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意味

気がついたら、屋上への踊り場にいた。


どうやってここまで来たのか、よく覚えていない。


彼女の声が、まだ耳の奥に残っている。


階段の端に腰を下ろし、膝を抱えた。


僕だけが、さっきと違う場所にいる。


泣くつもりはなかった。


ただ、目が熱い。


こらえようとすると、逆に溢れてくる。


声を出さないように、膝に顔を押しつけた。


肩が、勝手に震える。


好きだった。


本当に、好きだった。


「私は、たいしくんの思っているような人じゃない」


じゃあ、僕は何を好きだったんだ。


答えが出ない。


出ないまま、涙だけが止まらない。


こんなふうに泣いたのは、いつ以来だろう。


記憶にないくらい、昔の話だ。


しばらくして、涙も出なくなった。


乾いた目をこする。


少し痛かった。


顔を上げても、視線はどこにも合わない。


閉じた屋上の扉の前で、ただ座っていた。


学校には、僕一人の息の音だけが残っていた。


どれくらい経ったのか分からない。


顔を上げると、窓の外がわずかにオレンジがかっていた。


赤くなった目で、その色をぼんやりと眺める。


きれいだと思う自分が、嫌だった。


立ち上がる気力も、まだなかった。


冷たい壁に背中を預けたまま、膝の上に手を置く。


手のひらが、少しだけ乾いていた。



家に着いた頃には、道の端に街灯の光だけが落ちていた。


玄関の前で鍵を出す。


差し込んで、回す。


いつもと同じ音がした。


ノブに手をかける。


あとは扉を開けるだけだった。


それなのに、手が動かなかった。


自分の家の前なのに、しばらく扉は開かなかった。



次の日。


目を開けたとき、部屋は明るかった。


カーテンの隙間から入った光が、床の上に細く伸びている。


枕元のスマホを手に取る。


画面は黒いままだった。


何度押しても、何も映らない。


夜のあいだ、ずっと握っていたせいで、手のひらだけが痛かった。


昨日の教室を、夢の中で何度も見た。


そのたびに目が覚めた。


ようやく眠れたのは、朝方だった。


ベッドの上で、天井を見つめる。


僕は何がしたかったんだろう。


その問いだけが、頭の奥に沈んだまま動かない。


自分なんかが彼女と付き合えるはずがない。


そんなことは、とっくに分かっていた。


分かっていたのに、胸の奥だけがまだ痛かった。


彼女は今、どうしているのだろう。


学校を休んでいるだろうか。


笑えているだろうか。


それとも、どこかで引きずっているのだろうか。


考え始めると、布団の中にいられなかった。


シーツが足に絡む。


それを蹴るみたいにして、上体を起こした。


部屋の隅に脱いだままの服が見える。


しばらく見ていたはずなのに、次の瞬間には袖を通していた。


制服には手を伸ばさなかった。


椅子の背にかかったまま、形だけ残っている。


ラップのかかった皿を横目に、そのまま玄関へ向かう。


靴を履く。


結び目を作る指が、何度か止まった。


けれど、ほどくことはしなかった。


玄関の扉を開ける。


外に出ると、昼の光が眩しかった。



校舎の外から、フェンス越しにグラウンドを見る。


体育の授業だった。


白線の引かれたコートの中に、彼女がいた。


クラスメイトたちと肩を並べている。


誰かがボールを取り損ねて、彼女が笑った。


声はここまで届かない。


けれど、笑っているのは分かった。


口元がほどけて、隣の子の肩に軽く触れる。


いつも通りだった。


いつも通り、そこにいた。


金網にかけた指が、動かなくなる。


昨日、教室で向かい合っていた時間が、遠くで折りたたまれていくみたいだった。


彼女はもう、あの場所にいない。


笛の音が鳴る。


彼女はすぐに前を向いて、クラスメイトの中へ戻っていった。


僕だけが、フェンスの外に残っていた。


胸の奥のどこかで、何かが変わった。


何かが静かに、確かに、閉じた音だった。



家に戻ると、玄関は静まり返っていた。


玄関を抜けて、自分の部屋へ入る。


空いたままだったカーテンを閉める。


私服のまま椅子に腰を下ろした。


首が後ろへ沈んで、視界に天井の端が入った。


しばらく、そのまま動かなかった。


ベッドに放っていたスマホの画面が点いた。


しばらく見てから、手を伸ばす。


彼女からだった。


チャット欄に映る文字を眺める。


『今日体調悪くて休んだんだよね。体調良くなったかな』


指が、画面の端で止まった。


すぐには返信欄を開けなかった。


画面が暗くなる。


もう一度、指で起こす。


喉の奥が詰まる。


椅子の背から、少し体を起こした。


返信欄を開く。


何度か親指が動いて、止まる。


打ちかけた文字を消した。


短く打つ。


『大丈夫だよ』


送信する。


自分の返事が、彼女の言葉の下に並んだ。


スマホをベッドに戻す。


今度は、画面を下にして置いた。


すぐ彼女から返信が来た。


『それは良かった。私はたいし君と友達として関わりたいんだけど。。ダメかな、?』


返信欄を開く。


親指が、ゆっくり動いた。


