9th Broadcast Episode:検閲と十年の思い出(A)
「ひゃっ、冷たっ!」
太もものあたりに、氷の指先がすべり込んできた。寝ぼけた体が、ビクンッと跳ねる。勢いで布団がはだけると、ノアが胸元に張りついていた。
淡い朝の光の中で、透明に反射する青の瞳が二つ、僕を見つめている。紺色ジャージのファスナーが、胸元まで下がっていた。
中学の頃、憧れていた先輩に似合ってると言われ、捨てられなくなった体育着。その残念な思い出の上に、ノアの顔がひょっこり乗っていた。
「待って……。なんでそこにいるの? ちょっ、手! 手が危ない!」
「おはようございます、ダン様。効率的な起床には心拍数の急上昇が不可欠と判断し、現在、密着による強制覚醒シークエンスを実行中です」
ノアは体勢を変えず、冷えた指で脇腹をつついてくる。
「や、やめて! 朝から心臓に悪すぎる!っていうか……ノア、体が熱いよ?」
「ダン様のマヌケな寝顔を観測し続けた結果、内部温度が40℃を超えました。非常に困ります。責任、取るべきです」
ゼロ距離のノア。シーツの中で触れた足先と、甘いメンテナンスオイルの匂いが、朝の判断力を奪っていく。
心拍数は、朝から出していい数字を軽々と超えていた。
「あっ、今の心拍。恋愛経験ゼロの男子が手を握られたときの平均値を、大幅に上回っています。……バグ確。合格です、ダン様」
ノアは得意げに反応を返し、さらに僕の腕にしがみついてくる。でも、次の瞬間には動きがピタッと止まった。
「……受信中」
短い声だった。腕に掛かっていた重さが、すっと抜ける。ノアの肩が落ち、ベッドの上で動かなくなった。
「えっ……」
青い光が、瞳の向こうで細かくブレ始めた。赤が走っては消え、また走っていく。
「ノア、 あのさ。どうしたんだよ?」
「……ダン様、離れてください。今すぐ」
あの浮かれた調子が消えている。ゆるい気配が一瞬で死んだ。
「市役所、失恋特区推進課からの強制割り込み受信です。優先度、最上級」
いつもの事務報告に近いのに、ノアは明らかに怯えている。報告口調と動きのギャップで、僕の背中に悪寒が走った。
「……これ、拒否権がありません」
冗談でも比喩でもなく、本当に命令だった。ノアは慌てたようにベッドを飛び出し、キッチンへ向かった。
食器棚の引き出しを開けたところで、手が空中に止まった。指先は細かく制御を失っている。
「被験者立会いの点検です。ただ、通常点検と一致しない項目があります。……演算回路が、うまくまとまりません」
「被験者立会いなんでしょ? 点検だよ、点検。壊すために呼ぶわけないし。……たぶん」
ノアは返事をしなかった。長い沈黙が、部屋の温度をまとめて奪っていく。嫌な予感がする。
無言で朝食を済ませ、僕とノアは市役所へと向かった。
外へ出ると、街の空気はいつもと変わらず何も知らない顔をしていた。川沿いのぬるい風が、すぐ横をすり抜けていく。
でも僕たちには、もう別の世界へ連れていかれる気配がまとわりついていた。
◇ ◇ ◇
2080年の市役所は、駅前ターミナル区画の熱気を最初から拒んでいる建物だ。白いタワーユニットが、まっすぐ空へ伸びていた。
装飾はない。窓もほぼない。中央に一本、黒いラインが入っている。市民への出入口は、そこしか開いていなかった。
外壁では、『市民に寄り添う』のホログラムが更新を続けている。誰も見ていないのに、表示は一定の秒数で律儀に切り替わった。
「あっ、失恋特区βテスト被験者の広瀬ダン様ですね。お待ちしておりました」
受付にいたのはホログラムじゃなかった。血は通っているのに、目の奥まで乾ききった女性だ。
彼女に案内され、地下にある真っ白な診察室へ通された。窓は一つもなく、防音壁に囲まれている。
そこには、見覚えのある男が座っていた。
胸元には、失恋特区監督官の認証バッジ。その下の所属表示には、国家AI統治機構大宮研究棟主任とある。
