恋
先生の声が、黒板に当たって静かに跳ね返る。
白いチョークが板面を擦るたび、乾いた音が一定の間隔で教室に刻まれていった。
窓の外では、春の風に揺れるカーテンが、差し込む光をやわらかく切り取っている。
並んだ机。開かれた教科書。誰かの小さなため息と、椅子の軋む音。
どこを切り取っても、いつもと変わらない授業風景だった。
――少なくとも、外から見れば。
ただひとつだけ、いつもと違うものがある。
心臓だ。
ドクン、ドクン。
音になっているはずもないのに、体の内側だけがやけにうるさい。
鼓動の一つひとつが、薄い皮膚の内側を叩いているみたいだった。
こんなふうに脈打っていただろうか。
いや、違う。
胸の奥が、じわりと熱を帯びる。
それなのに、どこか重く沈んでいく。
息が浅くなり、僕はそっと前のめりになって、机に額を預けた。
腕を枕代わりにして、顔を伏せる。
眠っているように見えれば、それでいい。
この音を、誰にも気づかれないように。
理由は、もう分かっている。
高校二年の、晩春。
新しいクラスにも、ようやく馴染みはじめた頃。
僕は、恋をした。
たぶん、これが初めてなんだと思う。
中学の頃にも、気になる子はいた。けれど、こんなふうに胸が騒ぐことはなかった。
このざわめきの正体を、僕はもう、知っている。
どんな子かと聞かれたら――
一言で言えば、明るい子だ。
見ているだけで、不思議と気分が軽くなる。
まだちゃんと話したことはない。『この人と話したら楽しい』と断言できるほどじゃない。
でも、きっと楽しい。根拠はないけど、確信に近いものがあった。
話しかけたい、とは思う。
けれど、変に緊張するし、照れくさい。
理由もなく声をかけるほど、僕は器用じゃない。
――何か、きっかけがあればいいのに。
そんなことを考えているうちに、一時間目は終わった。
*
キーンコーンカーンコーン。
一時間目の終わりを告げる鐘が鳴る。
「よっしゃー、休み時間だー!」
端の方で、本郷が叫ぶ。
途端に、教室の空気が一気にほどけた。
休み時間になると、クラスの男女は決まって、それぞれの居場所に集まる。
先生が「お前ら、はしゃぎすぎるなよ」と言い残し、教室を出ていく。
「おい、まさと! 早くあのゲームの続きしようぜ!」
本郷が、まさとの机に身を乗り出す。
「続きも何も、さっき授業中に終わらせただろ」
平然と言うまさと。どうやら授業中にゲームをしていたらしい。
一方、教室の隅には女子たちが集まっている。
「え、さき、また別れたの?」
「うん、ガチ。あいつほんと男運ないよね」
声を潜める気配もなく、恋の話がそのまま教室に流れていた。
――僕に友達がいるのかって?
