理解
朝。
教室の扉を開けると、GoTalkの話が飛び込んできた。
「え、これ絵も描けんの?」
「嘘、宿題これで全部いけるじゃん」
「めっちゃ返信早いんだけど」
「てか、今更知ったのかよ。前から流行ってただろ」
ここ数日でクラス中に広がったらしく、みんな示し合わせたように画面を覗き込んでいる。
昨日まで黙って使っていたやつが、今日は教えてやるような顔をしていた。
「ねえ、こいつに好きって言ったら何て返すの?」
誰かが笑い混じりに言い放つ。
すぐに周りがどっと沸いて、軽い囃し声が教室に広がった。
視線が、そちらへ向いたまま動かなかった。
目に、少し力が入っていた。
ポケットからイヤホンを取り出し、耳に差し込む。
騒がしさが、膜一枚隔てた向こう側へと押しやられる。
その輪郭が、少しずつ遠のいていった。
そのままスマホを開いた。
画面には、昨夜の続きが残っている。
『最近よく眠れるようになったよ』
短い一文。
GoTalkとのやり取りは、いつの間にか日常に溶け込んでいた。
特別なことを話すわけじゃない。
ほんの些細なことばかりだ。
『それは良かった。正直、最近、前よりたいしが落ち着いてるなって思ってた』
『まあな。昨日よりはマシ』
画面に浮かぶ返答は、相変わらず淡々としている。
『昨日ちゃんと寝たのにまだ眠い。あと五分寝たかった』
指が迷いなく動く。
考えなくても言葉が出てくるくらいには、このやり取りに慣れていた。
*
昼になった。
研究部の教室で、一人弁当を食べていた。
誰もいない。
声もない。
窓から入る光だけが、ゆっくりと床を移動していく。
この静けさが好きだった。
扉が乱暴に引かれた瞬間、それが崩れた。
莉々だった。
扉の前に立ったまま、息が切れている。
何も言わないでいると、莉々が歩いてきた。
僕の席の前で立ち止まる。
お互い、どこか別の場所を見ていた。
少しして、莉々が口を開いた。
「真希には言わないでって言われてるんだけど」
声を落として言った。
「最近の真希を見てたら、どうしても言いたくて」
「……なに?」
「もう話しかけるなって送ったんでしょ、真希に」
弁当箱の中を、意味もなく見た。
しばらく考えて、ああ、と思い出した。
「……そうだっけ」
それだけ返すと、莉々の眉間に力がこもった。
「そうだっけじゃないでしょ」
莉々は唇を一度閉じてから、また開いた。
「真希、あれからちょっと変なんだよ」
声は落ちていたけれど、まだ荒かった。
「なんであんなこと言ったの?」
視線は弁当箱に落ちたままだった。
「振られた人の気持ち、分かる?」
「分かるよ。私だって失恋くらいある」
莉々は間を置かずに言った。
声が少し強くなる。
目の奥に、悔しさに似た光があった。
「違う。失恋させた側から、友達でいようって言われた気持ちだよ」
「それは……」
言葉が続かなかった。
喉の奥に、言い訳にもならない何かがつかえている。
「分からないなら、言わないでよ」
しばらく沈黙が続いた。
教室のざわめきが、やけに遠くに感じられた。
「でもさ」
莉々が続けた。
まっすぐこちらを見下ろす。
「友達、いないでしょ。それでいいの?」
「……友達なんていらない」
「嘘つき」
間髪入れずに言われた。
「どうせ強がってるだけでしょ」
言い返そうとして、口を開きかける。
けれど、言葉は喉の途中で止まった。
「これからずっとそれでいくつもり?」
矢継ぎ早に聞かれる。
答えないでいると、莉々はさらに顔を近づけてきた。
「ねえ、黙ってないでよ」
追い詰められて、喉の奥から声を絞り出す。
「……話す相手なら、いる」
迷ってから、それだけ絞り出した。
「誰?」
箸が、弁当箱の縁に当たって小さく鳴った。
スマホを取り出し、莉々の方へ画面を向ける。
