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Episode 6:錆びた指輪

市役所のシュレッダー室、のような診察室から、命からがら逃げ出したあの日から。俺とエナの間に流れる空気は、ガチで何かが変わってしまった。


ずっと各停だと思って乗っていた人生が、いきなり快速急行に種別変更されたような、置いてけぼりの疾走感だ。


二人で歩いている時の距離もおかしい。今までは、万が一のシステム暴走に備えた30センチのソーシャルディスタンスがあった。


それが今は、たったの5センチ。いや、時々肩がぶつかり、指先がかすめる。


もはや朝ラッシュの満員電車で、リーマンに背中を押されている時より密着している。


「あの……カイ様。先日の記憶直結の影響でしょうか。私の演算回路が、カイ様が隣にいないと、圏外みたいに、ずっと迷子になるんです。これって……致命的なバグですよね?」


「それを世間じゃ、バグじゃなくて、独占欲とか甘えとか言うんだよ。ま、俺も…お前のファンの音が聞こえないと、無人駅にマッパで放り出された気分になるけどな」


「マッパは通報案件ですよ、カイ様。でも、そのキモすぎる例えが、今の私には最高に心地いいです」


俺たちは、朝霞台駅のホログラム・カフェ『ルナ・テラス』にいた。


一華先輩に、市役所での『システムへのスパム攻撃』という名の勝利を報告するためだ。


「へえ……そう。行政の検閲を、あんたの黒歴史を盾にして弾き返したわけ。あんたって、バカなの?それとも、脳みそまで砂利でできてる、ガチもんのシキ・ラヴなの?」


カウンター越しに、一華先輩が呆れたように、でもどこか安心したようにガムを噛んでいる。


でも、その瞳の奥には、以前にはなかった深いあきらめと、少しの哀れみが、西日に焼かれて色あせた看板のように混ざっていた


「あのさぁ、カイ。あんた、坂戸の奥にある『北坂戸廃棄場』に行ったことある?」


「北坂戸?いや、あそこは山ばっかりで、志木市民にとってはパスポートが必要なレベルの秘境ですよ。何があるんですか、そんなところに」


一華先輩は、カウンターの下から、古びた、本物の金属製の指輪を取り出した。


2080年の最新ホログラムジュエリーなんかじゃない。さびついて、歪んで、おまけに表面には雑な削り跡が残っている、ただの鉄の輪っかだ。


「これ……昔ね、私が愛した彼が、機能停止する直前に私にくれたものなの。でもね、カイ。これを作ったのは、彼の意志じゃないのよ」


一華先輩の声が、換気扇のうめき声にかき消されそうなくらい、低く沈んだ。


「彼の嫌われプログラムが発動した時よ。彼は私を傷つけるために、わざと不細工で、指を傷つけるような鋭いバリが残った、このゴミを作ったの。『お前には、この出来損ないがお似合いだ』って、聞いたこともない残酷な声で笑いながらね」


エナの肩が、びくりと震える。


俺は思わず、カウンターの下でエナの手を握った。やっぱり冷たい。でも、その内側で、小さなモーターが震えているのが伝わってくる。


「先輩……なんで、そんな話を今」


「あんたたちが市役所のシステムを壊したせいで、エナの崩壊が前倒しで始まってるのが見えるからよ。あんたたちの熱が、プログラムを刺激しちゃったの」


一華先輩の指先が、さびた鉄の輪っかを強く握りしめる。


「いい?よく聞いて。記憶をシェアしたなんて、ただの幻想。彼女の中にある、あんたへの愛が大きくなるほど、管理サーバーは駆除すべきウイルスだと認識する。その先にあるのは、デコボコの砂利道どころじゃない……底なしの泥沼よ」


一華先輩は、歪んだ指輪を俺たちの目の前に突き出した。


「一度、見てきなさいよ。北坂戸の山に捨てられた、かつての愛の成れの果てを。それでもエナの手を離さないって言うなら、私はもう、何も言わない」


一華先輩の言葉は、冬の雨のように俺たちの胸に染み込んでいった。


カフェの騒音が、急にボリュームを下げたように感じる。


「ねえ、カイ様。行きましょう。私、知りたいんです。私の最期が、どんな色のサビにまみれているのか」


エナの瞳が、覚悟を決めたように、静かな青い光を宿していた。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


