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先生の声が、黒板に当たって静かに跳ね返る。


白いチョークが板面を擦るたび、乾いた音が一定の間隔で教室に刻まれていった。


窓の外では、春の風に揺れるカーテンが、差し込む光をやわらかく切り取っている。


並んだ机。開かれた教科書。誰かの小さなため息と、椅子の軋む音。


どこを切り取っても、いつもと変わらない授業風景だった。


――少なくとも、外から見れば。


ただひとつだけ、いつもと違うものがある。


心臓だ。


ドクン、ドクン。


音になっているはずもないのに、体の内側だけがやけにうるさい。


鼓動の一つひとつが、薄い皮膚の内側を叩いているみたいだった。


こんなふうに脈打っていただろうか。


いや、違う。


胸の奥が、じわりと熱を帯びる。


それなのに、どこか重く沈んでいく。


息が浅くなり、僕はそっと前のめりになって、机に額を預けた。


腕を枕代わりにして、顔を伏せる。


眠っているように見えれば、それでいい。


この音を、誰にも気づかれないように。


理由は、もう分かっている。


高校二年の、晩春。

新しいクラスにも、ようやく馴染みはじめた頃。


僕は、恋をした。



たぶん、これが初めてなんだと思う。

中学の頃にも、気になる子はいた。けれど、こんなふうに胸が騒ぐことはなかった。



このざわめきの正体を、僕はもう、知っている。


どんな子かと聞かれたら――


一言で言えば、明るい子だ。


見ているだけで、不思議と気分が軽くなる。


まだちゃんと話したことはない。『この人と話したら楽しい』と断言できるほどじゃない。


でも、きっと楽しい。根拠はないけど、確信に近いものがあった。


話しかけたい、とは思う。


けれど、変に緊張するし、照れくさい。


理由もなく声をかけるほど、僕は器用じゃない。


――何か、きっかけがあればいいのに。


そんなことを考えているうちに、一時間目は終わった。





キーンコーンカーンコーン。


一時間目の終わりを告げる鐘が鳴る。


「よっしゃー、休み時間だー!」


端の方で、本郷が叫ぶ。


途端に、教室の空気が一気にほどけた。


休み時間になると、クラスの男女は決まって、それぞれの居場所に集まる。


先生が「お前ら、はしゃぎすぎるなよ」と言い残し、教室を出ていく。


「おい、まさと! 早くあのゲームの続きしようぜ!」


本郷が、まさとの机に身を乗り出す。


「続きも何も、さっき授業中に終わらせただろ」


平然と言うまさと。どうやら授業中にゲームをしていたらしい。


一方、教室の隅には女子たちが集まっている。


「え、さき、また別れたの?」


「うん、ガチ。あいつほんと男運ないよね」


声を潜める気配もなく、恋の話がそのまま教室に流れていた。



――僕に友達がいるのかって?