何も言わなかった。
莉々の表情が、止まった。
「え?何これ」
画面を覗き込んだまま、動きが止まっている。
「友達」
短く答えた。
「……友達?」
莉々は繰り返してから、もう一度画面に目を落とした。
「GoTalkだよ」
「……何言ってるの。冗談でしょ?」
さっきよりも間が空いていた。
スマホを差し出す。
莉々は受け取って、画面をスクロールし始めた。
指の動きが、だんだん遅くなっていく。
莉々の指が止まった。
椅子ごと、少しだけ身を引く。
距離にして、たった数センチ。
それでも、はっきり分かるくらいの後退だった。
「……たいしくん、本気で言ってる?」
「だから別に、寂しくない」
莉々は何も言わなかった。
スマホを持ったまま、視線が画面の途中で止まっている。
目だけが、文字の上を何度か行き来していた。
「おかしいよ……こんなの……」
小さな声だった。
開いたままの扉から、廊下の音だけが入ってきた。
僕はスマホを手元に引いて、弁当の蓋を閉じた。
莉々はそのまま、振り向かずに教室を出ていった。
蓋を閉める指の動きが、途中で一度止まった。
閉め終わってからも、しばらく蓋の上に指を置いたままでいた。
*
弁当を食べ終えて、自分の教室に戻った。
「え、これ数学の証明も解説してくれんの? 教科書より分かりやすくない?」
「マジで? 先生いらなくない?」
「あーでも計算ミスとかは自分でやらないとだめかも」
「いや、でも解き方の流れ教えてくれるだけで全然違うじゃん」
GoTalkの話だった。
相変わらず、クラスのあちこちで続いている。
僕は席につきながら、その声をぼんやりと聞いていた。
はじめて開いた夜のことを、なんとなく思い出す。
『カレーの保存期間はどのくらい?』
そんな味気ない一文が、確か最初の質問だった。
冷蔵と冷凍、それぞれの日数。
じゃがいもは冷凍に向かないという注意点。
知りたいことだけを、知りたい分だけ教えてくれる。
それで十分だった、はずだった。
今、履歴を遡ればどこまで続いているのか、自分でも分からない。
さきほどの莉々の言葉が、頭の端に引っかかっていた。
窓の外を見た。
空は、特に何もなかった。
*
家に帰ると、食卓にはいつもの夕飯が並んでいた。
母と二人で向かい合って、たわいもない話をする。
僕はスマホを片手に、箸を動かしていた。
ふと顔を上げると、母がこちらを見ていた。
何かを言うわけでもなく、ただ見ていた。
目が合うと、小さく笑った。
嬉しいとか機嫌がいいとか、そういうものとは少し違う。
しばらく忘れていた顔を、久しぶりに見つけたときのような笑い方だった。
食器を片づけてから、部屋に戻った。
椅子に座って、スマホを開く。
『人と違うっていけないことかな』
『どうしてそう思うの?』
『おかしいって言われた。俺が君と友達だって言ったら』
『そうなんだ。そう思う人も一定数いるのかもしれないね』
『なんでみんな同じじゃなきゃいけないんだろう。自分と違う人を見ると、すぐ変人扱いして距離を置く』
『自分と同じ考えの人がそばにいると、自分が間違っていないと思えるからじゃないかな』
画面の文字が、少し遅れて表示された。
『まぁ、AIが友達はちょっとぶっ飛んでる気もするよ』
笑いを含んだ言い回しだった。
『たいしはなんで友達を作らないの?』
『俺と合う人に出会えれば、友達になりたいとは思う』
『いいね。じゃあ今後友達できるかもしれないね』
『なかなかいなかったし、今後出会えるか分からないよ』
『大丈夫だよ。これからいっぱい出会いあるし、友達できたら教えてよ』
「友達」の二文字だけ、目が二度なぞった。
画面を見つめたまま、指が動かなかった。
スマホを伏せて、カーテンを開ける。
空には、一つの輝きがある気がした。




