意味
気がついたら、屋上への踊り場にいた。
どうやってここまで来たのか、よく覚えていない。
彼女の声が、まだ耳の奥に残っている。
階段の端に腰を下ろし、膝を抱えた。
僕だけが、さっきと違う場所にいる。
泣くつもりはなかった。
ただ、目が熱い。
こらえようとすると、逆に溢れてくる。
声を出さないように、膝に顔を押しつけた。
肩が、勝手に震える。
好きだった。
本当に、好きだった。
「私は、たいしくんの思っているような人じゃない」
じゃあ、僕は何を好きだったんだ。
答えが出ない。
出ないまま、涙だけが止まらない。
こんなふうに泣いたのは、いつ以来だろう。
記憶にないくらい、昔の話だ。
しばらくして、涙も出なくなった。
乾いた目をこする。
少し痛かった。
顔を上げても、視線はどこにも合わない。
閉じた屋上の扉の前で、ただ座っていた。
学校には、僕一人の息の音だけが残っていた。
どれくらい経ったのか分からない。
顔を上げると、窓の外がわずかにオレンジがかっていた。
赤くなった目で、その色をぼんやりと眺める。
きれいだと思う自分が、嫌だった。
立ち上がる気力も、まだなかった。
冷たい壁に背中を預けたまま、膝の上に手を置く。
手のひらが、少しだけ乾いていた。
*
家に着いた頃には、道の端に街灯の光だけが落ちていた。
玄関の前で鍵を出す。
差し込んで、回す。
いつもと同じ音がした。
ノブに手をかける。
あとは扉を開けるだけだった。
それなのに、手が動かなかった。
自分の家の前なのに、しばらく扉は開かなかった。
*
次の日。
目を開けたとき、部屋は明るかった。
カーテンの隙間から入った光が、床の上に細く伸びている。
枕元のスマホを手に取る。
画面は黒いままだった。
何度押しても、何も映らない。
夜のあいだ、ずっと握っていたせいで、手のひらだけが痛かった。
昨日の教室を、夢の中で何度も見た。
そのたびに目が覚めた。
ようやく眠れたのは、朝方だった。
ベッドの上で、天井を見つめる。
僕は何がしたかったんだろう。
その問いだけが、頭の奥に沈んだまま動かない。
自分なんかが彼女と付き合えるはずがない。
そんなことは、とっくに分かっていた。
分かっていたのに、胸の奥だけがまだ痛かった。
彼女は今、どうしているのだろう。
学校を休んでいるだろうか。
笑えているだろうか。
それとも、どこかで引きずっているのだろうか。
考え始めると、布団の中にいられなかった。
シーツが足に絡む。
それを蹴るみたいにして、上体を起こした。
部屋の隅に脱いだままの服が見える。
しばらく見ていたはずなのに、次の瞬間には袖を通していた。
制服には手を伸ばさなかった。
椅子の背にかかったまま、形だけ残っている。
ラップのかかった皿を横目に、そのまま玄関へ向かう。
靴を履く。
結び目を作る指が、何度か止まった。
けれど、ほどくことはしなかった。
玄関の扉を開ける。
外に出ると、昼の光が眩しかった。
*
校舎の外から、フェンス越しにグラウンドを見る。
体育の授業だった。
白線の引かれたコートの中に、彼女がいた。
クラスメイトたちと肩を並べている。
誰かがボールを取り損ねて、彼女が笑った。
声はここまで届かない。
けれど、笑っているのは分かった。
口元がほどけて、隣の子の肩に軽く触れる。
いつも通りだった。
いつも通り、そこにいた。
金網にかけた指が、動かなくなる。
昨日、教室で向かい合っていた時間が、遠くで折りたたまれていくみたいだった。
彼女はもう、あの場所にいない。
笛の音が鳴る。
彼女はすぐに前を向いて、クラスメイトの中へ戻っていった。
僕だけが、フェンスの外に残っていた。
胸の奥のどこかで、何かが変わった。
何かが静かに、確かに、閉じた音だった。
*
家に戻ると、玄関は静まり返っていた。
玄関を抜けて、自分の部屋へ入る。
空いたままだったカーテンを閉める。
私服のまま椅子に腰を下ろした。
首が後ろへ沈んで、視界に天井の端が入った。
しばらく、そのまま動かなかった。
ベッドに放っていたスマホの画面が点いた。
しばらく見てから、手を伸ばす。
彼女からだった。
チャット欄に映る文字を眺める。
『今日体調悪くて休んだんだよね。体調良くなったかな』
指が、画面の端で止まった。
すぐには返信欄を開けなかった。
画面が暗くなる。
もう一度、指で起こす。
喉の奥が詰まる。
椅子の背から、少し体を起こした。
返信欄を開く。
何度か親指が動いて、止まる。
打ちかけた文字を消した。
短く打つ。
『大丈夫だよ』
送信する。
自分の返事が、彼女の言葉の下に並んだ。
スマホをベッドに戻す。
今度は、画面を下にして置いた。
すぐ彼女から返信が来た。
『それは良かった。私はたいし君と友達として関わりたいんだけど。。ダメかな、?』
返信欄を開く。
親指が、ゆっくり動いた。
『ごめん。もう君とは話したくない』