……いない。


正確に言えば、いなくても困らないと思っている。


友達を作るのが得意なタイプじゃない。


誰かの会話に合わせて笑ったり、興味のない話題に頷いたりするのも、正直面倒だった。


席を立って輪に入っていく気にもなれなかった。


本郷の笑い声が、また教室に広がる。


何がそんなに面白いのか、僕には分からない。


分からなくても、困らない。


教室の関係なんてそんなものだ。


同じ空気を吸っているだけで近くなった気がして、環境が変われば終わる。


信用した分だけ、あとが面倒になる。


言葉を交わす相手ならいる。


それで十分だった。


しばらく窓の外を眺めてから、意識を教室の中へ戻す。


その時、彼女の姿が視界の端に触れた。


いったん静まったはずの胸の奥が、またかすかに動き始める。





放課後になった。


部活へ急ぐ生徒たちが、廊下を駆け抜けていく。


誰もが、次の場所を知っている。


校門へ向かうグループは、今日の予定や他愛ない話をしながら、軽い足取りで階段を下りていく。


僕だけが、その流れから少し外れていた。


僕には、向かう場所がある。


校舎の一階。


日の光が差し込むことのない、廊下の奥にある教室。


行きたいわけじゃない。


かといって、行かない理由もない。


だから、ただ足を運ぶだけ。


足音だけが響く通路を抜け、その扉の前で立ち止まる。


――研究部。


ゆっくりと扉を引いた。


ガラガラ、と廊下に響く音とは対照的に、中は静まり返っている。


LEDライトが白い光を放ち、整然と並んだデスクを無機質に照らしていた。


窓際の一番後ろの席。


普段の教室と同じ位置に、自然と腰を下ろした。


「……いつも早いな」


思わず、ぼやく。


すると、廊下側のいちばん後ろの席から、視線を上げないまま声が返ってきた。


「たいしが遅いの」


推理小説を片手に、あんりが淡々と答える。


肩まで伸びた黒髪が、ページをめくるたびに静かに揺れる。


顔立ちも整っている。けれど、近づこうとすると、どこか一線を引かれるような気配があった。


同じ最後列にいるのに、あんりとの距離は近いとは言えない。


窓側と廊下側では、見える景色が違う。


光の入り方も、聞こえてくる音の距離も、まるで別の場所みたいだった。


僕とあんりは、その端と端に座っている。


「うちのクラス、三階の一番奥でしょ。右の階段使えば、一分もかからないけど」


ページをめくる音が、静かな教室に響く。


「遠回りする理由、あるの?」


責めているというより、単純に理屈が合わないことを確認している声だった。


なぜわざわざ遅く来る道を選ぶのか、分からないみたいだ。


……出た。効率主義。


一分、という数字には正直ひっかかる。


階段を普通に降りるだけでも一分以上はかかるはずだ。


この人は、走ってここまで来ているのだろうか。いや、そんなはずはない。


――とはいえ、それを指摘したところで、何かが変わるわけでもない。


「いや……あんまり来たくないからさ。少し遅く行けば、もう終わってるかもしれないっていう、淡い希望」


「希望の使い方、間違ってると思うけど」


あんりの視線は、開いた本の上から一ミリも動かなかった。


「それに、すぐ終わる部活じゃないってことくらい、分かってるでしょ」


冗談として流す余地のない、平坦な声で言う。


「だってさ、研究部って聞いたら、もっと面白いことやると思うじゃん」


僕は椅子の背にもたれ、黒板の方へ視線を向けた。


「なのに、研究する内容がさ……」


言いながら、黒板を指さした。


――

高2で一番点数が低い教科は何なのか!!!