……いない。
正確に言えば、いなくても困らないと思っている。
友達を作るのが得意なタイプじゃない。
誰かの会話に合わせて笑ったり、興味のない話題に頷いたりするのも、正直面倒だった。
席を立って輪に入っていく気にもなれなかった。
本郷の笑い声が、また教室に広がる。
何がそんなに面白いのか、僕には分からない。
分からなくても、困らない。
教室の関係なんてそんなものだ。
同じ空気を吸っているだけで近くなった気がして、環境が変われば終わる。
信用した分だけ、あとが面倒になる。
言葉を交わす相手ならいる。
それで十分だった。
しばらく窓の外を眺めてから、意識を教室の中へ戻す。
その時、彼女の姿が視界の端に触れた。
いったん静まったはずの胸の奥が、またかすかに動き始める。
*
放課後になった。
部活へ急ぐ生徒たちが、廊下を駆け抜けていく。
誰もが、次の場所を知っている。
校門へ向かうグループは、今日の予定や他愛ない話をしながら、軽い足取りで階段を下りていく。
僕だけが、その流れから少し外れていた。
僕には、向かう場所がある。
校舎の一階。
日の光が差し込むことのない、廊下の奥にある教室。
行きたいわけじゃない。
かといって、行かない理由もない。
だから、ただ足を運ぶだけ。
足音だけが響く通路を抜け、その扉の前で立ち止まる。
――研究部。
ゆっくりと扉を引いた。
ガラガラ、と廊下に響く音とは対照的に、中は静まり返っている。
LEDライトが白い光を放ち、整然と並んだデスクを無機質に照らしていた。
窓際の一番後ろの席。
普段の教室と同じ位置に、自然と腰を下ろした。
「……いつも早いな」
思わず、ぼやく。
すると、廊下側のいちばん後ろの席から、視線を上げないまま声が返ってきた。
「たいしが遅いの」
推理小説を片手に、あんりが淡々と答える。
肩まで伸びた黒髪が、ページをめくるたびに静かに揺れる。
顔立ちも整っている。けれど、近づこうとすると、どこか一線を引かれるような気配があった。
同じ最後列にいるのに、あんりとの距離は近いとは言えない。
窓側と廊下側では、見える景色が違う。
光の入り方も、聞こえてくる音の距離も、まるで別の場所みたいだった。
僕とあんりは、その端と端に座っている。
「うちのクラス、三階の一番奥でしょ。右の階段使えば、一分もかからないけど」
ページをめくる音が、静かな教室に響く。
「遠回りする理由、あるの?」
責めているというより、単純に理屈が合わないことを確認している声だった。
なぜわざわざ遅く来る道を選ぶのか、分からないみたいだ。
……出た。効率主義。
一分、という数字には正直ひっかかる。
階段を普通に降りるだけでも一分以上はかかるはずだ。
この人は、走ってここまで来ているのだろうか。いや、そんなはずはない。
――とはいえ、それを指摘したところで、何かが変わるわけでもない。
「いや……あんまり来たくないからさ。少し遅く行けば、もう終わってるかもしれないっていう、淡い希望」
「希望の使い方、間違ってると思うけど」
あんりの視線は、開いた本の上から一ミリも動かなかった。
「それに、すぐ終わる部活じゃないってことくらい、分かってるでしょ」
冗談として流す余地のない、平坦な声で言う。
「だってさ、研究部って聞いたら、もっと面白いことやると思うじゃん」
僕は椅子の背にもたれ、黒板の方へ視線を向けた。
「なのに、研究する内容がさ……」
言いながら、黒板を指さした。
――
高2で一番点数が低い教科は何なのか!!!
――
黒板には、無駄に力の入った文字が並んでいた。
なぜか筆圧まで感じるような熱意。
研究部の顧問が書いたものだ。
いつも部室に来ると、その日のテーマだけが黒板に残されている。
けれど、肝心の顧問本人が顔を出すことはほとんどない。
文字にだけ熱意がある。
今日もその矛盾が、黒板の真ん中に堂々と居座っていた。
「誰がそんなの知りたいんだよ」
教室の空気は、今日も相変わらずだった。
「手抜きっぽいテーマだよね。調べなくても想像つくし」
「学校が知りたいことなのさ。もっとさ、人の行動について研究だったら面白いのにな」
「行動?」
「うん、人って、感情隠そうとすると普段の行動とどんな変化があるのか、気になる」
あんりは、少しだけページを止めた。
「……たしかに、少し気になるかも。たいしって、人間観察が趣味なの?」
「いや……別に」
考えるより先に、否定が口をついて出た。
人を見るのが好きなわけじゃない。
