日直
次の日の朝。
椅子を引く音が、耳に刺さった。
誰かが机を叩いて笑っている。
その笑い声に重なるように、廊下から戻ってきた女子が「え、マジで!?」と甲高い声を上げた。
窓際では男子が椅子を蹴るように立って、床に鈍い音が響いた。
机に腰を預けた者、椅子を後ろ向きにして笑っている者、廊下から誰かを呼び込もうとしている者。
声が重なって、重なって、ひとつの塊になっていく。
授業が始まる気配は、まだどこにもなかった。
僕にとって、それは相変わらず雑音でしかない。
先生が来るまでイヤホンをつけ、音楽を流し、机に顔を伏せる。
周りの声を遠ざけて、時間が勝手に過ぎていくのを待つ。
それは、何度も繰り返してきた朝の過ごし方だった。
ただ、今日は同じ姿勢のままでも、意識の向かう先が違っていた。
机に伏せたまま、視線だけをゆっくりと教室の向こうへ向ける。
彼女は、いつもの席にいた。
誰かと話している。
表情がよく動き、笑うたびに、その周りだけ空気が少し明るくなるように見えた。
人間観察。
そんなもっともらしい言葉を、自分の中で貼りつけてみる。
けれど、そんなものは言い訳でしかない。
本当は分かっている。
僕はただ、彼女を見ているだけだ。
音楽は耳元で流れているのに、意識はずっと教室の向こう側に引き寄せられていた。
もし、彼女と目が合ったら。
そんなありもしない想像が、ふいに頭をよぎる。
たったそれだけで、顔に熱が集まった。
慌てて視線を落とし、何でもないふりをして机に額を押しつける。
誰にも気づかれていないはずなのに、胸の奥だけが、やけにうるさかった。
そのとき、耳元で音が途切れた。
流れていた音楽が、ぷつりと止まる。
アプリのバグか、それとも接触不良か。
一瞬、世界が音を失った。
イヤホンが壊れたのか。
アプリのバグか、それとも接続が途切れたのか。
一瞬、世界が音を失った。
耳元にあったはずの音楽が、ぷつりと消えている。
代わりに、教室のざわめきが薄い膜を破るように戻ってきた。
イヤホンが壊れたのか。
つい最近、ようやく手に入れたばかりのBluetoothイヤホンだった。
安いものではない。
画面を確認するより先に、指先に嫌な力が入る。
さっきまで彼女のことで乱れていた意識が、今度は別の不安へと引きずられていった。
僕は眉を寄せ、机の下でスマホを操作した。
画面を点け、音量を上げる。
反応を確かめるように、指先で軽くボタンを叩く。
だが、返ってくるはずの変化はなかった。
その瞬間だった。
♪――
けたたましい音が、外へと弾けた。
イヤホン越しじゃない。
はっきりと、外に。
流れ出したのは、よりにもよって最近流行りの萌え系ソング。
興味本位で聴いていただけで、決して好きだと思われたくないジャンルだ。
理解が追いつくより先に、周囲の視線が突き刺さる気配がした。
慌てて音量を下げる。
心臓の音と一緒に、音楽もぶつりと途切れた。
静まり返る教室。
――最悪だ。
どうやらイヤホンの電源が切れていて、音声はスマホのスピーカーに流れていたらしい。
設定ミスか、それとも仕様か。
できることなら無かったことにしたかった。
音楽が鳴り止んだあと、教室には微妙なざわめきが残っていた。
誰かがこちらを見る気配。
前の席からも、後ろからも、視線が集まってくるのが分かる。
――見られてる。
このまま俯いていたら、恥ずかしがっていると思われて、余計に気まずい。
僕は意を決して顔を上げた。
その視線の先で、教室にいる彼女と目が合った。
周りと同じように、ただ音の出所を確認するような視線。
