5th Broadcast Episode:電脳都市のノイズ熱(A)
僕たちは、各駅停車の窓にもたれて、外を眺めていた。
すぐ隣でノアは、流れていく線路脇の情報を、初めてのデータとして一つずつ拾っている。
その横顔は静かで、髪に留まった安いヘアピンが、車窓の光を小さく返していた。
池袋へ直行する富裕層を乗せて、上の専用軌道を音もなく滑り去るリニア急行。
その風圧に、僕たちの乗る百年前の規格から放置された旧式車両が、ガタガタと惨めに悲鳴をあげる。
たった一駅の移動だった。窓からの景色なんて大して変わらない。
色あせた自動広告。
古い配達ロボの充電スタンド。
線路沿いにへばりつく生活の匂い。
どこまで行っても、埼玉の続きとしか言えない街並みだ。
でも、駅の中は違った。電車が減速し、ホームに滑り込んだ。ドアが開く前から、向こう側の空気がせわしない。
「朝霞台です。お出口は左側です」
無機質なアナウンスと同時に、ドアが開いた。
降りると、すぐに人の流れに押された。隣の路線へ乗り換える客たちが、朝でもないのに、全員どこかへ遅刻している速度で歩いている。
ホログラム案内板が最短ルートを示しても、誰もそれをまともに見ない。自分の足と焦りを信じて、人の波をまっすぐ切っていく。
「ダン様、見てください。あの群れ、全員が一秒を削って走ってます。焦りに足を生やすと、ああなるんですね」
ノアはホームの端で立ち止まり、人間たちの流れを観察中だ。市外に出たせいで、その機体はすでに余計な電力を食っている。
「あのさ、ノア。ぼーっとしてると、群れにひかれてスクラップにされるよ。朝霞台の乗り換えは、命がけの格闘技なんだ」
「……警告を感知。では、リハビリ・ガイドラインに基づき、安全な移動モードに移行します」
ノアは僕の背後に回り込み、腰に両腕を回してきた。背中に押し当てられた感触は細くて軽いのに、ずれる気配がない。
「……っ、ちょっと! 何してんの!」
「バックパック・ディフェンスです。密着していれば、人混みで離れ離れになりません。それに、私の冷却システムは、ダン様の焦りにも効きます」
「待って、そこじゃない!みんな見てるって!」
「周囲が気にしているのは、ダン様の残念な歩き方ですよ。さあ、進んでください。私のバッテリーは、この瞬間も税金と一緒に溶けてるんですから」
ぴったりくっついたノアの冷たさが、乗り換え客の波の中で、こっちの集中をめちゃくちゃにしてくる。
直後、近くで悲鳴が上がった。
中央の階段の手前、激しい人の波に押されて、小柄なお婆ちゃんが派手に転倒した。
支えていた杖が転がる。周囲の人間は一斉に目を向ける。でも自分の一秒を守るため、避けるようにその脇を走り去っていく。
「危ない!」
反射的に僕の体が動いた。でも、進もうとした右腕を、骨が軋むほどの力でガシッとつかまれる。
「ダン様、無駄です。止まってください」
ノアの瞳から、またハイライトの明るさが消えている。
「物理的距離と群衆の移動速度から、絶対に間に合いません。救護の成功確率は0.02%以下。突入は自滅、無意味で非効率です」
いつもの毒舌口調じゃない。国家の統治システムを思わせる事務的な音声が、薄い唇から淡々と出力される。
そこには感情の気配も、戸惑いもなかった。
「ふざけんなぁぁぁっ!!!」
僕は痛む腕を死に物狂いで振り切った。
次の瞬間、脳の深いところが、ドクンと跳ねて熱くなった。
――世界が、止まる。
視界のすべてが、ねっとりとした超スローモーションへと切り替わった。
押し寄せる群衆の足の角度。お婆ちゃんの上に倒れ込んでくる他人の荷物。そのすべての軌道が、クッキリと浮かび上がる。
幼い頃から嫌だったこの過集中。でも今は道しるべだ。
「おおおおお!」
人の波のわずかな隙間に、あり得ない角度で体を滑り込ませる。そして、倒れかけてきた男の肩を紙一重でかわす。
――そこで、時間が通常モードへと戻る。
