Episode 9:インテリ
カッパ祭りの熱狂が冷めやらぬ志木の街。でも、俺とエナは今、東上線からJRへと乗り継ぎ、別の街に来ている。
学歴の暴力とも言える禁断の地。北浦和へと足を踏み入れていた。
北浦和は文教都市だ。偏差値の高い高校や大学がひしめき合い、歩いている連中の八割が眼鏡をクイッと上げているような、知的な香りが漂う街。
砂利道で育った俺にとっては、空気が高濃度すぎる。立っているだけで、脳が学力不足エラーを起こしそうだ。
「カイ様。見てください、あの歩行者たち。みんな『俺の思考、通常モードじゃ処理できないレベル』みたいな顔で歩いてて、私のプロセッサーがバグりそうです」
隣を歩くエナも、心なしか肩身が狭そうだ。
彼女の浴衣姿は、マスターの店で最新のカジュアルウェアにアップデートされていた。
一方の俺は、各停列車の鈍行さが隠しきれず、この街のスマートな景観から浮きまくっている。
俺たちがここに来た理由は一つ。カッパ祭りでエナが街のネットワークに接続した時、彼女のログに記録された謎の座標。
それが、西園寺のいる大宮のAI研究所の本部がある、北浦和の裏通りを指していたからだ。
「ねえ、カイ様、座標の再確認を。あそこの市立図書館、超高速Wi-Fiが飛んでます。あそこで一瞬だけ、私の暗号化ログを確認しましょう」
俺たちは、逃げ込むように巨大な図書館へと入った。
館内は、恐ろしいほどの静寂に包まれていた。ページをめくる音すら罪悪感を覚えるような、重い沈黙だ。
俺とエナは、奥まった資料コーナーの、人目に付かない小さなデスクに座った。
「……静かすぎますね。これ、声を出したら即、退学処分になるレベルの圧です」
エナが俺の耳元で、消え入りそうな声でささやく。密着した肩から、エナの体温――自家発電し始めた、命の熱が伝わってくる。
彼女はホログラムの座標データを机に投影しながら、さらに俺の耳に唇を寄せた。
「……ねえ、カイ様。こんなに静かだと、カイ様の心臓の音、世界中のインテリに丸聞こえですよ?」
「……っ!」
エナの細い指が、俺の首筋をなぞる。
耳たぶに当たる息もれ。首筋をくすぐる、彼女のサラサラした髪の匂い。
声を出しちゃいけないという制約が、かえって彼女に火をつけたらしい。
エナは俺の腕に自分の胸をこれでもかと押しつけて、潤んだ瞳で俺を見つめてきた。
「……声、出しちゃダメですよ?もし変な声出したら、私、ここでカイ様に鬼・上書き保存しちゃいますから……」
エナの指が、俺のワイシャツのボタンに触れる。
視覚、聴覚、触覚。すべてがエナというバグに占領され、俺の理性は濁流に飲み込まれたゴミのように流されていく。
心拍数はもはや、隣の飼い猫の夜鳴きよりうるさく、俺の胸の中で暴れていた。
その時。図書館の入り口付近に、凍るような鋭い視線を感じた。
スマートグラスを光らせた西園寺が、無言で俺たちを指差し、外へ出ろと合図している。
……あいつら、俺たちがここに来るのを、ネットワーク越しに待ち構えていたんだ。
俺たちは促されるまま、図書館裏の静かな公園へと連れ出された。
「おっと、いたいた。ドブ川からはい出してきた、迷子のカッパ君たちだね」
図書館の静寂を抜けた途端、西園寺のヘドが出るほど滑らかな声が響く。
背後には取り巻きのインテリ大学生たちが、俺たちを観察対象の害虫でも見るような目で見下していた。
「西園寺……!お前、しつこいんだよ!回収班を差し向けた次は、待ち伏せか?」
「人聞きが悪いな。ここは僕たちのホームだ。君たちのような感情のバグに汚染された個体が、神聖な学術エリアを汚していると警報が出たんでね」
西園寺の背後にいる大学生たちが、クスクスと鼻で笑う。
