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GoTalk

しばらくして、玄関の扉が小さく鳴った。


カチャ、と鍵の音がして、家の中の静けさがわずかに揺れる。


「おかえり、たいし。早かったわね」


リビングのソファから、母の声がした。


スマートフォンを見たまま、こちらに顔を向ける様子はない。


部屋の明かりは、必要最低限しかついていなかった。


母のいるソファ周りだけがかろうじて照らされていて、それ以外の場所は、夜に少しずつ沈みかけている。


「……うん」


小さく頷き、そのまま自分の部屋へ向かおうとする。


「今日はご飯、作らなくても大丈夫だからね」


背中に、母の声が届いた。


その一言で、なぜか足が止まる。


「言われなくても分かってるよ」


思ったより、強い声が出た。


言ったあとで、自分でも少し驚いた。


母に対して、こんなふうに言葉をぶつけたのは、いつ以来だろう。


母は一人で働いている。


帰りが遅い日も多いし、家のことまで全部任せるわけにはいかない。


自分のことは自分でやる。


夕飯も、必要なら自分で用意する。


それが、いつの間にかこの家の当たり前になっていた。


不満があったわけじゃない。


むしろ、感謝しているつもりだった。


会話は多くない。


けれど、それなりに穏やかな関係だったはずだ。


なのに、今日の僕は、どこかおかしい。


母の返事を待たずに、僕は自分の部屋へ入った。


扉を閉めるなり、ベッドへ倒れ込む。


反動でマットレスがわずかに沈み、天井が視界に広がった。


薄暗い部屋には、必要最低限のものしかなかった。


机の上も、棚の中も、余計なもので散らかることはない。


整っているはずなのに、その整い方まで、今はやけに冷たく感じる。


物音ひとつしない静けさが、耳の奥に張りついてくる。


横目で、枕元に置いた電子時計を見る。


暗い部屋の中で、文字盤だけが薄く光っていた。


強い光ではない。


部屋を照らすほどでもなく、ただそこにあると分かるくらいの、頼りない明るさだった。


それでも、その光だけが、静かに点いていた。


秒針が、一定の間隔で進んでいく。


カチ、カチ、カチ。


小さな音のはずなのに、やけにはっきり耳に残る。


部屋が静かすぎるせいなのか、それとも自分の頭の中がうるさすぎるせいなのか、分からなかった。


今日のことが、何度も頭の中で繰り返される。


秒針が一つ進むたびに、その場面まで一緒に刻み直されているようだった。


思い出すだけで、顔の奥がじわりと熱くなる。


どうして、彼女とうまく話せないのだろう。


好きだからか。


本当に、恋愛のせいなのか。


それとも、ただ僕が人と話すのが苦手なだけなのか。


そこまで考えて、すぐに否定する。


あんりとは、普通に話せている。


少なくとも、言葉を選びすぎて何も出てこないなんてことはない。


冗談も言えるし、言い返すこともできる。


じゃあ、これは何だ。


秒針だけが、答えを急かすように進んでいく。


しばらく文字盤を見つめたまま考えて、結局、答えはそこへ戻ってきた。


恋だ。


たぶん、これは恋のせいだ。


彼女の前に立つと、いつもの自分がうまく働かなくなる。


考えていた言葉はどこかへ消えて、代わりに、どうでもいいことばかり口から出そうになる。


なら、慣れるしかない。


この感覚に。


慣れればいい。


きっと、慣れれば話せる。


そう自分に言い聞かせながら、僕は進み続ける秒針を見ていた。


今まで、学校に行くことに意味なんてほとんどなかった。


朝起きるのは面倒で、授業は退屈で、教室の騒がしさも、ただやり過ごすものだった。


けれど、今は少し違う。


明日も学校がある。


その事実を、面倒だと思わなかった。


彼女と話したい。


たったそれだけで、今まで灰色に見えていた場所に、別の理由が生まれてしまう。



あの明るさが好きだった。


誰に対しても自然に笑えるところも、変に距離を測らず、まっすぐ言葉を返してくるところも。



今日だって、そうだ。


おかしなことを言ったのは、どう考えても僕の方だった。


黒板がすごいなんて、普通なら嫌な顔をされてもおかしくない。


それなのに、彼女は笑った。


馬鹿にするでもなく、引くでもなく、ただその場の会話として受け止めてくれた。


