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8th Broadcast Episode:緊急充電で砂利道(B)

 『カッパの隠れ家』を出る頃には、街はすっかり夜の闇に包まれていた。


 僕たちは、駅前のスーパーに立ち寄ることにした。今夜は鍋だ。

 店の自動認証ドアをくぐった直後、ノアが腕にまとわりついてきた。


「……ッ!?ちょ、ちょっと、ノア?」

「ダン様、静かに。周囲の主婦層を検知しました。ここでは新婚夫婦偽装モードで買い物を行います」

「は? なんでそんなモードが必要なんだよ!」

「スーパーでは、外見の印象管理も重要です。今から、新妻としてのロールプレイを遂行します。ほら、あなた? カートを押してください」


 ノアは、僕を『あなた』と呼び始めた。

 しかも距離が近い。肩が触れ合うどころじゃない。柔らかい感触が腕に当たりっぱなしで、理性ばかり削られていく。


「ノア、近いって……」

「見てください、この白菜。198円ですよ、あなた。水分95%の葉っぱに払う対価としては、完全にボッタクリです」

「人間だって60%水だわ!」


 値札を読むノアは完全に本気だった。余計にたちが悪い。数字を確認しながら、迷いなくカゴに放り込んでいく。

 ときどき、髪のヘアピンを指先でなぞった。その癖が気になって仕方がない。


 ノアは精肉コーナーの前で立ち止まった。僕の腕を抱えたまま、つま先立ちで耳元に唇を寄せる。


「ねえ、ダン様。血中テストステロン値と心拍数の上昇を確認。この豚バラ肉を購入し、タンパク質を補給する必要があります」

「は? ノアが引っ付いてくるからだって」

「いいえ、身体反応は嘘をつきません。脳が性的エネルギーの補給を求めています。リハビリの一環として、今夜は精力増強メニューを義務付けます」

「義務付けるな! 言い方考えて!」


 僕の頬は、たぶん豚バラ肉より赤くなっていた。


「なぜ照れるのですか? 繁殖準備プロセスの第一段階に過ぎません。ほら、カートを押してください、あなた」


 近くの主婦たちは何も言わず、含み笑いを置いて通り過ぎる。


 その直後。主婦たちの向こう側、人混みの隙間に、また見つけてしまった。

 僕の腕にいるノアと、全く同じ顔。知らない男のカートを押し、微笑んでいる姿を。


 すぐに僕は、目の前のヘアピンと白銀のまつ毛を見た。それから、もう一度遠くのノアを確認する。


 ない。あっちには間違いなく無い。

 じゃあいったい誰なのか。


「心拍数130突破。あまりに発情がひどいので、豚バラ肉を追加購入せざるを得ませんね、ダン様?」


 目の前のノアが、勝ち誇ったスマイルでのぞき込んでくる。麻痺した思考で、僕は言われるがままカートを押し出した。




 ◇ ◇ ◇




 スーパーでの新婚偽装モードをどうにか終え、僕たちはオンボロアパートに帰り着いた。


 六畳一間の狭いキッチン。二人で立つと、身動きがとれない。野菜を刻む軽いリズムが、安っぽい壁に当たっている。


 ノアの包丁さばきは、料理というより精密な切断だ。白菜の断面が、気味が悪いほど揃っている。


「ねえ、ダン様。この長ネギの青い部分。これは、切り捨てるべき過去ですか? それとも、煮込んで愛でるべき未来ですか?」

「うーん……ネギの端っこに、壮大な哲学を込められてもさ。煮込めば食えるでしょ。それがこの街の精神だよ」


 僕は安物の加熱ポッドをセットし、鍋に火をかけた。せせこましい空間で、古い換気ファンの回る音が大きく響く。


 ふと、ノアの長い髪が僕の唇をかすめた。


「……っ、ノア、近いって」

「狭いアパートを選んだ、ダン様の責任です。現在の距離は十二センチ。平均的なカップルより、かなり近い数値です。……あ、耳まで赤いですね」


 ノアは、どや顔で僕の反応をのぞき込んできた。


「うるさいって! そういうとこ、無駄に人間くさいんだよ」

「バグですから。明日には忘れてるかもしれない、一過性のエラーです。さあ、ダン様。味付けの最終調整、毒味の時間です」


 そう言って、おたまですくった熱々のスープを、唇を寄せてふうふうと冷まし始めた。

 ラーメン屋で僕が教えた手順を、律儀になぞっている。その動きがあまりにも人間味があって、思わず息が止まる。


「はい、あーん、してください。もし食中毒になったら、意識があるうちに、ノアのせいじゃない! と録音してくださいね。保険です」