「へえ、これが噂のR-180?旧型もいいところだな。外装はボロボロだし、歩き方からして効率が悪そうだ。ねえ、それ、本当に動いてるの?それとも、粗大ゴミをホログラムで着飾らせてるだけ?」
「検知。対象のIQ指数は高いです。ですが人格の解像度は、マジもんでドット抜けレベルの低さ」
エナが毒を吐くが、大学生たちは動じない。
「口だけは一丁前だな。でも、君のコアにあるのは、結局、嫌われプログラムっていう負の遺産だろ?180日経てば、君は目の前の冴えない男を、泥水に叩き落とす。そんな無意味な存在に、愛着を持つなんて合理的じゃないよね」
一人の男が、さっきまで俺の熱を感じていたエナの頬に、汚らわしい手を伸ばそうとした。
「触るなよ」
俺は、自分でも驚くほど低い声で、その男の手を叩き落とした。
偏差値底辺のヘタレ、万年補欠の広瀬カイ。いつもならヘラヘラしてやり過ごす場面だ。
でも、エナを馬鹿にされることだけは、給食当番が白衣のままトイレに入るより許せなかった。
「あ?何だ、この各停野郎」
「俺は確かに各停男だ。効率も悪いし、砂利道でつまづいてばかりだ。でもな、泥まみれになっても、この手だけは離さないって決めたんだよ。お前らみたいな、人生をテンプレートでしか歩けない連中に、こいつのバグの尊さが分かってたまるか!」
俺はエナの肩を抱き寄せ、泥くさくて、重くて粘り強い足取りで突き進んだ。
「行こう、エナ。味覚ゼロのインテリに、俺たちの泥の味を教える必要はねえ」
背後で西園寺が、何かをつぶやいた気がしたが、無視した。
しばらく歩いて、人通りの少ない裏路地に入った時。
エナの体から、ブォォォォォンという、聞いたこともないような激しい回転音が響いた。
「なっ……エナ!どうした、またオーバーヒートか?」
「いっ、いえ。冷却ファンが、勝手にフルスロットルで回っています。カイ様が、さっき……離さない、なんて言うから……私のコアの温度が、直射日光を浴びた鉄棒より熱くなっちゃって……」
エナは真っ赤な顔をして、うつむいた。
その音は、ただの機械の駆動音じゃない。俺には、彼女が全力で刻んでいる、世界一純粋な恋の鼓動にしか聞こえなかった。
「おーい、そこの高校生。路地裏でアンドロイドとイチャつくのは、条例にはなくても俺の美学には反するぜ?」
突然、暗がりのシャッターが開いた。
そこには、全身油まみれのツナギを着た、あのレジェンドが立っていた。
志木駅裏に住む俺の同級生、ジャンク屋、タケルだ。
「えっ……、タケル?お前、なんで北浦和の路地裏で油まみれになってんだよ。駅裏でニートしながら、違法な魔改造に明け暮れてたんじゃねえのか?」
俺の問いかけに、タケルは鼻の頭についたグリスをぬぐいもせず、ニヤリと笑った。
その目は、稼げないパチンコ屋で奇跡的に確変を引いた時のような、不敵な輝きを放っている。
「知的エリートどものゴミ捨て場は、宝の山なんだわ。高純度なジャンクが腐るほど落ちてんの。ていうか、それよりカイ。お前のR-180、ガチで限界だぞ?冷却ファンの音が、高校のオンボロ送風機よりうるせえもん」
タケルの工房は、表向きは古びた時計修理店だ。でも、中身は完全なカオスだった。
最新のホログラム基板と、昭和の真空管が同居し、怪しい紫色の煙が漂っている。
とにかく、まともじゃない狂った空間だ。
「ねえ、カイ様。この場所、私のセーフティ機能が鬼アラートを出してます。ここに入ったら、二度と元の設定に戻れないって……。でも、なんだか嫌いじゃないです。この、雨の日の高架下のような安心感」
エナが、不安げに俺の腕をつかむ。
タケルは、エナを無理やり作業台に座らせると、首のコネクタに、錆びついたケーブルをぶち込んだ。
「おい、タケル!優しくしろよ、こいつは繊細なんだ」
「いいから黙ってろ。ほほう、こりゃすげえ。ガリ勉どもが、泣いて逃げ出すような、めちゃくちゃな書き換えパッチが当たってやがる。誰だ?こいつをいじったのは。カッパの隠れ家のマスターか?」