僕は踏みつぶされそうだったお婆ちゃんを、間一髪で抱き起こしていた。
「……っ!?」
背後で、ノアの体がビクッと固まった気配がした。
周りの群れを強引に割って、端のベンチまで運ぶ。お婆ちゃんは、震える手で僕の服をつかんで、何度も頭を下げた。
息を切らしながら、僕はノアの元へ戻った。そして気づけば、呆然と突っ立っていたその肩を、強くつかんでいた。
「効率、効率って、うるさいんだよ! 計算通りいくかどうかなんて、やってみなきゃ分かんないじゃんか!」
ノアは反論しなかった。停止したまま、ただこっちに視線を向けている。
「どんだけ無駄に見えても、効率より大事なものだってあるんだよ!」
怒鳴り散らした僕の内側で、何かが激しく、トクントクンと脈打っていた。
ノアの光学センサーの青色が、変則的な周期で左右に振れている。
「……理解、できません」
ぽつりとつぶやいた。その首筋の端子が、エラーを起こしたように赤く点滅しながら、わずかに蒸気を吐いている。
自分のコアのあたりに細い手を当て、今起きた現実を飲み込もうとして、ひたすら僕を見つめていた。
◇ ◇ ◇
駅構内を抜けた先、ターミナル区画の端に、昔ながらの小さなラーメン屋があった。
外壁の塗装は、ところどころ剥げている。看板のホログラムは、二フレームに一回くらい、わずかにズレる。
でも、引き戸を開けた途端に流れてくる、湯気と醤油の匂いは本物だった。
「ダン様。……ここ、ですか?」
ノアが、のれんの前で立ち止まった。
「そうだよ。見た目でナメないで。ここ、ガチでうまいから」
「外装評価は、廃棄寸前です。ですが、内部から高温の蒸気と、高濃度の炭水化物臭を感知しました。期待値は上方修正します」
「審査員かよ!」
店は昼を外した時間でも、カウンター席はほぼ埋まっていた。くたびれた営業スーツの男たちが、誰とも目を合わせず、急いで麺を啜っている。
この街らしい。みんな、食事まで乗り換えの流れに押し込まれた顔だ。
僕たちは、端の二席が空いていたカウンターに座った。
ノアは腰を下ろしてからも、店内の情報を端から順に拾っていた。厨房。湯切り。湯気。客の咀嚼速度。カウンターの調味料。
その青い瞳の奥で、細い光がせわしなく点滅している。駅で発生した接続端子の赤いエラーは、もう痕跡ごと消えていた。
「ねえ、ダン様。ここは本当に飲食店ですか? それとも精密機械を破壊するサウナですか?」
店の熱気に押されても、ノアの声はまったく乱れなかった。その落差が、かえって僕をざわつかせる。
「温度も湿度も非常に高いですが、なぜか不快ではありません」
「そう、だったらよかったよ。食う前から嫌われたら、ちょっとへこむから」
「いえ、むしろ落ち着かないです」
「どっちなの!」
ノアは真剣な表情で、湯気の向こうを見た。
「不快ではないのですが、内部処理が乱れています。……原因を特定できません」
その時、店員が無造作にどんぶりを置いた。白い湯気が、目の前で一気に立ちのぼる。
ノアの肩が、ぴくりと固まった。
「醤油ラーメンです。熱いのでお気をつけください」
「来たぞ、ノア。ここの醤油、派手さはないけど、スープがちゃんとうまいんだよ」
僕は卓上の箸とレンゲを二人分取って、どんぶりの横にそっと添えた。
でも、ノアはすぐには手を出さなかった。スープの表面から動かない。警戒に近かった。
「……かなり高温です。表面温度、推定87℃。接触は危険です」
「だから普通はさ、いきなり突っ込んだりしないんだよ」
そう言った直後、ノアの指が、どんぶりの縁に伸びた。近づいていく軌道が、一瞬にしてミリ単位のスロー映像に変わる。
僕の脳のギアが、勝手にトップへと跳ね上がった。また、このお節介な過集中か。
「っ、ちょ、待って!」
反射的に、その手首をつかんだ。
ノアがこっちを向いた。大きな瞳を丸く見開いている。
「熱いから、まだ触っちゃだめだ。やけどしたらどうすんの」
「ダン様。……命令ですか?」