打ち終わってから、しばらくその文字を眺めていた。
胸の音が、手の中まで響いている。
指先が小さく震える。
それでも、文字は消さなかった。
送信ボタンに触れる。
画面に、自分の言葉が並んだ。
それから彼女から返信はなかった。
*
次の日の朝、母が顔を覗き込んできた。
「おはよう、たいし。熱はおさまった?」
「うん、軽い風邪だよ。もう大丈夫」
嘘をついた。
これが一番早く終わる。
制服に腕を通しながら、ボタンを留める。
指が、いつもより少し鈍かった。
鞄を持ち上げて玄関に向かう。
靴に足を入れる。
どの動作も、普段と変わらないはずなのに、どこか水の中を歩いているような感覚があった。
洗面所の鏡に、自分が映っていた。
腫れた目は治っていた。
顔を洗う。
冷たい水が、肌に触れる。
タオルで拭いて、また鏡を見る。
変わらない。
何も感じない自分が、そこにいた。
朝のHR。
先生の声が、教室のざわめきに紛れていく。
聞こうとしていないのに、周りの会話だけが耳に入ってきた。
窓の外へ視線を逃がす。
それでも、教室の中は視界の端に残っていた。
同じ列の男女が、机を挟んで向かい合っている。
話すたびに、どちらかが身を乗り出す。
その近さだけで、分かった。
「いや〜、マジタイプ」
本郷の声で、視線が戻った。
「何が?」
まさとが聞く。
「隣のクラスのこの子。めちゃくちゃ可愛くない?」
本郷はスマホの画面を見せるように傾けた。
「まあ、俺はあんまだけど」
「え、お前B専?」
本郷が鼻で笑う。
「こんな子と付き合いてぇ〜」
「お前、彼女いるだろ」
「んー、なんか飽きたかも」
「飽きるの早すぎだろ」
二人が笑った。
その声が、机の表面を伝ってくるみたいだった。
僕は窓の外へ視線を戻す。
指先で、机の端を押さえた。
爪の下が、少し痛い。
先生はまだ何かを話している。
けれど、本郷の笑い声だけが、耳の奥に残っていた。
休み時間、逃げるように教室を出た。
廊下の窓枠に肘をつく。
外には誰もいない。
校舎の裏側は、昼でも薄く静かだった。
古い室外機の並びだけが、窓の下に見える。
廊下を、彼女と莉々が通り過ぎた。
「昨日また同じミスしてたよ」
「そうかなぁ?」
背中の方で、二人の声が重なった。
声はすぐ遠ざかる。
廊下には、もう足音だけが残っていた。
*
家に帰ると、鞄を玄関に下ろした。
肩から重さが消えたはずなのに、体は軽くならなかった。
そのまましばらく立っていた。
制服の袖口を指でつまむ。
朝より、布が重く感じた。
学校に行きたいと思っていた頃の熱が、どこかで冷えていた。
代わりに、何も置かれていない場所だけがある。
忘れたい。
でも明日も、同じ教室に彼女の席はある。
リビングのソファに倒れ込んだ。
横目でスマホを見て、手を伸ばす。
指先だけで引き寄せる。
NEW CHATを開いた。
彼女から送られてきた写真が残っていた。
カフェで撮った一枚。
その下には、まだ会話の履歴が続いている。
何でもないやり取りが、いくつも並んでいた。
指で画面を送る。
読むつもりはないのに、目だけが追ってしまう。
胸の奥が、鈍く沈んだ。
トーク履歴を削除する。
確認の表示が出る。
指が止まった。
少しして、押す。
画面から、彼女とのやり取りが消えた。
スマホを胸の上に置く。
画面は天井を向いたまま、すぐに暗くなった。
しばらく、呼吸だけが上下する。
目を開ける。
スマホを手に取り、ソファの上で体を起こした。
GoTalkを開く。
ずっと頭の隅にあった問いを、打ち込んだ。
『人を好きになるって、意味はあるのか?』
すぐに文字が返ってきた。
『恋愛感情は、脳内のドーパミンやオキシトシンによる神経反応です。進化的には子孫を残すための生存戦略として機能してきました。ただし現代においてその必要性は低下しており、感情そのものに客観的な「意味」は存在しません。意味があるとすれば、それはあなた自身が付与するものです』
スマホをソファの上に置いた。
画面はしばらく光っていた。
外から、車の音が一度だけ聞こえる。
その音が遠ざかっても、画面の文字はまだ残っていた。
もう一度、スマホを手に取る。
『付き合っても別れることの方が多い。付き合うってリスクじゃないのか』
返答はすぐだった。
『統計的には、恋愛関係の大半は破綻します。結婚に至った場合でも、離婚率は国や地域によって異なりますが、決して低くはありません。感情的投資、時間的コスト、別離時の精神的損失を総合すると、恋愛はリターンが不確かな高リスク行動と定義できます。あなたの認識は合理的です』
あなたの認識は合理的です。
その一文を、もう一度読んだ。
指が画面の上で止まる。
間違っていなかった。
そう言われたはずなのに、息は軽くならなかった。
スマホを置いて、目を閉じる。
閉じたまぶたの裏に、まだ画面の白さが残っていた。




