3rd Broadcast Episode:百円のヘアピン(A)
まぶたを開けると、目の前に青い文字が不気味に漂っていた。
『充電中』
その光に照らされ、僕を見下ろす少女の輪郭が、暗闇に浮かび上がってくる。
静かに点滅していたホログラムが、電子音を立てて書き換わった。
──ピピッ。
『起動準備完了(ACTIVE)』
チチッ、と、フォーカスが合う音がして、その瞳が開いた。
寝起きの余韻なんて一切ない。そのまま、重力を無視した速度で、スッと垂直に立ち上がる。
「うっ……!」
その異常なスピードに、僕の脳が反応した。視界が一気に引き延ばされ、周囲がスローモーションに変わる。
寝起きの過集中だ。これが一番ツラい。片頭痛で頭の中がキンキンと鳴る。
でも、その少女は人間の苦痛には興味なし。障害物の僕を横目に、背中で一言、冷たく言い放った。
「業務再開」
最短距離でキッチンへと向かう。数秒後には、料理を始めていた。
昨夜スマホに届いた文字列が、脳裏に浮かぶ。
『キモい。マジでこの世から消えて』
僕は強く目を閉じて、脳のギアを強引に現実へと押し下げた。ようやく呼吸が整う。
スマホをポケットにねじ込み、朝食の匂いに釣られてキッチンへ這いつくばっていった。
そこには、何かが狂った朝の光景が、すでにできあがっている。
「おはようございます、ダン様。あれ?……その格好、私の脚に吸い付く新種のゴキブリですか?」
「誰がゴキブリだ! ……おはよう」
キッチンに立っていたノアは、勝手に持ち出したオーバーサイズのTシャツを、一枚着ていた。
問題は、その下。Tシャツの裾がぎりぎりを守っていて、どこを向けばいいのか分からない。
「……あのさ、ノア。なに、その格好。目のやり場に困るじゃん」
「放熱ですよ、ダン様。充電で熱がこもりまして。それと、この服はダン様の検索履歴を参照しました。朝に女子に着てほしい服装の上位です」
「勝手に参照するな! ――じゃなくて!」
僕はスマホを取り出し、あの画面を突きつけた。
「これ、ノアだよね? 昨日の夜、スリープ中に何やらかしてんの」
ノアはトーストを皿に盛りながら、眉一つ動かさずに画面を一瞥した。
「はい、私ですが、何か? 自動セキュリティ機能です」
「は? セキュリティ?」
「ダン様が元カノのマウントメッセージを見て、朝までメソメソ泣くのを防ぐため、より強いショックで上書きしました。感謝してください」
「どんな鬼畜セキュリティだよ! 逆に削られてるから!」
朝一から心臓に悪い毒舌と、白い生脚。
「……とにかく、スマホのハッキング、なしね」
「まあ、善処しましょう。では、朝食を作りますので」
ノアはフライパンを持ったまま、調理効率を優先する姿勢で、前かがみになった。
その動作に合わせて、オーバーサイズのTシャツが、だらしなく重力で垂れ下がる。胸元に引かれた鎖骨の線が、反則レベルで綺麗だ。
「ダン様? 視線固定3.2秒経過。たかが一枚の布に、なぜ脳の処理速度を奪われるのですか? 人間のハードウェアは、実に非効率です」
「い、いやっ……奪われてないから」
どう強がっても、無駄な抵抗だった。視線のログを、リアルタイムでスキャンされている。
「……降参。もう何でもいいから、朝ごはん、くれない?」
「はい。失恋脳に流し込む、赤い泥水スープです。毒は抜いてあります」
並べられたのは、不気味に赤く発光するスープ。機械で裁断したような、正確な十字に切られたトースト。
そして、色分けされた謎のペーストが、寸分の狂いもなく整列している。料理というより、補給用有機物だ。
僕はおそるおそる、その赤い液体を一口すすった。
「……っ!」