「違うよ、そんなんじゃないって。普通に危ないし、ノアが心配だから」
そう言った後で、自分の返しが変に素直すぎた気がして、僕は横に目を逸らした。
ノアは僕につかまれたまま、なぜかすぐには動かない。
「心配、ですか。……心配」
確かめる調子で、何度も小さく繰り返した。
「ダン様、お伝えしておきます。私は、高熱耐性の特殊素材で構成されています」
「そんなの分かってるよ。だからって、無敵なわけないでしょ?」
「……はい」
「だったら、ちょっと待ってて。きちんと冷ましてから食おう」
ノアは、それ以上は何も言わずに手を引いた。その仕草は、拍子抜けするほど素直で大人しい。
僕はレンゲでスープをすくって、ふうっと息を吹きかけた。
「ほら、こうやるんだよ」
「なるほど。瞬間冷却処理の簡易的手動版ですね?」
「夢のない言い方しないで!」
冷ました一口分を、ノアの前に差し出した。僕とレンゲを交互に確かめてから、えらく慎重に口をつける。
その瞬間、ぴくっと小さく跳ねた。熱さに驚いたにしては、反応が遅すぎる。
「あのさ、ノア。……大丈夫?」
「内部ログに異常を検出。舌部感覚センサーが、高温を攻撃ではなく、快刺激として誤認しています」
「いや、誤認じゃないから。ラーメンって、だいたいそういうもんだよ」
ノアはもう一度、レンゲの中を見た。湯気が頬に触れても逃げない。
「……不思議です、ダン様。熱いのに、拒否したくありません。冷却対象ではなく、もっと摂取したいと判断しています」
「それが、うまいってことだよ。たぶんね」
「うまい……」
ノアは、その単語を口の中で転がした。意味ではなく、感覚ごと覚えようとしている反応だ。
「ダン様。これ、めっちゃうまいです。……あっ、緊急検知。重大な問題が発生しました」
「重大問題? 待って、いきなり爆発とかするなよ!」
「私、今、ラーメンより先に、ダン様を見てしまいました」
「は?」
「私が、うまいと言ったら、ダン様の口元が緩みました。その映像を、味覚ログより優先保存していました」
僕は、思わず黙った。ノアは深刻そうに眉をひそめている。
まただ。
ヘアピンの時と同じ表情。
「……いえ、訂正します。重大な問題、という分類は不適切でした」
「じゃあ、何が起きたんだよ?」
「分かりません。ですが、効率が落ちたのは間違いないです」
そう言いながらも、ラーメンから目を離さない。いや、正確には、ラーメンと僕の間を行ったり来たりしている。
ノアは少し黙ってから、またレンゲを持った。今度は自分で、ちゃんと息を吹きかけていた。その仕草は慎重で、怖いぐらい人間くさい。
額のあたりに、うっすらと水の膜が浮いている。ラーメンの湯気が、20℃そこそこの機体表面で結露したのかもしれない。
ノアは、それを指先でぬぐって、しばらく測定していた。
「……水分を検出しました。排熱ログには該当なし。外気との温度差による結露、もしくは内部熱の局所滞留と推定します」
「つまり、熱々のラーメンにやられてるってこと?」
「ダン様、その大雑把なまとめ方、思考の放棄にもほどがあります。まあ、嫌いではありませんが」
そう言ってから、ノアは額にもう一度触れた。それから、髪に留まったヘアピンにも。
「ダン様……私、やっぱり変です。バグ確かも知れません」
「何が?」
「冷たいものの方が合理的なのに、熱いものを欲しがっています。外した方が効率的なのに、このヘアピンは外したくありません」
ノアは湯気のあっち側で、首を傾げた。
「非効率な処理が増えています。……データベースのどこを探しても、この現象の名前が見つかりません」
光学レンズに反射するかすかな光が、左のまつ毛の、白銀の先で揺れている。
僕は箸を止めたまま、しばらく何も言えないでいた。
すると、ノアは突然こっちに向き直って、昨日までとは違う形のスマイルを浮かべた。
「私、ラーメン、大好きです」
それは、効率最優先のAIが初めてついた、尊い嘘の始まりだった。




