黒板
二時間目の授業は、ほとんど何も残らないまま過ぎていった。
先生の声は聞こえていた。
黒板に書かれる文字も、目には入っていた。
けれど、それらは全部、どこか遠くの出来事みたいに感じられた。
意識はずっと、別の場所に置き去りになっている。
黒板の前。
彼女と並んで立っていた、あの短い時間。
あのとき、何かひと言でも言えていれば、少しは変わっていたのだろうか。
頭の中でいくつも言葉を並べてみる。
けれど、どれも口に出す前から不自然に思えた。
彼女なら、きっと誰とでも自然に話せるのだろう。
明るく笑って、相手の懐にするりと入っていく。
僕には、それができない。
話す前から失敗したときの空気を想像して、勝手に言葉を捨てていく。
授業中だというのに、ノートの端には意味のない線ばかりが増えていた。
シャープペンシルの先を紙に押しつけたまま、僕は何度も同じことを考えていた。
二時間目の終了を告げる鐘が鳴る。
その音で、ようやく意識が教室へ引き戻された。
思っていたよりも、ずっと早かった。
授業を受けていたというより、ひたすら頭の中だけを歩き回っていたような感覚だった。
机に顔を伏せたまま、長く息を吐く。
疲れた。
何かをしたわけじゃない。
彼女と話せたわけでもない。
ただ、考えて、迷って、勝手に緊張していただけだ。
それなのに、頭の奥がじんわりと重かった。
僕はイヤホンを耳に押し込む。
周りの声が、少しずつ遠のいていった。
少しだけ。
ほんの少しだけ、頭を休ませるつもりだった。
教室のざわめきも、椅子の音も、誰かの笑い声も、薄い膜の向こう側へ沈んでいく。
最後に浮かんだのは、やっぱり彼女の声だった。
「もう終わる〜。ちょっと待ってねっ!」
その明るさを思い出したところで、意識はゆっくりと途切れた。
三時間目の開始を告げる鐘が鳴った。
意識は、その音に少し遅れて浮かび上がってくる。
僕は机に突っ伏したまま、まぶたの裏に残る眠気をうまく振り払えずにいた。
「起立〜!」
彼女の明るい声が、教室に届く。
その声で、ようやく目が覚めた。
顔を上げると、頬に机の跡がついているのが分かった。
どうやら、完全に眠っていたらしい。
周りの生徒たちが椅子を引き、ざわざわと立ち上がっていく。
僕も遅れて体を起こした。
立ち上がった瞬間、頭に血が巡る。
視界がわずかに揺れて、寝起き特有の重さが奥に残った。
その一拍あと、思い出す。
──日直。
反射的に黒板を見る。
端から端まで、きれいに消されていた。
前の授業で書かれていた文字も、線も、チョークの跡も、何ひとつ残っていない。
ただ、黒板の下に白い粉だけが薄く積もっていた。
彼女がやったのだ。
その事実だけが、遅れて重くのしかかってきた。
見ていたわけでもないのに、さっきの彼女の姿が勝手に浮かぶ。
この授業が終わったら、片付けは全部自分でやろう。
それから -彼女にも、ちゃんと謝る。
そんな重さを抱えたまま始まったのは、地理の授業だった。
正直、面倒だと思った。
この教師は、やたらと生徒に答えさせたがる。
教科書を読ませ、地図帳を開かせ、何かにつけて誰かを指名する。
黙って進めてくれればいいのに。
そう思う僕とは、どうにも相性が悪い。
今はただ、余計なことを考えずに座っていたかった。
「今日の日直は誰だ?」
先生が、教卓の前で何気なく尋ねた。
黒板の端には、日直の名前がきちんと書かれている。
そこを見れば済む話なのに、なぜわざわざ聞くのかと思った。
「はーい!」
彼女は、いつもの明るさで返事をする。
教室の空気に何の抵抗もなく声を乗せられるところが、やっぱり僕とは違っていた。
僕は目立たないように、肘から先だけを小さく上げる。
先生は黒板の日直欄へ目をやり、それから僕たちを順に見た。
「真希とたいし、か」
名前を確認されただけなのに、妙に居心地が悪い。
「悪いが、授業で使うプリントを職員室に置いてきたみたいだ。取りに行ってくれないか。欠席している本郷の分も含めて、三十枚な」
一瞬、返事が遅れた。
彼女と、二人で職員室へ行く。
その事実が頭に入ってきた途端、さっきまでの眠気も、地理の面倒くささも、どこかへ消えていた。
ただ、代わりに別の緊張が残った。
「……はい」