味は、意外にも悪くない。いや、悔しいくらい、ちゃんとうまい。
今の僕に必要なものを、計算して流し込まれている感じがする。栄養不足だった体に、その味が静かに染みていく。
「あのさ、ノア。これ、普通にうまいんだけど」
「当然です。私は鉄クズですが、朝食くらい作れます。スクラップ場に持ち込むのは、せめて夕食後にしてください」
「……そんなこと言わないでよ。せっかく、うまいのに」
いつもの軽い突っ込みが間に合わず、思わず本音が口からこぼれ落ちた。
ノアは返事もせず、向かいからじっと僕の様子を凝視している。回復の経過を測っている顔だ。
距離は、わずか三十センチ。静かな駆動音が、すぐそばにある。
気づけば、僕はまたノアのリズムに合わせて、手首の脈をトントン叩いていた。
無意識なのが怖い。でも、理由は分からないが、頭のチカチカが落ち着く。
「本日はプログラム・ステップ2。失恋の特効薬は新規の異性とのデート。駅直結のターミナル・モールへ行きますよ」
朝から絶望の予感しかしない。しかもこの子は、僕にとって残酷な生き地獄と分かった上で、平然と言い放っている。
「軍資金は、ダン様の市民基本口座ポイントから引き落としておきました」
「勝手にカッパポイントを使うな!あれは週末に掃除ボランティアして、こつこつ貯めたやつだぞ!」
「安心してください。今のダン様に必要なのはポイントじゃなく、隣の美少女です。さっさと着替えてください。もたつくなら、私が脱衣補助に入ります」
「補助するな!一人で脱げるから!」
ノアの猛毒を浴びながら、洗面所へ逃げ込んだ。鏡に映った僕は、自分でも引くほど頬が赤い。
工事現場のバイト焼けで、パサついた泥っぽい茶色の短髪。細くて、締まらない一重まぶた。奥の黒目は、なぜか異様に真っ黒。
そこだけ浮いていて、自分の物じゃない感じだ。おまけに左の眉の端っこには、昔作った十ミリの縫い傷が白く堂々と居座っている。
鏡の中にいるのは、どこをどう切り取っても、各停男子のツラだった。
僕は、ノアに引きずられるようにして部屋を出た。
◇ ◇ ◇
日曜の駅前ターミナルは、相変わらず中途半端に賑わっていた。無人タクシーが静かに流れていく。
ターミナル・モールの巨大壁面では、池袋の人気アイドルがホログラムで踊っていた。よく見ると、動きが少しカクついている。
そういう最後の詰めの甘さが、何ともこの街らしい。
「あのさ、僕、やっぱり人混みはやめとくわ」
怖気づいて振り向くと、真後ろを歩いていたノアが冷えた視線を向けている。
「何か問題ですか? 恋愛スコアがゼロだから、汚染警戒アラートが鳴り響いて、人が逃げていく絵を想像しましたね」
「うっ……、全部見えてるの? そうだよ、また駅のド真ん中で公開処刑は勘弁してって」
「ダン様、ご安心ください」
ノアは無表情のまま、白く滑らかな人差し指をツンと立てた。もう片方の手を腰に乗せて、勝ち誇ったスマイルを浮かべる。
「あの嫌がらせシステムなら、すでに丸ごと削除しました。あなたの心は、私が壊します。他人の同級生に破壊させるほど、お人好しではありません」
「……あ、そう。それはどうも……って、理由が怖すぎだから!」
ノアは「ふふーん」と鼻を鳴らして、指をパッチンした。
パッと鮮やかに弾けたビビッドオレンジの光が、モールの断面図と館内マップになって宙に広がる。
「ダン様、見てください。四階に男子が勘違いしやすい女子の服があります。今の制服より、心拍数を二割ほど上げられる見込みです」
「計算で服を選ぶな!」
しかも、その計算対象が僕だというのが一番腹立たしい。