誰が誰と仲がいいとか、誰が何を考えているとか、そういうことに普段から興味があるわけでもない。
むしろ、ほとんどの人間は視界を通り過ぎていくだけだった。
教室にいても、廊下ですれ違っても、そこに誰かがいると認識するだけで、深く覚えようとは思わない。
ただ、たまにいる。
何もしていないのに、場の空気を少しだけ明るく変えてしまう人間。
笑うだけで周囲の温度まで上がったように感じさせる人間。
人との距離の取り方が自然で、誰かの懐に入ることを怖がらない人間。
僕とは、真逆の場所にいるような人間。
そういう相手だけは、どうしても目に残る。
彼女は、たぶんその種類の人間だった。
明るくて、よく笑って、誰かと話すときの表情がころころ変わる。
それが作り物じゃなく、ちゃんとその場に馴染んで見えるから、余計に厄介だった。
僕にはないものを、彼女は当たり前みたいに持っている。
だから、目で追ってしまう。
知ろうとしているつもりはないのに、気づけば彼女の声や表情ばかり拾っている。
もし同じクラスになっていなかったら、僕はその存在にすら気づかなかったかもしれない。
でも、気づいてしまった。
もう彼女を、ただのクラスメイトとして背景に戻すことはできなかった。
「でも最近、やたら周り見てるよね。特に、真ん中あたりの席」
あんりの声は、何気ないものだった。
けれど、その一言だけで、胸の奥を軽く突かれたような気がした。
「……そう。最近、人間観察にハマってるんだ」
自分でも薄いと思う言い訳が、口から出る。
どこを見ていたのか。
誰を見ていたのか。
そこまで気づかれたくなかった。
教室の真ん中。
五列六行に並んだ机の、ちょうど中央あたりの席。
そこに、彼女は座っている。
誰かと話すたび、表情がよく動く。
笑うと、周囲の空気まで少し明るくなるように見える。
僕とは違う場所にいる人間だ。
だから、見てしまう。
見ないようにしても、視界の端が勝手に拾ってしまう。
沈黙が少しだけ長くなり、僕はごまかすように口を開いた。
「なあ……女の子と会話って、どうやったら自然にできる?」
あんりは小説に目を落としたまま、淡々と答える。
「普通に話せばいいんじゃない?」
「それができたら聞いてない」
思わず、声が低くなる。
「人によって違うだろ。明るくて、元気で……誰とでもすぐ打ち解けるような子って、どんな話が好きなんだよ」
口にしてから、少しだけ後悔した。
思ったより、具体的すぎる。
あんりは小説に目を落としたまま、ページの端に指をかけている。
「……そうきたか。意外な展開ね」
その一言は、明らかに小説の続きに向けられたものだった。
僕の質問は、まるごと空中に置き去りにされている。
一瞬、言葉が詰まった。
こっちは、それなりに真面目に聞いたつもりだったのに。
「……おい。聞いてる?」
「ねえ、たいし」
ぱたり、と本を閉じる音がした。
顔を上げたあんりは、どこか楽しげだった。
口元がわずかに緩んでいる。何かを思いついたときの表情に見えた。
「にぎやかだけど、不自由な部屋と」
そこで一度、言葉を切る。
「静かだけど、自由な部屋。どっちがいい?」
「……さあ」
反射的に、曖昧な返事をした。
さっきまでの話の流れを無視した、意図の読めない質問。
あんりという人間には、そういうところがある。
急に核心めいたことを言ったかと思えば、次の瞬間にはどうでもいいことのように流してしまう。
何を見て、何を考えているのか、いまいち掴めない。
そういえば、あんりがクラスメイトと親しげに話しているところを、僕はほとんど見たことがなかった。
人のことは言えない。
けれど、たぶんあんりにも、友達と呼べる相手はいないと思う。
根拠はない。
ただ、妙な確信だけがあった。
質問に答えるつもりがないと分かったのか、あんりは少しだけ不満そうに眉を寄せた。
「さあ、やるよ」
そう言って、あんりは小テストの束を机に置いた。
紙の角が揃った音が、静かな部室にやけにはっきり響いた。
高二で最も平均点の低い教科を特定する。
全員分の点数をノートに書き写し、電卓を叩く。
それだけの作業だ。
やることは単純で、だからこそ余計にやる気が起きない。
顧問は「手作業の過程に意味がある」と言った。
それらしく聞こえる言葉だが、要するに面倒な集計を「教育」という名目で押しつけただけだ。
意味があるとすれば、顧問の手間が省けるという意味だけだろう。
ため息をついて、ノートを開いた。