ようやく、それだけ答えた。
「りょ〜か〜い! たいしくん、行こっ」
彼女はそう言うと、何のためらいもなく席を立った。
二人で職員室へ行く。
ただプリントを取りに行くだけの用事だ。
けれど、今の僕にとっては、それだけではなかった。
眠っている間に黒板を消させてしまったことを謝るには、ちょうどいい。
それに、彼女と話せる機会としても、これ以上ないほど自然だった。
教室を出るとき、何人かの視線がこちらに向いた。
授業中に抜け出せることを羨ましがっているのか、単に珍しい組み合わせだと思っているのかは分からない。
ただ、その視線さえ、今は遠く感じた。
僕たちの教室は、三階の一番奥にある。
職員室は、二階のちょうど真ん中あたりだ。
距離は、そう長くない。
けれど、謝るくらいの時間ならある。
「いや〜、授業中に抜けるのってちょっと楽しいよね〜。まあ、普通にパシられてるだけなんだけど」
彼女はそう言って、軽い足取りで階段へ向かう。
一段、また一段。
階段を下りているというより、弾むように進んでいく。
その背中を見ていると、まだ午前中の授業中だというのに、もう放課後みたいな空気に変わってしまう気がした。
彼女の周りだけ、時間の流れが少し柔らかい。
「……まあ、そうだね」
自分でも薄いと思う返事をしてから、僕は小さく息を吸った。
今しかない。
そう思って、彼女の横顔に視線を向ける。
「あの、さ……」
声は、自分で思っていたよりも細かった。
階段のざわめきに紛れたら、そのまま消えてしまいそうなほどに。
それでも、彼女はちゃんと足を緩めた。
廊下には、僕たち以外の姿はなかった。
授業中の校舎は静かで、遠くの教室から漏れる先生の声だけが、薄く壁に滲んでいる。
そんな中で僕が声をかけたものだから、彼女は少し不思議そうに振り返った。
自分に向けられた言葉なのか、確かめるような顔だった。
緊張と焦りが、頭の中でぶつかり合う。
言うことは決まっている。
「こ、黒板……」
口から出たのは、その最初の二文字だけだった。
「え……黒板?」
彼女が足を止める。
そのまま、こちらをじっと見た。
まっすぐな視線だった。
責めているわけでも、急かしているわけでもない。
ただ、続きを待っているだけ。
それが、余計に逃げ場をなくした。
僕は反射的に顔を逸らし、勢いだけで口を開く。
「……黒板って、さ。なんか……すごいよね」
一瞬、廊下の空気が止まった。
彼女は目を瞬かせる。
それから、心底分からないという顔で首を傾げた。
「たいしくん……何言ってるの???」
正しい反応だった。
分かっている。
自分でも、今の言葉がどうしようもなくおかしいことくらい分かっている。
けれど、一度口に出してしまった以上、もう後には引けなかった。
顔の置き場がない。
視線を床に落としても、壁に逃がしても、どこにも落ち着かない。
早く謝ろうと焦っていたのか。
それとも、彼女の目を見たまま謝るのが照れくさかったのか。
どちらにせよ、僕は今、なぜか黒板のすごさについて語らなければならない状況に追い込まれていた。
「いや、あの……色」
自分でも何を言っているのか分からないまま、口だけが勝手に動いていた。
「黒だと、ちょっと暗いし。白だとホワイトボードとかぶるし……だから、その」
そこで一度、言葉が詰まる。
彼女は急かすでもなく、笑うでもなく、ただ不思議そうにこちらを見ていた。
その視線が余計に苦しい。
僕は観念して、続きを吐き出した。
「緑って、目に優しいっていうか……ちょうどいい色だなって」
言い終えた瞬間、廊下の空気ごと沈黙した気がした。
終わった。
そう思った。
彼女は数秒、僕の顔を見ていた。
それから、ふっと口元を緩める。
「そんなこと考えたことなかったっ!」
明るい声だった。
馬鹿にするような笑い方ではなかった。
「でもたしかに……黒だとちょっと怖いかもね〜。教室、全部暗くなりそう」
そう言って、彼女はまた階段を下り始めた。
僕は、その背中を少し遅れて追いかける。
謝るなら、今だった。
それなのに、言葉は喉の奥で止まったまま動かない。
彼女だけが、軽い足取りで先へ進んでいく。
僕はその後ろを歩きながら、飲み込んだ言葉の重さだけを感じていた。