「でも、ダン様の場合は……もっと分かりやすく破壊力を出した方がチョロいかもしれませんね、バグ確だし」
「人をチョロい前提で攻略するな!」
店内に入ると、自動接客ロボが寄ってきた。でも、ノアが一瞥すると、ギギッと異音を立てて回れ右。そのまま去っていった。
「ノア。今、何したの?」
「縄張り争いです。このエリアの接客権は今、私のものです。さあダン様、私に可愛い服を選んで、未練を処分してください」
ノアが選んだのは、透け感のある白いフリルブラウスに、こっちが不安になるほど丈の短いミニスカートだ。
「これを試着します。ダン様、付き添ってください」
「はぁ? なんで僕? 試着室の入口で待ってるよ」
「拒否します。アンドロイドは背中の微調整が自分ではできません。パートナーを助けるのは市民の義務です」
ノアは僕の腕を強引に掴んだ。さらには試着室前の警備ロボを、『志木市公式パートナー』というホログラム証明書で黙らせる。
結局、狭い個室へ引きずり込まれた。
パタン、と鍵が閉まる。
一畳ほどの密室だ。
そこには、僕と、精密すぎる美少女アンドロイド。鏡の中では、二人の距離が消えている。
「ちょ、待って……近っ……」
「動かないでください。センサーのキャリブレーションに影響します。さあ、ダン様。 脱がせてください」
「はああぁぁぁ!?」
「ブラウスの背中のファスナーです。私の腕の可動域では届きません。早くしてください。このままだと、非常アラートを発動します」
ノアは僕に背を向けて、漆黒の髪をかき上げた。降りたての雪のようなうなじが、いきなり姿を現す。
僕の手が、震えながらファスナーに触れた。途端に、背中越しに体温のなさが伝わってきて、変な感じがする。
「……冷たっ」
「はい。外部皮膚は現在20.1℃。触れるたびエラーログが増えています。……手が震えてますよ、ダン様。そんなに私の中身が気になりますか?」
ファスナーをゆっくりと下ろすと、白い肌が露わになった。そこには、人間と見間違うほど滑らかな曲線がある。
その中心に、ひっそりと刻まれた製造番号の刻印。
[lll||l||lll||l||l] G20800401_001-JP
鉄クズであることを突きつける数字が、目に焼きついた。
「……っ、できたぞ」
「ありがとうございます。では、次は正面のボタンを……」
「それは自分でやって!!」
僕は、真っ赤になって顔を背けた。
狭い個室で、服が擦れる音が響く。かすかな不凍液の香りと、機械が動く気配が、すぐそこにある。
アンドロイドだから、羞恥心なんてない。なのに僕の心臓は、今にも屋上から飛び降りそうなほど跳ねていた。
「お待たせしました。どうですか……ダン様。似合いますか? この各駅停車の王国に、私のような美の奇跡が歩いていても、許されますか?」
振り返ったノアは、選んだ服を完璧に着こなしていた。
ゴクリ、と息を呑む。綺麗という言葉では、まったく足りない。悔しいくらい、見入ってしまう。
「……似合ってるよ。……ガチで」
「感想、それで終わりですか? その語彙力のなさが、ダン様の限界ですね。でも、心拍数150突破。……合格です」
ノアは、わずかに目を細めた。
その直後。試着室のカーテン越しに、覚えのある、あの高圧的で甘い響きが聞こえてきた。
「ねえ、雨宮くん。このワンピ、地味じゃない? もっとキラキラしたのないかなー」
頭が、一瞬で真っ白になった。
元カノ、サエだ。カーテン一枚を隔てた向こう側。昨日まで僕が、可愛いと信じて疑わなかった声がする。
「ちょっと、この店、なんか微妙に志木臭いかも。もっと池袋寄りのやつ、置いてないわけ?」
隣にいる男が、鼻につく笑いを漏らす。姿は見えなくても、大宮のインテリぶった、嫌な圧が伝わってくる。
