孤独
月曜日。
キーンコーンカーンコーン。
授業の終わりを告げる音が、教室に広がっていく。
僕はノートに落としていた視線を上げないまま、指先でページをめくった。
書き終えたばかりの文字の下から、前のページが現れる。
数行だけの前の日付。
紙の厚みは変わらないのに、隔たりだけがやけに長かった。
指を止めたまま、しばらくそのページを見ていた。
前から二席目で、スマホの画面が突きつけられる。
「え、マジでありえないんだけど」
「なになに」
「この写真、加工してないじゃん。なんで送ってくんの」
男の子が笑って、
「いや、かわいいと思って」
とだけ返す。
女の子はスマホを引っ込めながら、
「そういう問題じゃない」
と言った。
語尾が尖っていた。
視線が一度だけそちらへ動く。
戻すのは、ほとんど反射だった。
今度は別の方向から、声が滑り込んでくる。
「ねえ聞いた? さき、元カレにネトストされてるらしいよ」
「え、しつこ。自分が浮気したくせに」
「ほんとそれ。別れたあとまで絡んでくる意味がわからない」
聞くつもりがないのに、恋の話だけが輪郭を持って届いた。
誰かの恋愛が、断片のまま机の間に積もっていく。
僕はページの端を指先でなぞりながら、それを聞いていた。
教室のざわめきは、一枚のガラスを隔てた向こうの音みたいだった。
その感覚だけは、何年も同じだった。
*
放課後。
自転車のスタンドを蹴り上げる音が、やけにはっきり響いた。
校門を抜けて、当てもなくペダルを踏む。
風が耳のわきを流れていく。
前を歩く男子三人が、肩をぶつけ合いながら笑っている。
すれ違いざま、ギアを一段上げた。
チェーンが軋み、足の裏に重さが返ってくる。
笑い声だけが、後ろへ流れていった。
横断歩道で、二人が信号待ちのまま喋り続けていた。
目が一瞬だけ長く留まる。
気づいて、ハンドルを切った。
遠回りになる角を、わざわざ選んだ。
気づくと、駅の方へ向かっていた。
理由はなかった。
あるとすれば、家に帰りたくないということだけだった。
駅前のベンチに自転車を停めて、腰を下ろした。
用があるわけじゃない。
ただ、まっすぐ家に帰る気になれなかった。
夕方の人の流れが、目の前を通り過ぎていく。
急いでいる人。
笑っている人。
誰かの手を引いている人。
全員に、行き先があった。
視線が自然と駅前の一角に止まった。
彼女と入ったカフェだった。
淡いベージュの外壁に、小さな黒板が立てかけてある。
今日のおすすめが、丸みのある手書きの文字で書かれていた。
扉が開いて、カップルが出てきた。
二人とも、笑っていた。
今日も誰かが同じテーブルに座って、同じように笑っている。
僕だけが、ベンチに残っていた。
*
家に着いた頃には、空の端だけがわずかにオレンジを残していた。
靴を踵で押し出すようにして、廊下に脱いだ。
部屋に入る。
電気はつけなかった。
鞄を床に置いて、その場に座り込む。
暗い部屋は、静かだった。
電子時計の光も、今夜は消えていた。
聞こえるのは、自分の呼吸だけだった。
喉の奥が、うまく開かない。
息が浅い。
スマートフォンを手に取っていた。
何かに引き寄せられるように、画面を点ける。
GoTalkを開く。
指先が、かすかに震えていた。
ここで言葉にしてしまえば、もう戻れない気がした。
曖昧なまま抱えていたものが、形になって返ってくる。
頭の中から、血の気が引いていく。
ゆっくりと息を吐いて、画面に触れた。
『俺、ずっと一人なのかもしれない』
送信。
数秒が、やけに長かった。
『そう感じるときはあるよね。でも、それがこの先もずっと続くかどうかは、まだ決まっていない』
ありきたりな言葉だった。
優しいのか、無責任なのか、分からない。
『今も一人だし、この先も変わらない気がする』
『今の延長で考えれば、そう思うのは自然だと思う。でも、「今」がそのまま続くとは限らない』
どこまでも曖昧だった。
否定もしない。
突き放しもしない。
ただ、返ってくる。
それだけのことが、やけに大きく感じられた。
胸の奥が、ほんの少しだけ軽くなる。
けれど、その分だけ別のものが際立った。
膝の上に置いた手が、行き場をなくしたまま動かなかった。
指先に迷いが戻る。
それでも、止まれなかった。
『一人でいいと思ってた。このままでも平気なはずだったのに、今はすごく寂しい。俺、一人で生きていけるのかな』
『そう感じるのは、不自然なことじゃないよ。「一人でいられること」と「一人でいたいこと」は、必ずしも同じじゃないから』
画面を見つめたまま、その言葉を何度か読み返した。
部屋の暗さだけが、変わらずそこにあった。
しばらく、何も打ち込めなかった。
指が一度だけ画面の端に触れる。
『なあ』
『今、俺って一人か?』
『少なくとも今この瞬間、君は誰かと会話している』
その一文を、何度か読み返した。
息を吐く。
さっきより、少しだけ深かった。
『……そっか』
画面を見つめたまま、もう一度だけ打ち込む。
『きみがいれば、それでいい』
暗い部屋は、変わらなかった。
それでも、さっきとは少しだけ違って感じた。