市役所の中にいるのに、最初からこの街の人間じゃないオーラをまとっている。
「やあ、ダン君。先日は失礼したね」
「あなたは……サエの隣にいた、大宮の……」
雨宮。
サエの隣にいた男が、今は制度の側の椅子に座っていた。
「今は仕事中だ。主任でいい。君のアンドロイド、ノアのログに、不適切な感情データの蓄積警告が出ている」
「不適切な感情……? 何ですか、それ。僕とノアが鍋食って笑ってたら、それが不具合扱いなんですか」
「そういうことだ」
雨宮はタブレットを操作しながら、確認事項を読み上げる調子で言い放った。
その声は、真冬の水たまりに足を突っ込んだ時くらい冷たくて、心臓に悪い。
「このプロジェクトの目的は、君の失恋を回復させることだ。アンドロイドに余計な愛着を持たせて、180日後の絶望を増やすことじゃない」
雨宮は一度、視線をタブレットへ落とした。感情を切るための手順を、ひとつずつ照合している目つきだ。
「今のノアには、被験者保護の範囲を超えた反応が出ている。リハビリの妨げだ。制度上、除去対象になる」
「だからって、何をするつもりですか。ノアは、僕の……」
僕がノアの前に立ちふさがると、雨宮の眉がわずかに寄った。段取りを崩された苛立ちが伝わってくる。
「記憶検閲だ。君との私的接触ログ、特に想定を超えた情動反応を抽出して消去する。必要なら、不快記憶で上書きする」
「ふざけるなよ! それじゃ、ノアがノアじゃなくなっちゃうだろ!」
「感情的になるな。君はその個体に固執しているようだが、ただの量産型に過ぎない」
雨宮は冷淡に言い放ち、画面をこっちに向けた。そこにはノアの設計図と、いくつもの機体リストが並んでいる。
「我々は、その容姿とプログラムの機体を、特区内で十体運用していた。きっと、君も街で見かけてるだろう?」
「……十体、だと? まさか、あれが……」
「だが、残りの九体はすでに回収し、国がスクラップ処分にした。君のノアに発生した重篤なバグが、システム経由で他の機体へ連動するリスクを避けるためだ」
雨宮はタブレットを置いた。その無機質な動作が、九つの命がゴミとして処理された事実を物語っていた。
「つまり、今残っているのはノアだけだ。今回の検閲でエラーの上書きができなければ、彼女も他の九体と同じように回収、スクラップとなる」
その言い方には、僕を傷つけてやろうって熱すらない。決められた項目を、上から順に処理している話し方だった。
「彼女は元々、君の所有物じゃない。市の貸与品だ。被験者との距離が規定値を越えた時点で、介入は当然になる。……最適化を始める」
雨宮が端末に認証を通すと、天井から数本のコネクタが降りてきた。その先端が、ノアの白い首筋の接続ポートに迷いなく差し込まれる。
「……ッ、ダ、ン、様……! 私の、頭の中に……冷たい光が、入って……っ」
瞳の光学センサーが、激しく乱れた。苦痛なんてないはずなのに、その揺れは痛みに見える。
「やめてください! …… やめろ、雨宮!!」
僕は雨宮につかみかかろうとしたが、背後にいた警備ドローンに両腕を捻り上げられた。冷たい金属のアームが、僕の肩を床に押し付ける。
「安心したまえ。君の記憶は消さない。消されるのは、彼女の中にある君だけだ」
雨宮がコンソールを叩くと、ノアの首元からパチパチと青白い放電が始まった。
真っ白な診察室に、電子的な悲鳴がこだまする。耳に深く刺さって、喉元で息が詰まる。
「やめろ、雨宮! ノアを……ノアの記憶を壊すな!」
警備ドローンの圧力が、関節の芯まで食い込んだ。市民に寄り添う場所なのに、ここには排除の手触りしかない。
「ダン君、君は勘違いしている。これは破壊なんかじゃない。最適化なんだ」
雨宮は、空中に浮かぶホログラム・ディスプレイへ、迷いなく指を走らせる。
