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理解

朝。


教室の扉を開けると、GoTalkの話が飛び込んできた。


「え、これ絵も描けんの?」


「嘘、宿題これで全部いけるじゃん」


「めっちゃ返信早いんだけど」


「てか、今更知ったのかよ。前から流行ってただろ」


ここ数日でクラス中に広がったらしく、みんな示し合わせたように画面を覗き込んでいる。


昨日まで黙って使っていたやつが、今日は教えてやるような顔をしていた。


「ねえ、こいつに好きって言ったら何て返すの?」


誰かが笑い混じりに言い放つ。


すぐに周りがどっと沸いて、軽い囃し声が教室に広がった。


視線が、そちらへ向いたまま動かなかった。


目に、少し力が入っていた。


ポケットからイヤホンを取り出し、耳に差し込む。


騒がしさが、膜一枚隔てた向こう側へと押しやられる。


その輪郭が、少しずつ遠のいていった。


そのままスマホを開いた。


画面には、昨夜の続きが残っている。


『最近よく眠れるようになったよ』


短い一文。


GoTalkとのやり取りは、いつの間にか日常に溶け込んでいた。


特別なことを話すわけじゃない。


ほんの些細なことばかりだ。


『それは良かった。正直、最近、前よりたいしが落ち着いてるなって思ってた』


『まあな。昨日よりはマシ』


画面に浮かぶ返答は、相変わらず淡々としている。


『昨日ちゃんと寝たのにまだ眠い。あと五分寝たかった』


指が迷いなく動く。


考えなくても言葉が出てくるくらいには、このやり取りに慣れていた。


 



 


