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「天国・地獄・大地獄」-序章-
ただいま毎日〈月〜金のみ〉鋭意連載中!!
その刹那、俺は急に下半身の脱力を感じ取り、立位のキープが困難になった。
姿勢反射的に、高遠アキハから手を離して洗面台のへりを掴み、身体を支えようとする。
しかし、身体は重力の忠実な下僕になったかのように、俺の意思に反して床に向かって屈服していく。
倒れる――。いや、違う。
落ちている!?
俺の身体はどういう状態なんだ?
理解が追いつく間もなく、濡れた洗面台を掴んでいた両の手が勢いよく滑る。
無我夢中で伸ばした左手は、高遠アキハが床についた左腕を掴んでいた。
身体が静止し、周りを見たことでようやく自分の置かれた状況が見えてきた。
俺は今、崖下にぶら下がっている。
床はどこへいったんだ?突然消え失せたとでも言うのか?
目の前は壁、足下には漆黒の闇がどこまでも続いている。
「痛ったいなあ。脱臼したらどうすんの」
頭上から高遠アキハの声が降り注ぐ。
見上げると、高遠アキハの足下にだけは床が残っており、洗面台からトイレ付近までの床が消失して穴になっている。
フリルつきのスカートから伸びた黒いニーソックスは洗面台下の排水パイプに絡み、がっちりと身体を固定していて、まるで床の消失を予見していたかのようだ。
「落ちる……助けて」
情けない声を上げる俺に、濡れた前髪の奥から冷たい眼差しが注がれる。
「聞かせてよ。赤ん坊を水に沈めたの?」
俺は答えられず、苦悶の表情を浮かべることしかできない。
掴んでいる高遠アキハの左腕は、ちょうど包帯が巻かれている部分で、俺の重みでずるずると包帯が解けていく。
ゆっくりと滑り落ちていく俺の左手は、高遠アキハの手首でかろうじて落下を止めた。
「赤ん坊を殺した水、それがあんたの【業】ね」
解けた包帯がするりと腕から離れ落ちていく。
露わになった白い腕には、セメント男と同じように数字の羅列が紅い入れ墨で彫り込まれている。
それを隠すための包帯だったのだ。
しかしその桁数は男のものとはかけ離れていた。
17854
何の数だ?
囚人番号?
まさか俺の左腕にもあるのか?
その時、轟音とともにスライドドアが弾け飛んだ。
ドアは俺の後方、ぽっかり空いた虚空の底へ向かって落ちていく。
はっと顔を上げると、そこには予想外の人物が立っていた。
山吹サチ。状況が飲み込めない様子で、俺と高遠アキハを交互に見ている。
まさか、あの状況から生還できたのか。でも彼女ならあり得る。
よかった。山吹さんなら、きっと俺を助けてくれる。
助けを乞おうと声を出そうとしたその時、山吹サチの後ろから、にゅっと人影が現れた。
それは、紛れもなくあのセメント男だった。
どういうことだ。怪物は一体どこへ消えたんだ。
「なんや、アキハの【業】が発動しとんのか」
男は、ひょうひょうとした関西弁で山吹サチに話しかけている。
「見た通りですね。危険な状況です」
「お察し、やな」
なんだなんだ。なんで二人は見知った風に会話してんだ。
まさか、こいつら元々グルで、俺をハメようとしてたってのか?
「まあ、さ。色々と聞きたいことはあるだろうけど」
俺の困惑しきった表情を見て、高遠アキハは察したように言う。
「ちょっともう左腕が限界だから、落ちてくんない?」
滴り落ちてくる水のせいで、俺の左手は今にも高遠アキハの手首から外れそうになっている。
ふざけんなよ、誰が離すものか。
「いけません。私に掴まって!」
滴る水に濡れないようトレーナーの袖をまくり、山吹サチが俺の方に左手を伸ばしてくれる。
ああ、やっぱり山吹さんはいい人だ。
俺はなんとか右腕を伸ばせないか、身をよじる。
その時、山吹サチの露わになった左前腕にも紅い数字が彫り込まれているのが見えた。
2009
高遠アキハより少ないが、セメント男よりは多い数。
俺はその数字に向かって必死に右手を伸ばす。
17 へつづく
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