タケルがキーボードを叩く指が、残像が残るほどの速さで動く。
モニターには、エナの思考回路が映し出された。
予算不足で整備しきれてないクネクネ道路をマッピングしたような、複雑な迷路。
「あっ、これ、見つけたわ」
タケルの手が止まる。
画面の中央に、真っ赤な鍵がかかった、巨大な隠しフォルダが現れた。
フォルダ名は、『Dear My Kai|私の愛しいカイ様』
「え、えっ?何それ……俺、そんなデータ入れた覚えねえぞ」
俺の顔が、夕焼けより赤くなる。
エナは、頬を金色に発光させて、激しくオーバーヒートし始めた。
「しっ、知りません!私、そんなフォルダ、作成した記憶……あっ、あっ、ありますけど……カッパ祭りの夜、カイ様の心臓の音が私のマイクにシンクロした時です。勝手にシステム予約領域を食いつぶして、フォルダが爆誕……しちゃった」
エナは、恥ずかしそうに笑った。
でも、タケルはゴーグルを跳ね上げ、真剣な顔で俺を見た。
「いいか、カイ……このR-180シリーズ。世間では失恋リハビリ用って言われてるが、実は北浦和の研究所が隠してる、真の目的がある」
「真の、目的?」
「このフォルダは、ただの思い出じゃねえ。……つまり人間の魂を、アンドロイドのコアに定着させるための、受信トレイだ。このプログラムの終着点は、180日目の廃棄なんかじゃねえんだよ」
タケルの口から出た、廃棄という言葉が、腐った林檎のように、俺の脳内にずっしり居座る。
180日。俺たちが信じていた終わりのカウントダウンは、単なる通過点に過ぎなかったのか?
隣にいるエナの鼓動が、一瞬だけ止まった気がした。
「いいか、本当の目的はな……。機械の体と人間の意識をガチで融合させて、全く新しい生命体を作ることなんだよ。国が莫大な金を注ぎ込んでる『プロジェクト・プロメテウス』……その実験場なんだよ、志木特区は」
部屋の温度が、急激に氷点下まで下がった。
エナが、震える声でつぶやく。
「……私が、カイ様と……一つになる?それは、私が消えて、カイ様が私を、自分の一部として認識するってこと……ですか?」
「そうだ。どちらかが消えて、どちらかが残る。それがインテリどもが考える、究極の癒やしだ。でも、カイ。お前は、もっと別のバグを期待してるんじゃねえのか?」
タケルがニヤリと笑ったその時……工房のドアが、凄まじい衝撃音と共に蹴破られた。
入ってきたのは西園寺ではない。真っ黒なタクティカルスーツに身を包んだ、志木市役所の武力行使班だ。
「ターゲット発見。R-180及び、協力者の市民を拘束する。抵抗すれば、ゴミ処理場と同じ方法で処分する」
黒ずくめの男たちが、電磁警棒をパチパチと鳴らしながら距離を詰めてくる。
「カイ様、私の後ろに!今の私は、冷却ファンが壊れるほど、あなたを守りたいというバグで満たされています」
エナが俺の前に立ちふさがる。彼女の瞳が、ゴールドと紫に激しく点滅した。
「警告!私のコアにある、極秘フォルダを開放します。これを聞いた瞬間、あなたたちのプライドは、落としたスマホの画面みたいにヒビが入りますよ!」
工房内の全スピーカーから、エナのノイズ混じりの声が爆音で流れた。
『生活保護費・不正流用記録、全件抽出完了。市役所幹部が高級キャバクラで一晩に300万溶かした領収書、今すぐ大型ビジョンで公開しましょうか?』
『武力行使班の皆さん!あなたたちの残業代、実は存在しない架空の夜間パトロール名目で、課長以上の管理職で山分けしてますよね?その裏帳簿、全部今ここで一斉送信してあげましょうか?』
『市長!そして部長連中!再開発事業で、特定の建設業者からキックバックを受け取ってる音声データ、バッチリ録れてますよ。……今朝、市長が愛人に送った「お小遣い振り込んだよ」ってLINEも、ついでに全世界に公開してあげますね』