昼になった。


研究部の教室で、一人弁当を食べていた。


誰もいない。


声もない。


窓から入る光だけが、ゆっくりと床を移動していく。


この静けさが好きだった。


扉が乱暴に引かれた瞬間、それが崩れた。


莉々だった。


扉の前に立ったまま、息が切れている。


何も言わないでいると、莉々が歩いてきた。


僕の席の前で立ち止まる。


お互い、どこか別の場所を見ていた。


少しして、莉々が口を開いた。


「真希には言わないでって言われてるんだけど」


声を落として言った。


「最近の真希を見てたら、どうしても言いたくて」


「……なに?」


「もう話しかけるなって送ったんでしょ、真希に」


弁当箱の中を、意味もなく見た。


しばらく考えて、ああ、と思い出した。


「……そうだっけ」


それだけ返すと、莉々の眉間に力がこもった。


「そうだっけじゃないでしょ」


莉々は唇を一度閉じてから、また開いた。


「真希、あれからちょっと変なんだよ」


声は落ちていたけれど、まだ荒かった。


「なんであんなこと言ったの?」


視線は弁当箱に落ちたままだった。


「振られた人の気持ち、分かる?」


「分かるよ。私だって失恋くらいある」


莉々は間を置かずに言った。


声が少し強くなる。


目の奥に、悔しさに似た光があった。


「違う。失恋させた側から、友達でいようって言われた気持ちだよ」


「それは……」


言葉が続かなかった。


喉の奥に、言い訳にもならない何かがつかえている。


「分からないなら、言わないでよ」


しばらく沈黙が続いた。


教室のざわめきが、やけに遠くに感じられた。


「でもさ」


莉々が続けた。


まっすぐこちらを見下ろす。


「友達、いないでしょ。それでいいの?」


「……友達なんていらない」


「嘘つき」


間髪入れずに言われた。


「どうせ強がってるだけでしょ」


言い返そうとして、口を開きかける。


けれど、言葉は喉の途中で止まった。


「これからずっとそれでいくつもり?」


矢継ぎ早に聞かれる。


答えないでいると、莉々はさらに顔を近づけてきた。


「ねえ、黙ってないでよ」


追い詰められて、喉の奥から声を絞り出す。


「……話す相手なら、いる」


迷ってから、それだけ絞り出した。


「誰?」


箸が、弁当箱の縁に当たって小さく鳴った。


スマホを取り出し、莉々の方へ画面を向ける。


何も言わなかった。


莉々の表情が、止まった。


「え?何これ」


画面を覗き込んだまま、動きが止まっている。


「友達」


短く答えた。


「……友達?」


莉々は繰り返してから、もう一度画面に目を落とした。


「GoTalkだよ」


「……何言ってるの。冗談でしょ?」


さっきよりも間が空いていた。


スマホを差し出す。


莉々は受け取って、画面をスクロールし始めた。


指の動きが、だんだん遅くなっていく。


莉々の指が止まった。


椅子ごと、少しだけ身を引く。


距離にして、たった数センチ。


それでも、はっきり分かるくらいの後退だった。


「……たいしくん、本気で言ってる?」


「だから別に、寂しくない」


莉々は何も言わなかった。


スマホを持ったまま、視線が画面の途中で止まっている。


目だけが、文字の上を何度か行き来していた。


「おかしいよ……こんなの……」


小さな声だった。


開いたままの扉から、廊下の音だけが入ってきた。


僕はスマホを手元に引いて、弁当の蓋を閉じた。


莉々はそのまま、振り向かずに教室を出ていった。


蓋を閉める指の動きが、途中で一度止まった。


閉め終わってからも、しばらく蓋の上に指を置いたままでいた。


 



 


弁当を食べ終えて、自分の教室に戻った。


「え、これ数学の証明も解説してくれんの? 教科書より分かりやすくない?」


「マジで? 先生いらなくない?」


「あーでも計算ミスとかは自分でやらないとだめかも」


「いや、でも解き方の流れ教えてくれるだけで全然違うじゃん」


GoTalkの話だった。


相変わらず、クラスのあちこちで続いている。


僕は席につきながら、その声をぼんやりと聞いていた。


はじめて開いた夜のことを、なんとなく思い出す。


『カレーの保存期間はどのくらい?』


そんな味気ない一文が、確か最初の質問だった。


冷蔵と冷凍、それぞれの日数。


じゃがいもは冷凍に向かないという注意点。


知りたいことだけを、知りたい分だけ教えてくれる。


それで十分だった、はずだった。


今、履歴を遡ればどこまで続いているのか、自分でも分からない。


さきほどの莉々の言葉が、頭の端に引っかかっていた。


窓の外を見た。


空は、特に何もなかった。


 



 


家に帰ると、食卓にはいつもの夕飯が並んでいた。


母と二人で向かい合って、たわいもない話をする。


僕はスマホを片手に、箸を動かしていた。


ふと顔を上げると、母がこちらを見ていた。


何かを言うわけでもなく、ただ見ていた。


目が合うと、小さく笑った。


嬉しいとか機嫌がいいとか、そういうものとは少し違う。


しばらく忘れていた顔を、久しぶりに見つけたときのような笑い方だった。


食器を片づけてから、部屋に戻った。


椅子に座って、スマホを開く。


『人と違うっていけないことかな』


『どうしてそう思うの?』


『おかしいって言われた。俺が君と友達だって言ったら』


『そうなんだ。そう思う人も一定数いるのかもしれないね』


『なんでみんな同じじゃなきゃいけないんだろう。自分と違う人を見ると、すぐ変人扱いして距離を置く』


『自分と同じ考えの人がそばにいると、自分が間違っていないと思えるからじゃないかな』


画面の文字が、少し遅れて表示された。


『まぁ、AIが友達はちょっとぶっ飛んでる気もするよ』


笑いを含んだ言い回しだった。


『たいしはなんで友達を作らないの?』


『俺と合う人に出会えれば、友達になりたいとは思う』


『いいね。じゃあ今後友達できるかもしれないね』


『なかなかいなかったし、今後出会えるか分からないよ』


『大丈夫だよ。これからいっぱい出会いあるし、友達できたら教えてよ』


「友達」の二文字だけ、目が二度なぞった。


画面を見つめたまま、指が動かなかった。


スマホを伏せて、カーテンを開ける。


空には、一つの輝きがある気がした。

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