『ごめん。もう君とは話したくない』


打ち終わってから、しばらくその文字を眺めていた。


胸の音が、手の中まで響いている。


指先が小さく震える。


それでも、文字は消さなかった。


送信ボタンに触れる。


画面に、自分の言葉が並んだ。


それから彼女から返信はなかった。



次の日の朝、母が顔を覗き込んできた。


「おはよう、たいし。熱はおさまった?」


「うん、軽い風邪だよ。もう大丈夫」


嘘をついた。


これが一番早く終わる。


制服に腕を通しながら、ボタンを留める。


指が、いつもより少し鈍かった。


鞄を持ち上げて玄関に向かう。


靴に足を入れる。


どの動作も、普段と変わらないはずなのに、どこか水の中を歩いているような感覚があった。


洗面所の鏡に、自分が映っていた。


腫れた目は治っていた。


顔を洗う。


冷たい水が、肌に触れる。


タオルで拭いて、また鏡を見る。


変わらない。


何も感じない自分が、そこにいた。


朝のHR。


先生の声が、教室のざわめきに紛れていく。


聞こうとしていないのに、周りの会話だけが耳に入ってきた。


窓の外へ視線を逃がす。


それでも、教室の中は視界の端に残っていた。


同じ列の男女が、机を挟んで向かい合っている。


話すたびに、どちらかが身を乗り出す。


その近さだけで、分かった。


「いや〜、マジタイプ」


本郷の声で、視線が戻った。


「何が?」


まさとが聞く。


「隣のクラスのこの子。めちゃくちゃ可愛くない?」


本郷はスマホの画面を見せるように傾けた。


「まあ、俺はあんまだけど」


「え、お前B専?」


本郷が鼻で笑う。


「こんな子と付き合いてぇ〜」


「お前、彼女いるだろ」


「んー、なんか飽きたかも」


「飽きるの早すぎだろ」


二人が笑った。


その声が、机の表面を伝ってくるみたいだった。


僕は窓の外へ視線を戻す。


指先で、机の端を押さえた。


爪の下が、少し痛い。


先生はまだ何かを話している。


けれど、本郷の笑い声だけが、耳の奥に残っていた。


休み時間、逃げるように教室を出た。


廊下の窓枠に肘をつく。


外には誰もいない。


校舎の裏側は、昼でも薄く静かだった。


古い室外機の並びだけが、窓の下に見える。


廊下を、彼女と莉々が通り過ぎた。


「昨日また同じミスしてたよ」


「そうかなぁ?」


背中の方で、二人の声が重なった。


声はすぐ遠ざかる。


廊下には、もう足音だけが残っていた。



家に帰ると、鞄を玄関に下ろした。


肩から重さが消えたはずなのに、体は軽くならなかった。


そのまましばらく立っていた。


制服の袖口を指でつまむ。


朝より、布が重く感じた。


学校に行きたいと思っていた頃の熱が、どこかで冷えていた。


代わりに、何も置かれていない場所だけがある。


忘れたい。


でも明日も、同じ教室に彼女の席はある。


リビングのソファに倒れ込んだ。


横目でスマホを見て、手を伸ばす。


指先だけで引き寄せる。


NEW CHATを開いた。


彼女から送られてきた写真が残っていた。


カフェで撮った一枚。


その下には、まだ会話の履歴が続いている。


何でもないやり取りが、いくつも並んでいた。


指で画面を送る。


読むつもりはないのに、目だけが追ってしまう。


胸の奥が、鈍く沈んだ。


トーク履歴を削除する。


確認の表示が出る。


指が止まった。


少しして、押す。


画面から、彼女とのやり取りが消えた。


スマホを胸の上に置く。


画面は天井を向いたまま、すぐに暗くなった。


しばらく、呼吸だけが上下する。


目を開ける。


スマホを手に取り、ソファの上で体を起こした。


GoTalkを開く。


ずっと頭の隅にあった問いを、打ち込んだ。


『人を好きになるって、意味はあるのか?』


すぐに文字が返ってきた。


『恋愛感情は、脳内のドーパミンやオキシトシンによる神経反応です。進化的には子孫を残すための生存戦略として機能してきました。ただし現代においてその必要性は低下しており、感情そのものに客観的な「意味」は存在しません。意味があるとすれば、それはあなた自身が付与するものです』


スマホをソファの上に置いた。


画面はしばらく光っていた。


外から、車の音が一度だけ聞こえる。


その音が遠ざかっても、画面の文字はまだ残っていた。


もう一度、スマホを手に取る。


『付き合っても別れることの方が多い。付き合うってリスクじゃないのか』


返答はすぐだった。


『統計的には、恋愛関係の大半は破綻します。結婚に至った場合でも、離婚率は国や地域によって異なりますが、決して低くはありません。感情的投資、時間的コスト、別離時の精神的損失を総合すると、恋愛はリターンが不確かな高リスク行動と定義できます。あなたの認識は合理的です』


あなたの認識は合理的です。


その一文を、もう一度読んだ。


指が画面の上で止まる。


間違っていなかった。


そう言われたはずなのに、息は軽くならなかった。


スマホを置いて、目を閉じる。


閉じたまぶたの裏に、まだ画面の白さが残っていた。

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