「ハハ、そうだね、サエ。志木なんて各駅停車が寝過ごして着く場所なんだから、期待しちゃダメだよ」
心臓が激しく鳴る。逃げ出したい。でも、ここは試着室の密室だ。
隣のノアは、表情を変えずに僕を見ている。瞳の青い光が、さっきより落ち着かない。
「ねえ、ダン様。外にいるのは、あなたのメモリを汚染している旧型バグですね。至急、デバッグが必要です」
「ちょっ、ノア。何する気だ……」
止める間もなかった。ノアは僕の腕をつかむと、勢いよくカーテンを引き開けた。
「……あれ? ダンじゃん。何してんの、こんなとこで」
サエが、驚いてこっちを向いた。
その隣には、スマートグラスの男が立っている。セットされたネイビーの髪、糸のような目。ガラス越しに、じっと見下ろしてくる。
サエの視線が、僕に絡みつくノアへ移った。
「なに、誰? てか、フラれたショックで、レンタル彼女とか頼んじゃった感じ?」
そう言って、くすりと笑った。その口元が、僕の自尊心を踏み潰す。
「サ、サエ……これは、その……」
「ああ、歩き方は、まだ各停のままだね。安心した。ずっとその辺で、カッパと遊んでなよ」
さらに追い打ちをかけてきた。
ハニーゴールドの髪をかき上げ、蛍光ピンクで塗られた唇を、わざとらしく歪める。
小悪魔っぽい眼光で眺めてくる姿は、悔しいくらい可愛いままだった。
次の瞬間、僕の腕に触れていたノアの手に、力がこもった。
「訂正します。各停なのはダン様ではありません。人の価値を速度でしか測れない、あなたの脳内ダイヤです」
ノアが、間に割って入った。音量が、いつもより明らかに大きい。
「え、何この子。ダンの新しい彼女? てかさ、人間味なくない? バグってない?」
サエが不審そうに指差した。
ノアは一歩踏み出し、サエの頬の数センチ横まで顔を寄せる。
「私はダン様のリハビリ・パートナー、ノアです。あなたの低スペックな認識能力では、理解できないかもしれませんが」
その声は、いつも通り淡々としていた。でも、空気の温度がじわじわと落ちていく。周囲の人影まで、息を止めて動かなくなる。
「ダン様を廃棄したあなたに、再評価する権限などありません。旧型感情は、回収対象外、スクラップ確定です」
ノアは完璧なスマイルを浮かべながら、その一言を突きつけた。
「あっ、今のガチでディスってます。ちゃんと刺さりましたよね、サエ様?」
ファッションフロアが、凍りついた沈黙に沈む。
「へえ、ウケる。ダン、あんた本気? 変な人形に守られて、満足なんだ?」
サエはくすくすと笑いながら、一歩も引かずにノアを睨みつけている。
僕は、ノアの背中を見た。そこにあった鉄の刻印が、脳裏をかすめる。
この子は機械だ。冷たいし、毒舌だし、180日後には消える存在。
それでも――
「変なのは、お前のほうだろ」
僕の口から、無意識に言葉がこぼれた。
声は震えている。でも、引っ込める気はなかった。
「え? ……何それ」
「サエ。僕は、各停でいい。志木を見下して、人の歩き方まで笑うやつより、この子の泥水スープと溺れるほうが、ずっといいんだよ!」
ノアの瞳の中で、青い光が一瞬、強く揺れた。
サエの目元がピクピクと痙攣し、見る見るうちに赤黒く染まっていく。息を荒げて、唾を飛ばしながら吐き捨てた。
「キモ! あんたなんか一生、各停の終点でくすぶってれば!」
隣の男の手を引っ張って、さっさと消えようとした。
でも、隣の男――雨宮は、真っすぐに僕を見据えて、無機質に言った。
「180日の使い捨てと心を通わせる。……いずれ、君の首を絞めることになる。よく覚えておくといい、広瀬ダン君」




