42nd Broadcast Episode:世界の書き換え(B)
窓の外、夜の街並みは、どこか不機嫌なネオンを放っていた。
暗がりの部屋の中で、スマホの画面が残酷な数字を突きつけてくる。
『判定:現在の定着率:78.9%』
『完全書換に必要なトリガーを検出できない』
『タイムリミットまで――残り20時間』
ノアはもう、どこからどう見ても人間だった。なのに、あと少しの壁が越えられない。
何が足りないのかも分からないまま、刻一刻と秒針が削られていく。桜が散れば、ノアは消える。
ベッドに寝転んだまま、僕は自分の手のひらをじっと見つめていた。
追い詰められた焦りで、心臓がうるさく跳ねている。眠れるはずもなかった。
「あーあ。相変わらず、現実からログアウトしてる目ね。五年前から、ちっとも進歩してないじゃない」
「うわあああっ!?」
突然、頭上から降ってきた声に、僕はベッドで跳ね上がった。慌てて振り向くと、いつの間にかドアが開いている。
その横で、したり顔で腕を組み、壁に寄りかかる女。トレンチコートを無造作に羽織り、ホワイトブロンドの髪が雑にまとまっている。
「……か、母ちゃん! なんで、いるの……」
「なんでって、息子の部屋に入るのに理由が必要かしら?」
静江は、ふっと口元を歪めて笑った。
「な、何の用だよ! ていうか、ノックぐらいしてよ!」
「ノックなんてしたら、ダンの面白い顔が見られないじゃない」
僕の慌てふためきぶりを、完全に楽しんでいる。
この人は何も知らないはずだ。僕が今、どんな崖っぷちに立たされているかも、ノアがどういう状態にあるかも。
必死に息を整え、何でもない風を装って寝返りを打った。
「用がないなら出てってくれよ。僕は今、ちょっと考え事をしてるんだ」
「考え事、ねえ」
静江のスリッパの音が、静まり返った部屋に、ペタリ、ペタリと不気味に響く。
ベッドの脇まで来ると、真上から、全てを見透かしたような眼光を向けてきた。
「九条君のシステムも、友達との悪あがきも、まあまあかな。定着率は80%ってとこかしら。……で、最後で足踏みってわけね。もうあと一日なのに」
「っ……な、んで……」
喉が一瞬で干上がった。
なぜ、母ちゃんがその数値を、その状況を知っている。
「母ちゃん。……何を、どこまで……」
「五年前。九条君があの子を失った事故の夜から、私はずっとあんたたちを見てたのよ」
僕は思考ごとフリーズした。驚きに押しつぶされて、呼吸の仕方すら思い出せない。
静江は、視線を窓の外、この街の夜空へと向けた。
「十年前、冬花ちゃんが土砂崩れから救い出された日。瀕死の彼の脳波を、最初に測ったのも私よ」
その横顔には、昼間のお気楽な空気は微塵もない。一人の、狂気的な天才科学者の顔だった。
「九条君が、ノアちゃんの心を完成させるパートナーとして、わざわざダンを選んだと思ってるでしょ」
そう言って、ゆっくりと僕へ向き直った。漆黒の瞳が、獲物を捉えようとギラリと光っている。
「でも違うのよ、ダン。九条君に、この子しかいないってデータを突きつけて、舞台裏をセッティングしたのは、この私」
「……は?」
頭が完全に真っ白になった。
何を言ってんだ、この母親は。
「国にバレないように身を隠しながら、この五年間、私が何を研究していたと思う?」
静江はポケットから端末を取り出し、月光に透かして見せた。画面には、おびただしい量の波形データが点滅している。
「人間の、綺麗で、汚い、情動のバイオリズムよ。特に、あんたっていう、クソ真面目で優しすぎる息子のね」
静江は、じっと僕を眺めてから、呆れたようにため息をついた。
「はぁ……。五年前、一度世界から消えかけたあの子が、新たな命を削ってまで、ダンを選んだ理由。……まだ気づかない?」
「それ、は……」
「誰にでも優しい各停男の仮面、いい加減に叩き壊しなさい」
静江は僕の胸元を、指先で強く小突いた。
「サエちゃんといた十年間、ずっと自分の心に蓋をして、優しいだけの男を演じてたでしょう?」
その表情は、もう科学者のそれじゃない。息子の底力を確信している、一人の母親だった。
「そんなこと、並大抵の執念じゃできないわよ。あんたのその異常な我慢強さが、本物の牙に変わるのを、私はずっと待ってたのよ」
「……牙って、何だよ。僕はただ、ノアを救いたくて、何が足りないのか分からなくて――」
