接近
先生が教室を出ていく。
一時間目が始まるまで、あと数分。
ほんの短い空白のはずなのに、教室の空気が妙に落ち着かなく感じられた。
昨日、あれほど願って、外れたはずの偶然が、一日遅れて転がり込んできたことになる。
喜べばいいのか、困ればいいのか、自分でも分からなかった。
指先が、落ち着きなく机の端をなぞる。
視線を黒板へ向けても、文字のない板面をただ見ているだけで、何ひとつ頭に入ってこない。
僕はその感覚をごまかすように、急いで一時間目の準備に取りかかった。
教科書を出し、ノートを開き、必要もないのに筆箱の位置を整える。
何かをしていないと、落ち着かなかった。
「たいしくん、今日はよろしく〜。てかさ、話すの初めてだよね?」
聞き覚えのある声が、背後から明るく届いた。
振り返るより先に、心臓が反応する。
その声は、教室のざわめきの中でも不思議と耳に残った。
ゆっくり顔を上げると、彼女が立っていた。
朝の光を受けたショートヘアが、少しだけ明るく透けて見える。
制服の着方はどこかゆるいのに、だらしなさはない。
むしろ、その軽さすら彼女の雰囲気に馴染んでいた。
同じ教室にいるはずなのに、彼女の周りだけ、少し光量が違う気がした。
「あ……うん」
口から出たのは、それだけだった。
視線を合わせていられず、すぐに目を逸らす。
本当は、もっと普通に返すつもりだった。
その程度の言葉なら、いくらでもあるはずなのに。
「さっきさ〜、音楽流れてたじゃん?」
彼女は気にした様子もなく、軽い調子で続ける。
「たいしくんって、ああいうの聴くんだ〜。……ちょっと意外かも」
耳の付け根あたりから、じわりと熱が上がっていく。
何か言わないと。
そう思うほど、喉の奥が固まっていく。
言葉を探している間にも、彼女は目の前にいて、こちらの返事を待っている。
そして、言葉が出るより先に。
キーンコーンカーンコーン。
一時間目の始まりを告げる鐘が鳴る。
その音が、今は少しだけ救いに聞こえた。
「さあ、授業を始めるぞ」
教室の扉が開いた瞬間、低く抑えた先生の声が、ざわついていた空気をすっと引き締めた。
本来なら、日直は前日か当日のHR後に、授業の始まりと終わり、どちらの号令を担当するかを決めておくものだ。
正直、どちらがどちらをやっても大きな違いはない。
ただ、始まりの号令だけは妙にやりたがる男子がいるので、事前に話しておいた方が余計な面倒を避けられる。
けれど、今回は事情が違うのでそんなことを決める時間はない。
どうするべきか分からず、僕は少しだけ視線を横へ向ける。
目が合うと、彼女はにっこり笑う。
それから、自分の胸元を指で軽く示し、何でもないことのように立ち上がった。
「起立」
明るい声が、教室に届く。
その一言で、役割分担は決まった。
ただそれだけのことなのに、妙に特別な合図を交わしたような気がした。
思わず口元が緩みそうになり、僕は慌てて視線を落とす。
ノートの白い余白を見つめながら、何でもないふりをした。
気づけば、一時間目の終了を告げる鐘が鳴っていた。
正直、授業の内容はほとんど頭に入っていなかった。
机の上には、配られたプリントがしわ一つないまま広がっている。
板書を写すためのシャープペンシルも、指の間に挟んだまま、結局ほとんど動かなかった。
本郷が休む。
本郷が休む。
男子の日直が、急きょ選び直される。
そこまでの展開は、さすがに考えていなかった。
でも、本郷が欠席すること自体は、不思議ではない。
普段から授業を真面目に受けている印象はないし、ノートを取っているところも見た覚えがない。
たいていは机の下でスマートフォンをいじっているか、眠そうに窓の外を眺めている。
だから、予想できなかったとしても仕方がない。
仕方がないはずだった。
それなのに、ほんの少しだけ悔しかった。
先生が教室を出ると、黒板だけが残った。
なぐり書きされた文字の残骸が、白く粉っぽくこびり付いている。
授業が終われば消える。
それだけのことだ。
特別な意味はない。
ただ、誰かがやらなければならない。
