を止める。
息を一つ飲み込んだ。
早すぎる気がした。
でも、遅すぎても変な気がした。
テキストボックスを開いたまま、しばらく画面を見つめる。
何て返せばいいのか分からない。
たった一文を送るだけなのに、指先だけが熱かった。
【話したいことがあるから話したい】
スマホを切って、布団に倒れ込む。
真希からの返信を待ちながら、どこにも向けられない緊張だけが、部屋に漂っていた。
*
次の日の朝。
廊下で真希と会った。
「あ、おはよう」
先に声をかけてきたのは真希だった。
「おはよう」
返事をして、顔を上げる。
目が合っても、すぐには逸らさなかった。
真希が少し笑う。
その表情を見ても、前みたいに言葉が詰まることはなかった。
並んで教室へ向かう。
廊下の窓から、朝の光が床に伸びていた。
真希の歩く速さに、自然と足が合う。
短い会話を交わしながら、教室の扉をくぐった。
その間、何度か目が合った。
それでも、ちゃんと返せた。
席に着いてから、少し遅れて息を吐く。
机の上に置いた手が、まだほんのり熱かった。
*
時刻は十二時を過ぎていた。
昼休みの教室は、いつも通り騒がしい。
机の上に広げた弁当箱を、ぼんやりと眺める。
箸は、ほとんど動いていない。
朝はまだ、平気だった。
けれど、時計の針が進むたびに、放課後だけが近づいてくる。
卵焼きの端をつまむ。
口元まで運んで、途中で止まった。
喉の奥が狭い。
弁当箱の中身は、ほとんど減っていない。
それなのに、胃の奥だけが重かった。
卵焼きをひとつ、箸でつまむ。
口元まで運んで、止まる。
匂いだけで、胸のあたりが詰まった。
それでも口に押し込んだ。
噛むたびに、喉が拒むみたいに固くなる。
水筒を手に取って、無理やり流し込んだ。
喉の奥を通っていく感触が、やけにはっきり残る。
箸を握ったまま、弁当箱を見下ろした。
食べられない。
でも、逃げるつもりもなかった。
僕の覚悟は、もうできていた。
*
放課後になった。
そこまでの時間は、やけに長かった。
先生に指されても、しばらく自分のことだと分からなかった。
少し遅れて顔を上げると、教室の視線がこちらに向いていた。
気づけば、時計ばかり見ていた。
授業が終わるたびに、放課後が近づいてくる。
最後のチャイムが鳴った。
教室の中が一度、大きく動いた。
話し声や鞄を閉める音が、まとめて廊下へ流れていく。
僕はイヤホンをつけて、机に突っ伏した。
音楽は流れている。
けれど、曲の形はほとんど分からなかった。
目を閉じて、ただ時間が過ぎるのを待つ。
やがて、教室には僕だけが残った。
机の上に置いた手が、わずかに湿っている。
握って、開く。
それでも、指先の感覚は戻らなかった。
しばらくして、廊下から足音が近づいてきた。
扉が開く。
「ごめん! 遅くなっちゃった」
真希が息を弾ませながら入ってきた。
「大丈夫だよ」
声は出た。
けれど、自分の声ではないみたいに聞こえた。
真希が教室に入ってくる。
扉が閉まる音を聞いて、机の下で握っていた指の力が抜けた。
手のひらに、爪の跡が残っていた。
真希は鞄を机の横に置いて、椅子を引いた。
そのまま座ると、大きく背伸びをする。
固まっていたものをほどくみたいに、肩を少し回した。
「賑やかな教室も悪くないかもね〜」
そう言って、真希は誰もいない教室を見渡した。
さっきまであった声は、もう残っていない。
夕方の光だけが、机の端に薄く乗っていた。
僕は返事をしようとして、口を開く。
けれど、うまく言葉にならなかった。
喉の奥が、ひどく乾いている。
「……いや、賑やかなほうがいいか!」
真希は自分で言い直して、少し笑った。
どちらが本当かを確かめるみたいだった。
僕はその横顔を見ていた。
机の下で、指先が膝の布をつかむ。
「真希がいるから、教室が賑やかなんじゃないかな」
声に出すと、思っていたより静かに響いた。
「え! そうかな?」
真希は少し驚いたように笑った。
「……それだと、嬉しいかも」
そこで一度、言葉が途切れた。
僕は息を吸う。
「学校行くの嫌だったけど、真希がいるから行きたいって思えるし」
「え、何それ!」
真希が笑う。
「アプローチみたい」
冗談として受け取った笑い方だった。
僕も笑えばよかった。
そこで終わらせれば、まだ戻れた。
けれど、口元は動かなかった。
少し、黙った。
真希の笑顔が、ゆっくり静まっていく。
「俺、真希のこと好きだよ」
言った瞬間、教室の空気が変わった。
二人でいるはずなのに、誰もいないみたいに静かだった。
真希が作るはずのない沈黙が、机と机の間に落ちていた。
「……え?」
真希の声が、小さく落ちた。
さっきまで浮かんでいた笑みが、まだ口元に残っている。
けれど、目だけが少し遅れて止まった。
「好きって、どういう?」
真希は一度、言葉を切った。
「恋愛として?」
確認するような声だった。
冗談を拾うときの軽さは、もうなかった。
「うん」
喉の奥が乾いていた。
それでも、目は逸らさなかった。
「恋愛として、好きだよ」
教室の中が、また静かになる。
真希はすぐには答えなかった。
机の端に置いた指が、少しだけ動く。
爪の先で、机の表面をなぞっていた。
視線が僕から外れて、窓の方へ流れる。
夕方の光が、真希の横顔に薄くかかっていた。
「……私は」
そこで、真希は一度息を吸った。
「たいしくんが思ってるような人じゃないよ」
真希は少し目を伏せた。
「考え方も、やっぱり分からないし」
一度、息を吸う。
「たいしくんを見てると、昔の私みたいで」
そこで言葉が止まった。
「誰かを必要としてるのかなって、勝手に思ってた」
真希の指先が、制服の袖口をつまむ。
「でも、たいしくんは強い人だった」
その言葉だけが、静かな教室に残った。
振られた。
それだけは、はっきりと分かった。
真希の言葉が、頭の中でゆっくり繰り返される。
指先が小さく震えた。
止めようとして、膝の上で握り込む。
それでも震えは収まらなかった。
「このまま、友達として関わるのはだめかな?」
答えられなかった。
喉が動かない。
息だけが浅く抜ける。
椅子を引いた。
床を擦る音が、やけに大きく響いた。
鞄を持って、席を立つ。
足元が少し頼りなかった。
教室を出るとき、背中の方で真希が何か言っていた気がした。
でも、その声を聞ける状態じゃなかった。
廊下の空気は少し冷たかった。




