4th Broadcast Episode:百円のヘアピン(B)
サエたちが去ったあとのファッションフロア。
僕は震える膝を押さえながら、その場にしゃがみ込んでいた。
人生で初めて、女の子にあんなに強く言い返した。呼吸が、まだうまく整わない。
「ダン様。今のセリフ、録音しました。相当ダサかったですが、消去はしません。わずかながら、保存価値があります」
「うるさいって……。こっちはまだ足が笑ってるし」
「ですが、今のダン様は、各停ではありませんでした。胸を張ってください」
ノアはそう言って、隣にしゃがみ込んだ。
静かな駆動音のリズムと、相変わらず20℃の冷たさ。触れているうちに、ゆっくりと息が落ち着いていった。
「……あのさ、ノア。その服、めっちゃ似合ってる」
「はい。知っています」
「そこは一回、照れて!」
「確認です。この場合、『ありがとうございます』を返すのが、人間社会の一般的処理で合っていますか?」
「処理って言うな!……でも、合ってるよ」
僕は立ち上がって、ふとレジ横のワゴンに目をやった。安っぽいアクセサリーが、山積みにされている。
プラスチックの指輪。光るゴム。子どもっぽいブレスレット。その端に、百円のヘアピンが何本かぶら下がっている。
どれも軽い。すぐ壊れそうで、この街の駅前らしい品揃えだった。
でも、今の僕の財布事情で、女の子に買ってやれるものなんて、それくらいしかなかった。
「ノア。……ちょっと待ってて」
僕はワゴンの前で、必要以上に真剣な顔つきで、一本のヘアピンを手に取った。
黒地に、小さな銀色の飾りがついた安物。でも変にキラキラしてなくて、ノアの黒髪には合いそうだ。
レジで会計して戻るまでの数十秒が、異様に長い。たった百円で、変に息が詰まる。
「……はい、これ」
僕は戻るなり、ヘアピンをノアに差し出した。
「ダン様。これは何ですか?」
「何って……ヘアピンだけど」
「物品名は識別済みです。質問は、なぜ私に提供するのかです」
真顔で聞き返されて、僕は一瞬、全部なかったことにしたくなった。
「いや……その」
だめだ。こういう時、なんて言えばいいのか分からない。
「さっき、その……助かったから」
「助力に対する報酬ですか? 追加ポイントも、金銭対価も発生していませんが」
「じゃなくてさ。ノアに、その……似合うと思ったんだよ。人間って、そういうことするんだってば」
ノアは、しばらくヘアピンと僕を見比べていた。
「理解不能です。非合理で、面倒な習慣ですね」
そう言いつつ、小さな銀色に向ける間が、ちょっと長い。
拒絶したいのか、受け取りたいのか、本人の中でもまだ決まっていないらしい。
「ですが……興味があります」
ようやく伸びてきた指先は、相変わらず冷たい。なのに受け取り方は、えらく慎重だった。
ノアは、それを自分の髪にあてた。
でも、位置がずれている。留め方も変だ。最新型アンドロイドのくせに、なぜか不器用なことに腹が立つ。
「もう……、何やってんの。貸して、動かないで」
「ダン様、命令ですか? お願いなら、優先度は下がります」
「じゃあ命令。動くな」
僕は髪を持ち上げて、ピンを差し込んだ。さらりと流れる、黒の感触。冷たいのに、驚くほどなめらかだった。
留め終わると、ノアは近くの鏡で自分の容姿を確かめた。黒髪の横に、小さな銀色が光っている。百円の安物だ。
それでも僕には、ノアが贈り物を喜ぶ女の子にしか見えない。左の目尻の白銀が、同時にきらめいた気がした。
その初々しい姿を前にして、呼吸の置き場が微妙にずれる。
「……ど、どう? ダサかったら、外していいけど」
ノアは鏡の前で止まったまま、しばらく答えなかった。
「あのさ……。そんなに固まるほど、変ってこと?」
「……ノイズを確認しています」
「は?」
「処理に、微細な遅れが出ました」
そう言って、こめかみに指を当てた。でも故障ではなく、戸惑いに近かった。
「このヘアピンを装着したことによって、外見の総合評価が0.4%向上した可能性があります」
「誤差かよ! 四捨五入で変化なし? 嘘でも、可愛くなったって言って!」
「いえ、問題の核心は別にあります」
「じゃあ何なの? 頭痛がするほど嫌だってこと?」
「いえ、なぜでしょうか。もう、外したくありません」
そして、ノアは黙った。言った本人が、今の発言の意味を測りかねている。
「……変なの」
そうつぶやいたのは、たぶんノアの方だった。
でも次の瞬間には、いつもの平坦な声に戻っていた。
「まあ、いいでしょう。ダン様の低予算センスにしては、ギリギリ許容範囲です」
「……何だよそれ。 素直に礼くらい言えないのかよ!」
「ありがとうございます。これで満足ですか?」
「棒読みすぎ!」
「このヘアピンを接続解除するプロセスが、私のメモリから消去されました」
「は?」
「いえ、何でもありません」
今度は、僕が黙る番だった。
◇ ◇ ◇
モールを出ると、夕方の駅前ターミナルは、昼間より静かになっていた。
無人タクシーのライトが、路面をぬるくなぞっていく中、僕たちは並んで歩いた。
ノアは、いつもの三十センチを正確に守っている。
「ねえ、ダン様。このヘアピンは、志木市の支給品ではありませんよね」
