冗談
その日、結局謝ることはできなかった。
放課後の鐘が鳴る頃には、教室から生徒たちの姿が少しずつ消えていった。
机の音。
鞄を閉じる音。
廊下へ流れていく話し声。
その全部が遠ざかったあと、僕は一人、教室に残っていた。
黒板は、まだ白く汚れている。
黒板消しを手に取り、端からゆっくりと文字を消していく。
さっきまで先生が書き連ねていた地名や用語が、粉になって薄く崩れ、緑の板面へ吸い込まれていった。
白い粉がふわりと舞い、制服の袖にうっすらとかかった。
最後に黒板の端を見直し、消し残しがないことを確かめる。
それでも、妙な後ろめたさまでは拭えなかった。
黒板消しを置いたあとも、僕はしばらくその場に立っていた。
誰もいなくなった教室は、放課後の光を受けて、少しだけ広く見える。
「部活、サボるの?」
入り口のほうから、あんりの声が滑り込んできた。
「俺、サボったことなかったっけ?」
「遅刻はあるけど、来なかったことはなかったよね」
淡々とした返事だった。
変に責めるのでもなく、ただ事実だけを並べている。
少し間があった。
「……なにかあった?」
その聞き方が、思っていたより静かで、僕はすぐに否定できなかった。
「悩んでるのかな」
「うまく言えないけど、最近ちょっと、自分でも変だと思う」
あんりは、しばらく僕を見ていた。
それから、ほとんど間を置かずに言う。
「真希さんのこと、好きでしょ」
「は? なんでそうなるんだよ」
思ったより、声が鋭くなった。
否定するなら、もっと自然に返せばよかった。
けれど、その時点で、もう十分に不自然だった。
「分かりやすいよ」
あんりの一言に、返す言葉が詰まった。
図星を突かれると、反射的に否定したくなる。
しかも、その否定が顔や声に出る。
自分でも分かるくらい、僕は嘘が下手だった。
「この前聞いてきた、元気な女の子への話しかけ方って」
あんりは、こちらを見ながら確認するように言った。
「彼女のこと?」
逃げ道をひとつずつ塞がれていくような気がした。
否定したかった。
けれど、浮かんだ言い訳はどれも、口にする前から嘘だと分かるものばかりだった。
あんりには、もう全部見えている気がした。
「……まあ」
それだけ言ってから、少し間を置いた。
「好き、なんだと思う」
曖昧にしたのは、分からなかったからじゃない。
分かっているからこそ、言い切るのが恥ずかしかった。
あんりは驚いた様子もなく、ただ少しだけ目を細めた。
「へぇ。たいし、恋するんだ」
「好きな人くらいできるだろ」
「友達もいらないタイプでしょ。恋愛も、同じように面倒がるのかと思ってた」
淡々と言われると、妙に反論しづらい。
「で、彼女のどこが好きなの?」
「……明るいところ」
「それだけ?」
「いや、ほかにもあるし」
思わず言い返す。
「でも、お前に詳しく言うことじゃないだろ」
「あるでしょ。相談されたんだし」
僕は首をかしげながら、無意識に教室の天井を見ていた。
相談は、元気な女の子への話しかけ方についてだった。
恋の相談をしたつもりはない。
そう言い返そうとして、やめた。
言ったところで、あんりにはまた別の角度から切られる気がした。
「私は恋愛をしたことがないし、する気もないんだけど」
あんりは少し考えるように、視線を宙へ向けた。
「恋愛って、どんな感じなの?」
思っていたよりも、まっすぐな質問だった。
僕はすぐに答えられなかった。
好きな人がいる。
それは認めた。
けれど、それがどういうものなのかを言葉にするとなると、途端に難しくなる。
「……自分が、自分じゃなくなるっていうか」
ゆっくりと言葉を探す。
「こうやってお前と話してるときは普通にできるのに、好きな人の前だと、急に何もできなくなる。頭では分かってるのに、言葉が出ない」
あんりは静かに聞いていた。
茶化すでもなく、否定するでもなく、ただその感情の構造を確かめるみたいに。
「そうなんだ」
短く頷いてから、あんりは少しだけ口元を緩めた。
「恋って、不思議ね」
その言い方には、どこか含みがあった。
感心しているようにも、面白がっているようにも聞こえる。
僕はなんとなく居心地が悪くなって、視線を逸らした。
「今日さ」
気まずさをごまかすように、口を開く。
「うっかりしてて、黒板を消すの忘れてたんだよ。そしたら、彼女に全部任せることになって」
そこまで言ったところで、言葉の先に、あのときの間抜けな沈黙がぶら下がった。
「それで、後で謝ろうとしたんだけど……焦って」
「焦って?」
あんりが続きを促す。
「……黒板って、すごいよねって言った」
沈黙が落ちた。
あんりはしばらくこちらを見ていた。
次の瞬間、口元を手で押さえる。
肩が小さく震えていた。
普段、声を立てて笑うことなんてほとんどない。
それなのに今は、あと少しで笑い声がこぼれそうになっている。
「……たしかに」
あんりは必死に表情を整えながら言った。
「あなた、変かもね」
「やばいやつって思われたかなって……」
「まあ、思われたでしょ」
「……え?」
一拍、間が空いた。
僕は固まった。
冗談として受け取るには、あんりの声はいつも通りすぎた。
あんりはそこで、ようやく言葉を足す。
「……冗談。慣れてるでしょ、このくらい」
「帰る」
僕はそれだけ言い残して、椅子から立ち上がった。
散らかった机には目も向けない。
開いたままのノートも、筆箱も、そのまま置き去りにして、教室を出ていく。
手ぶらだった。
*
足音が廊下の奥へ消えていく。
あんりは、しばらく扉の方を見ていた。
「……怒らせちゃったか」
誰に聞かせるでもなく、ぼそりと呟く。
返事はない。
放課後の教室には、机と椅子だけが静かに並んでいる。
あんりはたいしの机に視線を落とした。
広げられたノートには、何も書かれていなかった。
罫線だけが、白い紙の上に整然と並んでいる。
一時間、ここにいたはずなのに。
「最近、サボりすぎね」
呆れたように言って、あんりはそのノートを静かに閉じた。
筆箱と一緒に机の中へ戻してやる。
それから自分の席に戻り、読みかけの推理小説を開いた。
けれど、文字はただ目の前を流れていくだけだった。
一行読んでも、次の行へ移る頃にはもう意味がほどけている。
さっきのたいしの顔が、どうしても頭から離れなかった。
あんりは小さく息を吐き、指先でページの端を押さえたまま、しばらく動かなかった。