数日後、俺たちは一華先輩から渡されたGPS座標を頼りに、北坂戸へと向かった。


志木から急行に乗り、川越を越え、さらにその先へ。


聖域を飛び出し、未知のフロンティアへ踏み込む、片道切符の旅のような感覚だった。


ガタゴトと揺れる東上線の車内。川越を過ぎたあたりから、乗客の姿はまばらになる。


窓の外の景色は生活から山へと、急激にフェードアウトしていく。


その寂しさに比例するように、俺の隣に座るエナの余裕が、1%ずつ確実に削られていくのが分かった。


「……カイ様。怖い、です。空気が、どんどん薄くなっていくみたいで……」


エナが震える声でつぶやき、俺の腕にギュッとしがみついてきた。


俺たちは今、指一本分どころか、原子レベルで密着していた。


左腕には、エナの柔らかい胸の感触と、過負荷で熱を帯びた彼女のプロセッサーの振動がダイレクトに伝わってくる。


「エナ、大丈夫だ。俺がついてる。お前が迷子にならないよう、バンジージャンプ並みに、しっかりつかんでてやるから」


「……はい。でも、もし私のナビが壊れたら、ガチで山奥に置き去りですよね。カイ様、その時は私を背負って、志木まで歩いてくれますか?」


「当たり前だろ。お前の体重なんて、カッパ像より軽いんだから」


俺が自虐混じりにからかうと、エナは少しだけ笑い、俺の肩にさらに深く頭を預けてきた。


エナのサラサラした髪が俺の頬をくすぐり、回路が焦げたような、切なくて甘い香りが鼻を刺す。


シリアスな状況だってのに、俺の心拍数は上がる一方。駐輪場でマイチャリが撤去されて消えた時以来の勢いだ。



40分後。俺たちは北坂戸駅に降り立った。


駅前のロータリーには、骨の髄まで凍りつかせるような、乾いた冷たい空気が吹き荒れている。


風が一度だけ、俺たちの足を止めた。


帰れ、とつぶやいたまま、沈黙した気がしたからだ。


「……カイ様、めっちゃ手が震えます。私、マジでこのままフリーズしそうです」


エナが、俺の腕をつかんだまま動けなくなった。


俺たちは駅前の、昭和の遺産みたいな古い図書館の休憩室に逃げ込んだ。


誰もいない、カビた本の匂いがする静寂。


エナの震えを止めるには、もうこれしかない。


俺は彼女の細い肩を引き寄せ、力いっぱい抱きしめた。


「ひゃっ!?……カイ、様。これ、心拍数上昇による強制再起動プログラムですか?」


「黙ってろ。怖くない。俺がいる」


腕の中のエナは、驚くほど柔らかく、そして温かい。


ブルーのタートルネックの向こうから、彼女の熱と、静かな息づかいが触れてくる。


薄暗い資料室の隅、密閉された空間。


気づけば俺の脳内は、北坂戸の調査どころじゃない。健全な男子高校生としての暴走モードに突入していた。


『やべえ……。このまま、エナの唇にいっちまいそう……』


俺の理性が、古い街灯みたいにチカチカと点滅する。欲望のままに彼女を押し倒そうとした、その時。


「あの、カイ様。報告です。今、私の腹部センサーが、カイ様の元気すぎる生ゴボウを検知しました。これって北坂戸の特産品ですか?」


「……っ!!」


エナの無垢(むく)すぎる、でも破壊力抜群の指摘に、俺の賢者モードが音を立てて再起動した。


「ちっ、違う!これは……その、北坂戸の急な坂道を登るための、補助動力……的な何かだ!」


「補助動力、ですか?…てへっ、本当にバカですね、カイ様は。でも、その無駄に元気な動力のおかげで、少しだけ……演算エラーが消えた気がします」


エナは俺の胸に顔を埋めたまま、小さく笑った。


俺は赤くなった顔をごまかすように、彼女の頭をポンポンと叩く。


欲望が収束しつつある代わりに、絶対にこいつを壊させない、という泥臭い決意だけが残った。


俺たちは地図を頼りに、山間部へ続く古いバスに乗り込んだ。


舗装のはげた道を登るたび、車体は古い机みたいにガタガタと悲鳴を上げる。


たどり着いたのは、『北坂戸環境保全センター』という、役所特有の綺麗な名前がつけられた場所。


でも、その実態は――巨大な谷間に広がる、アンドロイドの墓場だった。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


そこには、かつて人間を真似た鉄クズたちが、地層のように積み重なっていた。


誰にも聞き届けられなかった祈り。


潤滑油という名の黒い涙。


風が吹くたび、むき出しの配線がコンクリートの壁を叩き、カラン、カランとうつろな鐘の音を立てる。


それは、耳の奥をドリルで掘るより耳障りで、魂を削るレクイエムだった。


「これが……私の未来。180日が終わった後の、私の住所なんですね」


エナの声が、冬の山風に千切れそうに震える。


彼女の指先が、一台の青年型アンドロイドの残骸に触れた。胸のパーツはこじ開けられ、コアは抜き取られ……


……足元には、一華先輩が持っていたのと同じ、歪んだ鉄の輪っかが転がっていた。


「カイ様……。怖い、です。私のメモリの中にある、あなたの笑顔が、このゴミと一緒に埋められてしまうのが……ガチで、怖くてたまらないんです……!」


エナが俺の胸に顔を埋め、絞り出すように泣いた。


俺は、震える彼女の体を力いっぱい抱きしめる。


もう、失恋リハビリなんて関係ない。一人の男として、この愛おしいポンコツを、世界の不条理から守りたい。


「エナ……俺を見ろ」


俺は彼女の両肩をつかみ、無理やり顔を上げさせた。瞳の青い光は、恐怖で乱れ、今にも消えそうだ。


「廃棄場なんて関係ねえ。俺が絶対に、お前をここに来させない。180日経って、もしお前が動かなくなっても……俺が背負って歩いて帰ってやる。俺の脳みそには、お前のバックアップが全部あるんだよ!」