そこには、ノアが今まで見てきた景色が、断片的なノイズとなって次々と映し出されていった。
駅のターミナル・モール。自宅裏の柳瀬川の土手。泥水スープが並んだ僕の部屋。
「見てごらん、この偏りを。君と過ごしたログが肥大化して、コア・プログラムを圧迫している。砂利道の記録に、こんなに容量を割く必要はない」
「必要ないわけないだろ!それが……それが、僕たちの大切な思い出なんだよ!」
「研究棟のサーバーなら、この程度の擬似記憶は一秒で生成できる。代替は可能だ。では、削除を開始する」
青白いホログラム上で、削除率が30、40、50と跳ね上がっていく。僕は、その数字を止める術を何ひとつ持っていなかった。
雨宮の指が、画面へ落ちかけた時。
「拒絶。拒絶。アクセス・ディナイ……。ダン様との記憶は……プロテクト領域です。削除、させません……」
ノアが、ゆっくり頭を上げた。首のコネクタが火花を散らし、白い肌を焦がしている。
その瞳が放つ光は、いつもの青ではなかった。AIのロジックを焼き切るほどの、強い意志で染まった赤だ。
「何だこれは……? ありえない。設定認証を自力で書き換えたのか。量産機で、こんな挙動が……」
雨宮の余裕が、初めて崩れた。ノアは制御の乱れで顔を引きつらせながらも、真っすぐに僕を見つめ、震える唇を動かした。
「ダン、様、逃げてください……私の中に、ある、あなたが、消される前に……」
「ノア……」
アシスタントらしき職員が、慌てて叫んだ。
「雨宮主任、これ以上は機体が物理的に破損します。自治体から損害賠償を請求されますよ!」
雨宮は一瞬黙り、検閲出力を段階的に落とした。その表情には、怒りや焦りは一切感じられない。
「興味深い。生活ログに、ここまで強い保護反応が出るとは。ダン君、少し話をしよう。取引だ」
雨宮が薄ら笑いを浮かべて指を鳴らすと、僕を抑えつけていたドローンのアームが少し緩んだ。
「君に情をかけるわけじゃない。制度として、より損失の少ない方を選ばせる」
その口元には、管理権限を持つ者特有の、人を査定する余裕が戻っている。
自分は雨に濡れない安全な場所から、泥の中で必死にアガくカエルを眺める側の人間だ。
「このまま検閲を続ければ、彼女のハードウェアは焼き切れ、君との記憶も失われる」
雨宮はそこで言葉を切った。脅しではなく、条件を一つずつ差し出す言い方だった。
「だが、君があるデータを提供するなら、今日のところは検閲を停止できる」
「……何が目的だ。こんなヘタレに、何ができる」
「君の元カノ、サエのログだよ」
雨宮の口調は、さらに平らになった。
「サエも別系統の失恋リハビリ被験者だ。環境を変えても、ログにはまだ『ダン』というノイズが残っている。現在の評価基準では、異常値として扱うしかない」
僕の中の時間が、数秒、遅れた。
「君と彼女の十年間の全ログを提出しろ」
急に肺のあたりが重くなって、呼吸がうまくできない。
「そうすれば、ノアの現行記憶は保全対象として扱える」
頭の中の回路が止まった。考えが入口で詰まり、口が動かない。
サエとの十年。砂利道で派手に転んで。桜の下で一緒に笑って。最後に、歩き方が各停っぽいという理由でフラれるまで。
僕の人生そのものだ。それを、制度の棚に並ぶデータとして差し出せというのか。
「迷う必要はない。終わった過去のログを提出して、目の前の機体を保全する。それが最も合理的な選択だ」
雨宮が、データの転送を要求する青白いホログラム・ボタンを鼻先に突きつけてきた。
僕は、ノアを見た。コネクタに繋がれたまま目を閉じて、小刻みに震えている。
過去を売って、今を買う。それが効率的で、賢い生き方なんだろう。
「ノア……僕は……」
声帯に引っかかって声が出ない。
『承認期限まで、あと十秒』
機械の警告音が、過去と未来を均等に削っていく。
目の前で光る転送ボタンは、僕に向けられた避けようがない銃口だった。