――


黒板には、無駄に力の入った文字が並んでいた。


なぜか筆圧まで感じるような熱意。


研究部の顧問が書いたものだ。


いつも部室に来ると、その日のテーマだけが黒板に残されている。


けれど、肝心の顧問本人が顔を出すことはほとんどない。


文字にだけ熱意がある。


今日もその矛盾が、黒板の真ん中に堂々と居座っていた。


「誰がそんなの知りたいんだよ」


教室の空気は、今日も相変わらずだった。


「手抜きっぽいテーマだよね。調べなくても想像つくし」


「学校が知りたいことなのさ。もっとさ、人の行動について研究だったら面白いのにな」


「行動?」


「うん、人って、感情隠そうとすると普段の行動とどんな変化があるのか、気になる」


あんりは、少しだけページを止めた。


「……たしかに、少し気になるかも。たいしって、人間観察が趣味なの?」


「いや……別に」


考えるより先に、否定が口をついて出た。


人を見るのが好きなわけじゃない。


誰が誰と仲がいいとか、誰が何を考えているとか、そういうことに普段から興味があるわけでもない。


むしろ、ほとんどの人間は視界を通り過ぎていくだけだった。


教室にいても、廊下ですれ違っても、そこに誰かがいると認識するだけで、深く覚えようとは思わない。


ただ、たまにいる。


何もしていないのに、場の空気を少しだけ明るく変えてしまう人間。


笑うだけで周囲の温度まで上がったように感じさせる人間。


人との距離の取り方が自然で、誰かの懐に入ることを怖がらない人間。


僕とは、真逆の場所にいるような人間。


そういう相手だけは、どうしても目に残る。


彼女は、たぶんその種類の人間だった。


明るくて、よく笑って、誰かと話すときの表情がころころ変わる。


それが作り物じゃなく、ちゃんとその場に馴染んで見えるから、余計に厄介だった。


僕にはないものを、彼女は当たり前みたいに持っている。


だから、目で追ってしまう。


知ろうとしているつもりはないのに、気づけば彼女の声や表情ばかり拾っている。


もし同じクラスになっていなかったら、僕はその存在にすら気づかなかったかもしれない。


でも、気づいてしまった。

もう彼女を、ただのクラスメイトとして背景に戻すことはできなかった。


「でも最近、やたら周り見てるよね。特に、真ん中あたりの席」


あんりの声は、何気ないものだった。


けれど、その一言だけで、胸の奥を軽く突かれたような気がした。


「……そう。最近、人間観察にハマってるんだ」


自分でも薄いと思う言い訳が、口から出る。


どこを見ていたのか。


誰を見ていたのか。


そこまで気づかれたくなかった。


教室の真ん中。


五列六行に並んだ机の、ちょうど中央あたりの席。


そこに、彼女は座っている。


誰かと話すたび、表情がよく動く。


笑うと、周囲の空気まで少し明るくなるように見える。


僕とは違う場所にいる人間だ。


だから、見てしまう。


見ないようにしても、視界の端が勝手に拾ってしまう。


沈黙が少しだけ長くなり、僕はごまかすように口を開いた。


「なあ……女の子と会話って、どうやったら自然にできる?」


あんりは小説に目を落としたまま、淡々と答える。


「普通に話せばいいんじゃない?」


「それができたら聞いてない」


思わず、声が低くなる。


「人によって違うだろ。明るくて、元気で……誰とでもすぐ打ち解けるような子って、どんな話が好きなんだよ」


口にしてから、少しだけ後悔した。


思ったより、具体的すぎる。


あんりは小説に目を落としたまま、ページの端に指をかけている。


「……そうきたか。意外な展開ね」


その一言は、明らかに小説の続きに向けられたものだった。


僕の質問は、まるごと空中に置き去りにされている。


一瞬、言葉が詰まった。


こっちは、それなりに真面目に聞いたつもりだったのに。


「……おい。聞いてる?」


「ねえ、たいし」


ぱたり、と本を閉じる音がした。


顔を上げたあんりは、どこか楽しげだった。


口元がわずかに緩んでいる。何かを思いついたときの表情に見えた。


「にぎやかだけど、不自由な部屋と」


そこで一度、言葉を切る。


「静かだけど、自由な部屋。どっちがいい?」


「……さあ」


反射的に、曖昧な返事をした。


さっきまでの話の流れを無視した、意図の読めない質問。


あんりという人間には、そういうところがある。


急に核心めいたことを言ったかと思えば、次の瞬間にはどうでもいいことのように流してしまう。


何を見て、何を考えているのか、いまいち掴めない。


そういえば、あんりがクラスメイトと親しげに話しているところを、僕はほとんど見たことがなかった。


人のことは言えない。


けれど、たぶんあんりにも、友達と呼べる相手はいないと思う。


根拠はない。


ただ、妙な確信だけがあった。


質問に答えるつもりがないと分かったのか、あんりは少しだけ不満そうに眉を寄せた。


「さあ、やるよ」


そう言って、あんりは小テストの束を机に置いた。


紙の角が揃った音が、静かな部室にやけにはっきり響いた。


高二で最も平均点の低い教科を特定する。


全員分の点数をノートに書き写し、電卓を叩く。


それだけの作業だ。


やることは単純で、だからこそ余計にやる気が起きない。


顧問は「手作業の過程に意味がある」と言った。


それらしく聞こえる言葉だが、要するに面倒な集計を「教育」という名目で押しつけただけだ。


意味があるとすれば、顧問の手間が省けるという意味だけだろう。


ため息をついて、ノートを開いた。




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