「あの子に何かが足りないんじゃないの」
静江は背を向けると、ドアノブに手をかけ、振り返らずに言い放った。
「足りないのは、ダン自身の何かよ。……いつまでかっこつけてんのよ、このバカ息子!」
パタン、とドアが閉まる。
静けさが戻った部屋で、僕は呆然と天井を見上げていた。
体の中のどこかが、かすかに熱を持っている。その温度が、少しずつ全身に伝わっていく。
ノアではなく、僕自身にある、何か。
今、母ちゃんに劇薬を流し込まれ、それは暗闇の中で、静かに動き始めようとしていた。
◇ ◇ ◇
この街の桜は、僕たちの焦りなんて知らずに、一晩でつぼみを弾けさせた。
柳瀬川沿いの桜並木は、もう淡いピンクのトンネルになっていた。けれど今の僕には、その美しさが終わりの合図にしか見えない。
「……ダン様。見てください。ガチで綺麗です。過去の私は、これをただの画像データとして解析してたなんて、信じられませんね」
ノアが隣で立ち止まる。その足取りは、昨日よりも明らかに重い。
僕は、そっと肩を引き寄せた。胸の奥底では、名前のつかないものがずっと渦巻いている。
『君の不条理な愛で、ノアの運命を書き換えてやれ』
九条さんの言葉が、何度も意識の内側でぶつかってくる。
不条理な愛。
理屈じゃない。たぶん、そういうことなんだろう。
僕は、ノアの横顔を眺めた。桜の光を受けて、頬がひどくやわらかく映る。
触れたい。壊れるくらい、抱きしめたい。
その衝動が膨らむたびに、もう一人の自分がすぐに引き戻した。
壊したらどうする。時間がない。
指先がノアの髪に触れるだけで、思考がぐちゃぐちゃになる。
優しくするほど距離が開く。慎重になるほど、何もできない。
……くそ。
これじゃ母ちゃんが言ってた通り、ただの優しい善人だ。九条さんが僕に求めてるのは、きっとこんな安全運転じゃない。
このブレーキを壊さない限り、僕は一生、ノアを本物の女性として抱きしめられない。
いっそ、このまま連れ去ってしまえばいいのか。この街も、桜も、九条さんの遺言も、全部置き去りにして。
そんな衝動が、一瞬、本気で脳裏をよぎった。
「……ダン様? そんなに考え込んで、各停が脱線した後の時刻表でも計算してるんですか?」
ノアが、不安そうにのぞき込んできた。その瞳に映る僕は、情けないくらい、まだ踏み込めずにいる。
スマホを開くと、管理AIの非情な通知が、画面を真っ黒に塗りつぶしていた。
『現在の定着率:83.0%。到達確率:19.8%。タイムリミットまで30分』
『未定着領域:対恋愛対象――独占欲』
「……っ。くそっ……」
僕は土手の斜面に座り込み、頭をかきむしった。エモい思い出も、必死に絞り出した愛情表現も、もう全部出し尽くしている。
83%の壁は、優しさや綺麗事じゃびくともしなかった。
ノアを大事にしたい。傷つけたくない。ずっと、そう思ってきた。
でも、この壁の向こうにあるのは、きっと——
僕は顔を覆った。母ちゃんの一言が、脳内で何度も響いてくる。
本物の牙。
そんなもの、僕には似合わない。
……似合わないはずだった。
「……ねえ、ダン様。私……わかっちゃいました」
ノアが、桜の木に背中を預けて、僕に視線を向けた。
「友達もできました。学校にも通いました。サエ様、タケル様、凛様とも一緒に笑いました」
そこで一度息を継いでから、静かに続ける。
「でも……ダン様。最後の17%、まだ残ってますよ?」
その目には、もう迷いがなかった。
「ダン様は、優しすぎるんです。私を、余命宣告された可哀想な女の子として扱ってる」
声はかすれていた。それでも、言葉の芯は真っすぐだった。
「壊さないように。汚さないように。大切に、大切に、ガラス細工みたいに。……でも」
ノアが一歩、僕に近づく。桜の花びらが、一枚、ノアの肩に落ちた。それは、砂時計の最後の粒を思わせる。
「私が欲しかったのは、そんな聖母マリア様みたいな愛じゃないです」
春の色が肩先に触れても、その口調は少しもやわらかくならない。
「私、消えるのが怖くて……寿命を削ってでも、あなたのいちばん醜い本音に触れたかった」
心臓が一拍、変なリズムを刻んだ。押し殺していた衝動が、悲鳴を上げて軋み出す。
「……何を、言ってるの」
「ねえ、ダン様。まだ、私を壊す覚悟がありませんか?」