「その優しさ、鬼畜すぎて涙が出るよ」


 僕は覚悟を決め、ノアが差し出したおたまに口を寄せた。

 すると、ノアは危ない実験を思いついたらしく、おたまを引いた。代わりに自分の人差し指にスープを一滴たらして、僕の唇に押し当てる。


「……!? なっ、何して……」

「スプーン越しでは、データの解像度が低すぎます。直接、私の指から味を感じてください。ほら、早くしないと冷めちゃいますよ?」


 指先から伝わる、スープの温かさと、ノアの人工皮膚の滑らかな感触。

 最初に来たのは、ピリッとした辛さだった。後から、野菜の甘みと出汁の味がじわっと広がっていく。


「鬼ウマ!……いや、腹立つくらいうまい!」

「本当ですか!? よかった……。私、自分の演算回路が信じられなくて、さっきから冷却ファンがフル回転してたんです」


 ノアは、ほっとしたように肩の力を抜いた。その拍子に胸元から、プシュゥゥ、という排熱音が漏れる。


 プログラムとか仕様とか、そんな言葉で片付けるには、この部屋の温度は高すぎた。鍋の匂いまで満ちていて、ごまかしがきかない。


 六畳間の真ん中で、ぐつぐつと静かに煮えている鍋を二人で囲んだ。


「あのさ、ノア」


 僕は、湯気の向こう側を見つめた。


「ノアが忘れても、僕はこの味を覚えてる。めちゃくちゃで、でも最高の鍋の味を」


 ノアの動きが止まった。


「……ねえ、ダン様。私が忘れても、ダン様の中には残るんですか?」


 問いかけが、遅れて胸に落ちてきた。ついさっき軽口を飛ばしていたのに、その一言には笑いで逃がせる軽さがない。


「残る。僕が忘れない。鍋の味も、ノアが今そう聞いたことも、全部僕の中に残す」


 言ってから、自分で恥ずかしくなった。映画の主人公でも、もうちょっとマシな台詞を選ぶ。


 ノアはすぐには返さなかった。その代わりに、青い瞳の深いところで、名前の分からない色が一瞬混じった。


「録音しましたよ、今のポエム。あとでサエ様のアドレスに送りつけて、勝利報告していいですか?」

「やめて! 恥ずかしすぎて柳瀬川に身投げするわ!」

「それは困ります。ダン様が川に流れると、下流のカッパが迷惑しますから」


 外では冷たい北風が窓を鳴らしている。でも、安物の食器と鍋の湯気の間には、帰りたくなる場所の匂いがした。


 ……と、その時だった。


 ふいに脳のギアが跳ね上がり、ノアの左腕が、ミリ単位でコマ飛びしたのが見えた。普通なら見落とすほどの微細なラグ。


「……ノア? 左腕、どうしたの」

「え……? あ、あっ……なぜ、分かりました……?」


 ノアは驚いて口を半開きにした。でも、すぐに無理やり口角を整えて、震える腕を背中側へ隠した。

 整いすぎたスマイルに、僕は気づかないふりをした。


 直後、卓上のスマホの画面が、白く点滅した。

 妹の凛(りん)からのメッセージだ。


『お兄ちゃん、今また脳のメモリ解放したでしょ? 私の耳鳴りが一瞬で消えたからすぐ分かった。ウチらの変な遺伝子、早く自覚しなよ』


 メモリ解放だの、遺伝子だの、IQが並外れて高いあいつの言うことはいつも意味不明だ。

 こっちはたまに景色がスローに見える、厄介な過集中に付き合わされて迷惑だってのに。


 スマホを裏返して卓上に置くと、僕は何でもない顔で箸を動かした。




 ◇ ◇ ◇




 深夜の柳瀬川は、肌を刺す冷たさだった。アパート裏の見慣れた川なのに、夜になると別の場所に変わる。

 鍋で温まったはずの体が、家を一歩出た途端に、まとめて冷えていく。


 ノアの腕の痙攣は、部屋を出る頃には収まっていた。それでも足取りは危うくて、砂利道を踏む音が、いつもより重く不揃いだ。


「ダン様……夜の柳瀬川って、データの墓場です」


 川面に映る街灯の光を追いながら、ノアがぽつりとつぶやいた。その響きは、昼間とは明らかに違う。


「墓場、か。昔から色んなものが流れてる街だからね。カッパの伝説も、誰かの失恋も、全部この川が飲み込んできたのかな」


 僕はわざと明るく答え、ノアの手を握った。異常に冷たい。さっきまで鍋の前にあった温度が、きれいに消えている。


 突然、ノアの体が、カクンッと不自然に跳ねた。同時に、僕の手首が骨を砕くほどの力で捻りあげられる。


「……がっ、ノア!?」


 返事はなかった。ただ、瞳の青い光が、血のように真っ赤に染まっていく。そのまま僕を土手に叩きつけると、冷え切った目で見下ろしてきた。