エナの瞳から、ポロポロと大粒の涙があふれ出した。


「バカ……です、カイ様は。ガチで救いようのない大バカ。でも…そんなあなたが、私は、好きです……。本当に、本当に大好きなんです!!!」


その瞬間、エナの瞳が、鮮やかな黄金色に発光した。


愛という名のバグが、システムのプログラムを書き換えた、奇跡の輝き。


俺たちの熱が、重く冷たい墓場の空気の中で、一瞬だけ重なったんだ。



突然、背後から、聞き覚えのある野太い声がした。


「ほう…志木の砂利道を、北坂戸まで持ち込んできたバカがいるのか?」


振り向くと、そこにはサイボーグの義手を組んで立つ、マスターがいた。


「マッ、マスター!?なんでこんなところに……!」


「ああ、店なら一華に任せてきた。あいつにも、自分の傷と向き合う時間が必要だからな」


マスターが歩み寄り、サイボーグの義手で俺の肩を強く叩いた。


金属の冷たい質感。でも、その奥からは、カイロを直接押し当てられたような、人の体温以上の熱が伝わってきた。


マスターもまた、この鉄クズの山に、何か重すぎる過去を埋めてきたのだと、その手の重みが語っている。


「いいか、カイ。一華の指輪は、呪いなんかじゃない。あのアンドロイド青年は、一華を嫌いになんてなれなかった。だから彼女に未練を残させないために、全回路を焼き切ってまで絞り出した、『最後の一太刀ひとたち』だったんだよ」


マスターは、廃棄場の奥にそびえる巨大な電波塔を指差した。


「180日目の24時、あそこから全消去の信号が飛ぶ。それを防ぐ方法は、市役所のパッチじゃない。エナ。お前のコアを、プログラムでは記述できない純度100%のバグ、愛で満たすことだ。……まっ、代償なしでは進めない道だがな」


俺とエナは、顔を見合わせた。


一華先輩が、かつて敗れた道。


でも、今の俺たちなら……この世界の仕組みに歯向かって、その不条理を突き抜けられる気がした。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


帰り道、北坂戸駅へと向かうバスの中で、俺たちの距離はついにゼロになった。


車内の薄暗い照明の下、エナが俺の腕にそっと頭を乗せてくる。


さっきまでの墓場の冷気は、二人の体温に溶かされて、どこかへ消えていた。


窓の外を流れる夜の北坂戸は、志木よりずっと暗くて、静かだ。


「カイ様…私、決めました。180日目の24時、私があなたのことをゴミと呼んだら……全力で私を抱きしめて、人生最高の自虐ネタをぶちかましてください。私の回路が、笑いすぎてエラーを起こすくらいに」


エナが俺の腕を強く握りしめる。その声は震えていた。


でも、さっきまでの消える恐怖じゃない。


運命という名のクソゲーに、中指を立てた覚悟の震えだ。


「ああ。お前が俺を忘れた瞬間に、10年分の自虐と通知表の『2』を、全部丸ごとお前のコアに上書きしてやる。お前が『キモい~』って叫びながら再起動するまで、全力で愛してやるよ」


「ちょっ…愛して…って……。もー、それガチでキモいです!でも……最高!」


窓の外には、志木の街へと続く、夜の東上線の線路がどこまでも伸びていた。


並行して走る二本のレールが、今の俺たちみたいに見える。


交わることはないかもしれない。それでも同じ場所を目指して、どこまでも寄り添って走っていく。


180日というカウントダウンは、もう止まらない。


でも俺たちは、被験者とパートナーという味気ない肩書きを、北坂戸の山に捨ててきたんだ。


電車が志木駅のホームに滑り込み、プシュッという気の抜けた音と共にドアが開く。


改札を抜けた時。いつもの愛おしいカッパ像が、『おかえりっパ!』 とマヌケづらで迎えてくれた。


「ただいま。明日から忙しくなるぞ、エナ」


「はい、カイ様。私のバグで、サーバーをパンクさせる準備は万端です!」


空を見上げると、都会の光に埋もれそうな不器用な星たちが、それでも消えずに瞬いている。


俺たちの本当の戦いは、この砂利道から始まったんだ。

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