「僕がレジで買ったの見てたでしょ! 行政が百円のヘアピン配るかよ」
「では、国家予算ではなく、ダン様のポケットマネーによる購入。つまり、私の私物ですか?」
「まあ……そうなっちゃうのかな」
「私物。……AIに、私物。法的に私の所有権が認められた、初めての物質……」
ノアが急に立ち止まり、またこめかみを押さえてブツブツとつぶやき始めた。
「ちょっと、急に重い解釈しないで! たかが百円だよ?」
「条例第十二条との整合性を確認中。所有権の所在、ダン様から私への譲渡と定義……」
僕の突っ込みなど一切耳に入っていない。光学センサーの奥で、無数のコードが高速で流れていくのが見えた。
夕暮れに、髪に留めたピンが小さく光っている。横顔はいつも通り整っていても、発言が少しずつ狂っていく。
「ねえ、ダン様。私、ラーメン、食べてみたいです」
「はあ!? なんでそこ!」
「非合理ですが、冷たいものより熱いものを試したいんです。隣の朝霞台に、ガチでうまいラーメン屋がありますよね」
言っていることのつなぎ目が、どこかズレている。
「……あるけど。ノア、ラーメン食えるの?」
僕の質問は、ラーメンの湯気より軽く流された。
「市外へ出れば、私のバッテリーは30%消費します。機体寿命の消耗も加速しますが……まあ、許容範囲です」
「は!? 寿命削れる? そんなに軽く言う話か?」
あまりにも普通の口調で言うから、話の中身がまるで笑えない。
「隣の街で止まる程度なら、致命傷には至りません」
「ラーメン一杯に命を張るな!」
「……不満ですか?」
そう言って、僕の袖をつかんだ。指先の力がいつもより強い。澄ました表情で言われて、僕は返す言葉がなかった。
返事の代わりに、湿った風が頬をなでる。夕暮れの街は、中途半端なわりに、こういう時は変に優しい。
その時。
夕闇に、またあの白い閃光が走った。巨大な少女のホログラムが、ノイズ交じりで立ち上がる。
『――警告。被験者No.405。機体寿命を縮める市外移動は、特区規則に――』
けれど、警告が響き渡る直前。
少女の微笑みはグシャリと歪んで、音声ごと「ツ、プツン……」と不自然に途切れた。内側からシャットダウンされたかのように、街が静まり返る。
「何、今の……。まさか……ノア?」
唖然とする僕の視線を受け流し、ノアは耳元に埋め込まれた通信インジケーターを静かにタップした。
「……もう、必要ありません」
ぽつりとつぶやいた瞳の向こう側で、青い光が不規則に点滅している。なぜ遮断したのか、ノア自身も分かってなさそうな、張り詰めた沈黙が流れた。
その黒髪で、小さな銀色が揺れている。
冷たい。
鉄クズ。
今、百円のヘアピン一本で、わずかに壊れかけて見える。
20℃の指先が、僕の袖をきゅっとつかむ。
この時の僕は、その力がいつもより強い本当の理由を、まだ知らなかった。
◇ ◇ ◇
数日後。学校帰りの駅前ターミナル、カッパ広場。夕焼けのなかに、僕は見慣れた黒髪を見つけた。
「ノア!」
人混みをかき分けて大声で呼んでも、こっちに振り向きもしない。それどころか、別の高校の男子が駆け寄ると、嬉しそうにその腕に抱きついた。
「……うそ、だ」
二人は恋人そのものだった。リニア急行専用ホームへと消えていく姿を、僕はただ呆然と見送った。
川沿いの帰り道、砂利を踏む足元は、ひどくおぼつかなかった。胸の深いところで、ドロドロしたものが渦巻いている。
裏切り。
絶望。
僕をあざ笑うサエの顔が、突然フラッシュバックする。
いや、ノアは最初から僕の物じゃない。そんな資格、どこにもないはずなのに、視界がにじむ。
ボロアパートのドアを開けると、ノアがいつものスマイルで立っていた。
「おかえりなさい、ダン様。今日は特売品じゃなくて、ちょっといいお肉ですよ」
エプロン姿で、楽しそうにフライパンを振っている。
「……ノア、さっきどこにいた?」
「どこって、ずっと家でダン様の夕飯を作っていましたが」
きょとんとしている。一ミリの動揺もない。
「嘘をつくな!」
気づけば、怒鳴っていた。
「駅前で見たんだよ! 他の男の腕に抱きついて、急行に乗っただろ! 結局、裏で――」
そう言いかけて、喉が完全に凍りついた。
揺れるノアの黒髪。その左側で、小さな銀色のヘアピンがパチリと光っている。
そして、その奥。僕を真っすぐに見つめる瞳の端で、白銀のまつ毛が確かにきらめいていた。
駅前にいたノアには、あのヘアピンの輝きも、あの白銀の尖りも、なかった。
「ねえ、ダン様……。どうしたんですか、公開処刑を待つ罪人みたいな顔して」
ノアは何も知らない。本当に、ずっとこの部屋にいたんだ。
じゃあ、さっきのは一体誰なんだ。
「……いや、なんでもないんだ。ほんとごめん」
それ以上、何も言えなかった。ノアは、今この瞬間に僕の目の前にいる。それで十分なはずだ。
それでも食卓を挟む二人の間には、昨日までとは違う、見えない線が引かれた気がした。
ノアは気にする様子もなく、どこ吹く風でスープをすすっている。
僕の脳裏からは、あの駅前の光景がこびりついて離れない。
ノアと同じ顔をして、同じ声で、別の男に微笑みかけていた、あの化け物は何だ。
わけの分からない不安が、六畳一間の部屋の隅で、静かに拍動していた。