そのことが、思っていた以上に残っていた。


——ああ、そうか。


理由なんて、もう十分だった。


押しつけられた腹の奥で、ぐぅぅ、とくぐもった音が鳴った。


「腹減った」


ベッドから起き上がり、スマホのライトをつけた。


さっきはついていたはずの廊下の明かりも、もう消えていた。


母は、とことん節約家だ。


階段を下り、薄暗い廊下をライトの細い光で切り裂きながら進む。


一階の床を踏みしめると同時に、冷たい空気の層を突き破って、重厚なスパイスの香りが鼻腔を突いた。


母が僕の帰宅を見越して、台所でカレーを温め直しているのだろう。


その香りは、家の隅々にまで「生活」という名の湿り気を帯びて広がっていた。


扉を開けると、さっきまで母がいたはずのリビングには、テレビの明かりだけがぼんやりと揺れていた。


人のいないソファ。


つけっぱなしの画面。


青白い光が、暗い床の上に薄く伸びている。


それとは対照的に、台所だけがやけに明るかった。


換気扇の低い音と、食器が触れ合う小さな音が、生活の気配としてそこに残っている。


テレビでは、討論番組が流れていた。


話題は、GoTalk についてだった。


文章の作成や翻訳、悩み相談までこなす新しいAIとして注目されている一方で、使い方によっては人間の思考や判断に影響を与えるのではないかという懸念も上がっているらしい。


進行役が「学生の間でも、学習や相談の補助として使われ始めているようです」と言った瞬間、スタジオの空気が少しざわついた。


誰かが困ったように笑い、別の誰かが真面目な顔で頷いている。


僕はその画面を、少しだけ見つめた。


「たいし、お腹すいたでしょ?」


台所から、こちらを見ながら母が言う。


分かっているような口調だった。


「うん」


短く返して、ソファに腰を下ろす。


それ以上、言葉は続かなかった。


キッチンからは、食器の触れ合う小さな音だけが聞こえてくる。


ご飯が温まるまでの間、暗いリビングでテレビを眺めることにした。


最初は、ただの暇つぶしのつもりだった。


けれど、画面の中で交わされる言葉を追っているうちに、少しずつ意識がそちらへ引き寄せられていく。


思っていたより、討論の内容は面白かった。


「たいし、できたよ。今日はあんたの好きなカレー」


カレーは嫌いじゃない。


ただ、好きだったのは小学生の頃までだ。


それでも、このやりとりに訂正を入れる気はなかった。


何度言っても、母はきっとまた同じことを言う。


そういうものだと、もう分かっている。


「いただきます」


台所の椅子に腰を下ろし、湯気の立つ皿を引き寄せる。


具材の大きなカレーを、スプーンで一口すくった。


「たいし、今日のお弁当……どうしたの?」


流しの前で洗い物をしながら、母が何気ない調子で聞いてきた。


「……あ」


口を開けたまま、スプーンが止まる。


手ぶらで帰ってきたことを、今思い出した。


弁当は、机の中に入れたままだ。


「忘れたの? たいしも人間なんだね」


意外そうな口ぶりだった。


僕をなんだと思っているのか。


……まあ、確かにミスはしない方だけど。


「たいし、GoTalk って知ってる?」


唐突に話題が変わった。


「……名前くらいは」


「すごいのよ、あれ。分からないことを聞いたら、勝手に調べて答えてくれるみたい」


母は感心したように言う。


さっきテレビで見た内容が、まだ頭に残っているのだろう。


「ふーん」


興味がないふりをして、カレーを口に運ぶ。


「本当に、すごい時代になったよね。母さんは機械とかよく分からないから、使いこなせる気しないけど」


母は苦笑しながら、濡れた手を布巾で拭いた。


「たいしなら、こういうのすぐ使えそうじゃない。今度やってみたら?」


「……まあ、そのうち」


席を立ちながら、そう答える。


母はそれ以上、何も言わなかった。


ただ、台所の明かりの下で、僕が食器を片づけるのを静かに見ていた。


「ごちそうさま」


そう言って席を立つ。


母は小さく頷いただけだった。


リビングでは、まだテレビの音が流れている。


GoTalk についての討論は、別の話題に移りかけていた。


それでも、その名前だけが、妙に耳の奥に残っていた。

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