黒板消しを手に取り、上から順に文字を消していく。
「たいし君、そっち側から半分お願いね」
「私はこっち側やるから!」
反対側から、弾んだ声が飛んできた。
「えっと……俺が、全部やるから」
格好つけたつもりはない。
ただ、彼女と肩を並べて作業する気恥ずかしさから、言葉が漏れただけだった。
「なに? 私の身長じゃ、上のほうまで届かないと思ってるんでしょ! ちゃんと消せるもん!」
そう言いながら、彼女はぴょんぴょんと跳ねて黒板の端に手を伸ばす。
その姿があまりに真っ直ぐで、返す言葉を失った。
僕側の黒板がきれいになる頃、彼女も同じように文字を消し終えていく。
自然と二人の距離が縮まっていった。
――どう切り出せばいい。
話しかけるなら、今しかない。
そう分かっているのに、肝心の言葉が出てこなかった。
人と話すことが、こんなにも難しいものだとは思わなかった。
まして、相手が彼女となると、なおさらだった。
頭の中でいくつもの言い方を並べては消し、結局どれも選べないまま、時間だけが過ぎていく。
そんな風に思考が足踏みしていると、
「真希ちゃーん、もう終わりそう?」
背後から、彼女の友達が気軽な調子で声をかけた。
「うん! もう終わる〜。ちょっと待ってねっ!」
彼女は明るく答えると、残っていた文字を手早く消していく。
その声も、返事の軽さも、僕に向けられたものではない。
それなのに、すぐ隣で聞こえるせいで、妙に近く感じた。
最後の一列が消える。
白い粉がふわりと舞い、黒板の下へ落ちた。
彼女は黒板消しを置くと、何の迷いもなく友達の方へ振り返る。
「じゃ、トイレ行こ」
「行こ行こ。てかさっきの話なんだけど——」
二人は楽しげに言葉を重ねながら、教室を出ていった。
笑い声が廊下の奥へ遠ざかっていく。
さっきまで隣にあった彼女の気配だけが、黒板に残った白い粉のように、かすかにそこへ残っていた。
僕は、結局話しかけられなかった。
友達が多い人の周りでは、会話の隙間がすぐに埋まってしまう。
こちらが迷っている間に、誰かが当たり前のように彼女の時間を持っていく。
――彼女と話すのは、思っていたより難しい。
今日を逃したら、こんなに自然に隣に立てる機会は、しばらく来ないかもしれない。
――二時間目の開始を告げる鐘が鳴った。
黒板には数式が並んでいた。
数学教師がその横に補足の式を書き足していく。
チョークの音も、説明の声も、確かに教室にはある。
けれど、僕の頭には何ひとつ入ってこなかった。
ノートの上でシャープペンシルを動かす。
板書を写しているように見えるくらいには、それらしく手を動かしていた。
けれど、紙の隅に並んでいるのは数式ではない。
休み時間、十分。
昼休み、約四十分。
放課後、未定。
僕は授業中にもかかわらず、彼女と話せる可能性だけを計算していた。
休み時間は短い。
話題を探しているうちに終わる。
ようやく言葉が軌道に乗りかけたとしても、鐘ひとつで簡単に切られてしまう。
それに、さっきみたいに横から誰かにさらわれる可能性もある。
彼女の周りには、いつも人がいる。
じゃあ、昼休みはどうか。
時間だけなら足りる。
けれど、彼女が一人でいる場面なんて、そう都合よく訪れない。
女友達に囲まれた彼女へ声をかける自分を想像してみる。
その瞬間、何人分もの視線がこちらへ向く。
何の用?
急にどうしたの?
そんな声が実際に聞こえたわけでもないのに、勝手に頭の中で再生される。
無理だ。
一対一で、長く話せる機会があればいい。
そう考えてから、すぐに打ち消した。
……いや、それは望みすぎか。
彼女と僕は、まだほとんど何も知らない。
まともに会話をした回数だって、数えるほどしかない。
なら、まずは一言でいい。
不自然じゃない言葉をひとつ。
彼女の中に、ほんの少しでも自分の印象が残るような一言を。
そこまで考えたところで、張りつめていた顔の力が少しだけ抜けた。
ノートの隅には、解けるはずのない計算だけが残っている。
黒板の数式は、いつの間にか次の問題へ進んでいた。
僕はそれに気づいても、もう追いつこうとは思えなかった。