でも、その中で、僕と彼女の目だけが、はっきりと合った。
その瞬間、教室の音が、すっと遠ざかる。
笑い声も、椅子を引く音も、ざわついていたはずの朝の空気も、全部、薄い膜の向こう側に押し出されたみたいだった。
残ったのは、彼女の目と、鼓動だけ。
――ほんの一瞬。
今まで触れたことのない感覚が、胸の奥に広がっていく。
――ただそれだけのことが、なぜかずっと胸に残った。
ガラッ、と扉が開いた。
その音だけで、教室は元の形に戻る。
先生が入ってきて、ざわめきが少しずつ席へ散っていった。
まだ、そこにいたかった。
その気持ちだけが、行き場をなくして残った。
「おはよう。みんな揃っているか」
一日の始まりを告げるには、あまりにも気の抜けた声だった。
すでにHRの時間は過ぎている。
それなのに、教室の前に立つ先生に焦った様子はない。
眠気を引きずっているのは、生徒だけではないらしい。
教室には、まだ朝が完全に入りきっていなかった。
机に頬杖をつく生徒。
欠伸を噛み殺す生徒。
開いた教科書の上で、ぼんやりと視線を泳がせている生徒。
先生はそんな教室を見渡し、少しだけ呆れたように出席簿へ目を落とした。
「……本郷、欠席か……」
先生は出席簿に目を落としたまま、ペン先で名前の横を軽く叩いた。
何かを思い出そうとしているのか、それとも単に考えるのが面倒なのか、しばらくそのまま黙っていた。
その沈黙を埋めるように、前の方の席から声が上がる。
「本郷君って、今日日直ですよね」
クラス委員が、いかにもそれらしい落ち着いた声で言った。
「そうなんだよねぇ。彼女一人にやらせるわけにもいかないし」
先生のその言葉を聞いた瞬間、胸の奥に、昨日味わった嫌な余韻が戻ってきた。
このクラスの日直は、毎日、帰り際に先生が男女一人ずつを選ぶことになっている。
誰になるかは、その場で決まる。
だから、狙ってなれるものではない。
昨日も同じだった。
彼女の名前が呼ばれた瞬間、教室の空気が少しだけ変わった気がした。
もちろん、変わったのはたぶん僕の方だ。
次に呼ばれる男子の名前を、先生がまだ口にしていない。
その短い間だけ、視線が黒板の前に縫い止められたように動かなかった。
——次は、僕であってほしい。
そんな考えが、自然に浮かんでいた。
普段の僕なら、馬鹿馬鹿しいと思ったはずだ。
胸の内で、祈るように呟いていた。
けれど、選ばれたのは本郷だった。
本郷はやんちゃで、不真面目だ。
明るく抜いた髪に、崩した制服。
椅子に浅く腰かける態度まで含めて、真面目な生徒とは明らかに違っていた。
教室にいるだけで妙な存在感がある。
喧嘩に向いていそうな体格も、本人の性格と妙に噛み合っていた。
それに比べて、彼女は華奢だ。
二人が並ぶ姿を想像して、ふと思う。
――飴玉に、おにぎりだな。
あまりに釣り合わない。
思わず、喉の奥で小さく笑いが漏れた。
そうでもしないと、うまく飲み込めそうになかった。
「じゃあ、たいし」
呼びかけが、不意に意識へ割り込む。
――えっ。
思考が、不自然に途切れた。
そのまま数秒、何も浮かばない。
「今日の日直は、真希とたいしで頼むな」
軽い口調でそう言いながら、先生は黒板の隅にある「日直」の枠に、二枚のマグネットをパチリと貼り付けた。
無機質なプラスチックのプレートに印字された、僕と彼女の名前。
その後ろ姿を、ぼんやりと眺めていた。
黒板の上で隣り合った二つの名前を、しばらく見ていた。
不意に巡ってきた彼女と言葉を交わせる機会。
何気なく過ぎていくはずだった一日が、ふいに色づきはじめた。