ノアの口元が、ぎこちなく歪んだ。
次の瞬間、僕の胸ぐらを両手でつかんだ。
細くて白い指が、布をきつく握り締める。その細さからは想像できない力が、みぞおちの裏まで食い込んでいく。
黄金の光が、まっすぐ僕を捉えていた。
「さらけ出して、広瀬ダン!」
その叫びに押されるように、指先の力がまた一段強くなる。
「私を救おうなんて、ヒーロー気取りな顔しないで!あなたのエゴを、欲望を、私にぶつけて!」
唇の端が、かすかに揺れている。ノアの魂の絶叫が、はっきりと僕に届いた。
「あなたの女になりたいの!! 世界が滅んでも、私が私じゃなくなっても、私だけを見て!!!」
体の一番深いところで、何かが音を立てて折れた。ブレーキが壊れたんじゃない。僕が、自分で踏むのをやめた。
九条さんが遺した理屈も。管理AIの数字も。正しい愛の形なんてものも。
もう、全部どうでもいい。僕が欲しいのは、正解じゃない。目の前から消えようとしている、この女だ。
「……そう、全部バレてる。僕はノアを救いたいんじゃない。奪いたいんだ」
ノアの腕をつかみ返し、力任せに引き寄せた。驚きに目を見開くノアを無視して、その唇を奪った。
優しさなんて一ミリもない。それはキスというより、衝突だった。歯がぶつかり、息が乱れる。それでも、離さなかった。
「っ……ふ……ぅ……!」
ノアの身体が、ビクンと大きく跳ねた。
「……ノアを、誰にも渡さない」
自分でも声が低すぎて驚いた。でも、もう止められなかった。
「死ぬことも、消えることも、僕が許さない。ノアは一生、僕の隣だ。ワガママに付き合え。……いいな」
答えを待つより先に、僕はノアを抱き寄せていた。自分でも驚くくらい強く。
腕の力が抜けない。壊れるんじゃないかって、頭のどこかで思っているのに。
それでも、離せなかった。もう、ノアがアンドロイドだった過去なんて、僕の中では意味を失っていた。
この子は僕を困らせて、振り回して、心をかき乱す存在だ。それでも、ここにいるのは、どうしようもなく僕のノアだった。
もう二度と離さないと決めて、胸に閉じ込めた。
その時だった。
ポケットの中で、スマホが異常な勢いで震え出した。
『緊急通知:定着率の急上昇を確認。90%を突破。現在も上昇中』
『魂シンクロプロセスを検出。個体名ノアの自意識が、生存本能と直結』
「……っ、あはは」
ノアが、僕の胸元で小さく笑った。その響きには、さっきまでとは違う温度が混じっている。
「ほんと……最低ですね、ダン様。エゴのかたまりです……でも……」
言葉を探して息を詰まらせてから、唇をかすかに震わせた。
「……やっと、私だけを……見てくれた……」
ローズゴールドの瞳から、大粒の、透明な涙があふれ落ちた。
一滴。
また一滴。
その雫が、僕のシャツに静かに染みていく。
震える肩。押し殺した息。
ノアは、ようやく力を抜いた。しがみつく指先から、拒んでいた何かがほどけていく。
熱くて不器用な涙が、途切れずこぼれ続けていた。
『判定:100%。魂定着プロセス、完了』
スマホの向こうで、機械音声が静かに告げる。そして、もう一つの声が重なった。
『……おめでとう。志木のバグが、世界の仕様を書き換えた』
九条さんの最後のメッセージだった。その祝福は、春の風にさらわれて、桜の花びらの中へ溶けていく。
気づけば、管理AIのカウントダウンは消えていた。残っていたのは、騒がしい春の午後と、腕の中のぬくもりだった。
「……ノア。大丈夫?」
顔を埋めたまま、鼻をすすって答えた。
「……最悪です。ダン様が、ガチの獣モードで……服はシワシワだし、リップも落ちちゃったし」
涙声でも、口元はうれしそうにゆるんでいく。
「これ、どう責任取ってくれるんですか?」
「一生かけて取るよ。スーパーの半額セール、毎日付き合ってやる」
「……じゃあ、もう途中解約なしですね?」
ノアが、わざとらしく肩をすくめて僕を見上げる。その頬は、目の前の桜よりも濃く染まっていた。
柳瀬川の土手を、春風が静かに抜けていく。
もう、各停のブレーキはいらない。僕たちはこれから、泥臭く、人間らしく、この先の時間を進んでいくんだ。
「ねえ、ダン様! 私のダン様! 私、いま、すごーくお腹が空きました!」
その一言で、僕はようやくちゃんと笑えた。
志木の桜が、また一枚、ひらりと落ちた。