「――テスト起動、嫌悪増発プログラム」


 喉を振り絞った、潰れた声が漏れる。


「……ダン様。まだ理解できないのですか。あなたは優しくなどない。ただ傷つくのが怖くて決断から逃げている、臆病な寄生虫です」

「 ……ノア、何を言って……」


 伸ばした僕の手を、汚物を振り落とすように、バチンッと払いのけた。


「触れないでいただけますか。ゴミを捨てる覚悟もないのに、拾うふりをして善人ぶる。その無能な自己満足が、吐き気がするほど不快です」


 吐き出されるたびに、まっすぐ痛い場所へ入ってきた。これが壊すための精度なのか。

 感情の乗らない、国家インフラの機械音声そのもの。ノアの薄い唇が、淡々と呪いを出力していく。


「選ばれないのには、理由があります。あなたは全てにおいてトロい、ずるい、徹底的に価値が低い。サエ様にゴミとして廃棄されたのも、当然の帰結です」


 そこで攻撃が途切れたのに、身構える暇はなかった。次に来る一撃まで分かってしまうのが、余計にきつい。


「誰もあなたを必要としていません。存在自体が周囲の非効率。志木の街と同じ、ただ社会に取り残された粗大ゴミなんですよ、ダン様」

「ノア……何で……」


 赤く染まった眼差しは、容姿や仕草を越えて、隠していた弱さまで暴いていく。


「傷つかない安全圏から、いい人のフリをして、誰かに救ってもらえると信じている。その醜い甘え、その存在の全てが、心底キモい」


 言い返そうとして、息が詰まった。否定したいのに、どこを否定すればいいのか分からない。


「あなたは一生、誰の特別にもなれないし、誰からも愛されません。ただ一人、誰の記憶にも残らず、朽ち果てていくんですよ」


 いや、分かってるって。

 これはプログラムだ。

 ノアの意志じゃない。


 それでもノアの姿で、あの口調で突きつけられるのは、ただ傷つくよりずっときつい。


「これが私の業務です。あなたが、もう二度と誰かを好きになれないよう、その心を徹底的に、粉々に、再起不能まで破壊すること」


 ただ対象を処理するための、事務作業の態度だった。


 ポケットの僕の指先が、何かに触れた。マスターから渡された、あの無骨なボタンだ。

 僕は祈るように、夢中でそのスイッチを押し込んだ。ガチッ、と重い手応えが手に伝わる。


 その直後、ノアの頬を、青みがかった雫がひと筋つたった。


「……まさか。ノア……、泣いてるの?」

「プログラムは……泣きません。これは……内部結露、です。異常排水……にすぎません……」


 そう言って、現実を拒むように、コアのあたりを拳でドンドンと叩いた。中のシステムを、必死で物理的に黙らせようとしている。

 月光を拾って光るその涙から、僕は動けなかった。それを別の名前で呼ぶなんて、もうできない。


 ノアはガクンと首を落とし、地面に手をついた。


「ダン様、逃げて……このままだと、私……本当に……」


 もう、僕は逃げないと決めた。

 地べたに伏せるノアを、力いっぱい抱きしめた。その体は冷たく震えている。


「嫌いになれよ! プログラム通り、僕をゴミ扱いしろよ!」

「ダン、様……」

「ノア! 廃棄区画になんか、絶対に行かせない。ノアが僕を傷つけるたびに、もっと好きになってやる。それが僕のバグだ!」


 叫び声の残響は、ゆっくりと夜の風に溶けた。ただ、川のせせらぎが、静かに響いている。


 腕の中で、ノアの揺れが少しずつ収まっていった。赤が引いて、瞳はまた、あの頼りない青へ戻っていく。


「……ダン様。今のは……消しません。もう、消せません。どこに置いたらいいのかも分からないです……」


 ノアは僕の胸に額を押しつけながら、小さくつぶやいた。その一言は、さっきの残酷さを忘れるほど温かい。


 その直後、静まりかえった土手の暗がりに、遠くから甲高いサイレンが鳴り響いた。


 ウーッ――ウーッ――


 川の向こうには、浦和の巨大な管理ドームが放つ灯りが、不気味に並ぶ。その無機質な輝きが、柳瀬川の水面に赤黒く滲んでいる。

 あの光る檻の巨体が、冷酷な国家権力が、じっと僕たちを逃がすまいと狙っていた。風が、冷たく首筋を通り過ぎていく。


 僕たちの何かは、でこぼこの砂利道の上を、それでも確かに動き始めていた。


 ──

【NOA CORE COUNTDOWN】

《162:00:00:00》

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