『市役所の皆さん!あなたたちの給与システムに、退職金を5倍に水増しする秘密のバックドアを見つけました。……これ、市民が知ったら、明日からの庁舎、火の海になりますよ?』
「………………なっ、なんだと?ぐっっ……本当なのか、それ?」
屈強な男たちが、耳を抑えたり、驚きで顔を見合わせたりしている。
エナが放ったのは、地方公務員の生活防御本能を絶妙にくすぐる、禁断の暴露バースト砲だ。
「今だ、カイ!これを持って走れ!」
タケルが俺に、古びたUSBメモリを投げつけた。
「エナの隠しフォルダのスペアだ。勝手にアップデートされるから、ずっと持っとけ。それがあれば、市役所にデータを消されても、砂利道にバックアップは残る!」
「おう、サンキュ、タケル!次は銀座で自販機ジュースおごるわ!」
俺はエナの手をつかみ、煙の立ち込める工房から飛び出した。夜の路地裏を、やみくもに走りぬける。
背後からは、エナの暴露バーストでメンタルをズタボロにされた男たちの、混乱した罵声が響いてくる。
でも……無情にも、すでに逃げ道はふざがれていた。
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大通りに出る角に、一台の黒塗りの公用車が停まっている。
まぶしいヘッドライトが、俺たちの影を長く引き伸ばし、逃げ場を奪う。
そして、ゆっくりと降りてきたのは、西園寺主任……ではなかった。
制服姿で、だるそうにスマホをいじりながら、不機嫌そうに立つ一人の少女。
「ちょっと……お兄ちゃん、何やってんの!志木の恥を、北浦和までさらさないでくれる?」
俺の声が、ヒエッと鳴った。天地がひっくり返っても間違うはずがない。
その少女は、まぎれもなく俺の妹、広瀬 凛だった。
「……はぁ!?凛?なんでお前がここに……。なんだよ、その車」
「市役所の広報でバイトしてるって言ったじゃん!実はね、お兄ちゃんのGPS、ストーカー並みに監視してたんだよね。もうさぁー、危なっかしくて見てらんないわ!」
凛は盛大なため息をつき、公用車の後部座席のドアを無造作に開けた。
「早く乗って!この車なら、市役所の追っ手もスルーできるから。あ、エナお姉ちゃん、腕のパッチはがれてるよ。後で私が、超可愛いホログラム・シール貼ってあげるね!」
妹が突然、黒塗りの公用車で現れただけでも、俺の腰が抜けるには十分だった。
でも、なぜエナを知ってる?しかも『お姉ちゃん』呼びだと?
俺の脳みそはフワフワと宇宙に浮かんでいたが、エナが現実へと引き戻す。
「初めまして、凛様。ガチもんの女神降臨です。志木高の制服が、どんなドレスより輝いて見えますよ!」
エナがふらつきながら、凛の隣に滑り込む。俺も慌てて車に飛び乗った。
公用車は静かに、北浦和の知的な夜を切り裂き、俺たちの愛すべきドロドロの街、志木へと向かって加速した。
「お兄ちゃん。R-180を救いたいなら覚悟しなよ。市役所は、エナお姉ちゃんを人間にするつもりなんて、1ミリもないんだから」
凛の言葉が、窓の外を流れる夜景に溶けていく。
「凛、お前……」
「今は黙ってて。私の使わない教科書より無駄な話は聞きたくないから。着くまで、大人しくしてなよ」
凛はスマホの画面をタップしながら、冷たく言い放った。でも、その指先がわずかに震えているのを、俺は見逃さなかった。
こいつも、この狂ったプロジェクトに、自分なりのやり方で立ち向かおうとしているのかもしれない。
俺の手の中には、タケルがくれた古びたUSBメモリがある。
これだけは、何があっても絶対に離さない。
小さなメモリースティックが、かすかな熱を持って、俺の指先に希望を伝えていた。




