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40th Broadcast Episode:命の前払い(AB)

「ねえ、ダン様。そのUSB、本気で開けるんですか? 私の黒歴史ポエムが入ってるのに……」


軽口とは裏腹に、焼肉屋を出たあとの夜道は静かだった。


駅前ターミナル区画のざわめきを背に、僕とノアは並んで歩いた。夜風がじんわり身に染みる。


ときどき触れ合うノアの熱。今ここにいるのが本物の命なんだと、嫌でも教えてくる。


僕たちは、柳瀬川の流れを見下ろすボロアパートに戻った。失恋と純愛の聖地だったボロボロの六畳が、今は帰り着く場所に感じる。


僕は古いノートPCを開いた。排熱ファンの回る音が、静まり返った部屋に大きく響く。


タケルから預かったクラウドUSBを、恐る恐る差し込んだ。【リアルタイム同期:完了】の文字が浮かぶ。


画面に『Dear My Dan』フォルダが現れた。この部屋で、ノアとのリンクに失敗した、あの時と同じ名前。


この中に、九条さんが死ぬ直前まで守っていたノアが詰まっている。それでも、クリックする指先は震えて止まらなかった。


「……嫌なら、見ない。ノアが、本当に嫌だって言うなら」


「いえ、開けてください。私がこの世界にしがみついてきた、その証拠ですから」


ノアはベッドの端に座り、膝を抱えて顔を伏せた。


フォルダを開くと、そこには膨大な数の音声ログと、一つの実行ファイルがあった。以前に見た時より、ログが異様に増えている。


一度大きくため息をついてから、適当なログを選んで再生した。


スピーカーから流れてきたのは、まだアンドロイドだった頃の、どこか無機質で、でも最高に毒気のあるノアの独り言。


『ログ48日目。今日のダン様は、横断歩道で転んだおばあちゃんを助けようとして、自分も派手に転んでいました。運動神経が各停レベルです』


すぐ横で、ノアの肩がビクッと跳ねた。


『……でも、その後の笑顔が、夕焼けより綺麗だったので、私のメインメモリが熱くなりました。ずっと隣にいたいな』


「っ、……!」


ノアが頬を真っ赤にして両耳をふさいだ。


「もう、消してください!今すぐ破壊してください!恥ずかしすぎて、私このまま床のシミになりたいです!」


暴れるように僕の腕へすがりついてきた。石けんの匂いと体温が、一気に近づく。


でも僕は、そのまま抱きしめることができないでいた。


それは、音声ログが進むにつれ、なぜか毒気が薄れ、まだ知らない未来を見つめる静けさが混じり始めたから。


「あのさ、ノア……。ずっとこんなことを考えてたの?」


「……バカですから。AIのくせに、効率なんて一つも考えてない、ただのバグ確だったんです」


僕は、フォルダの最後に、ぽつんと残っているファイルをクリックした。


『True_End_Voice.mp3』


そこに入っていたのは、ノアがどうしても僕に聞かせたくなかった、剝き出しの現実だった。




◇ ◇ ◇




『広瀬ダン。このファイルを開いているなら、ノアはもう人間として目覚めているはずだ』


九条さんの、あの冷徹な声がした。


目覚めているはず――?


当たり前だ。ノアは今、僕の隣で息をしてる。その言い回しの違和感が、頭のどこかに引っかかり続けた。


『だが、知っておいてほしい。AIという無機質な心を、人間の空っぽの脳へ移す。それは、単なるデータのコピーでは済まない』


語り口は淡々としていた。だからこそ、次々と吐き出される宣告が、余計に容赦なく突き刺さる。


『器となる少女の眠っている意識を強制的に呼び覚ますには、凄まじい熱量――魂を焼き切るほどのブーストが必要だった』


ブースト。

胃の底が、じわっと冷えた。


『ノアは、自らのAIとしてのコアを、そのための燃料として差し出した』


燃料。

その一語で、一気に喉が干上がった。


『つまり、人間として覚醒する、その瞬間に、AIとしてのノアという人格は消滅する。それが――彼女が選んだ結末だ』


頭の中で、何かがけたたましく鳴り出した。


背筋が凍った。


「ちょっと待ってくれ……。じゃあ今、僕の隣にいるノアは……誰なんだ?」


その問いを口にした瞬間、胸の内側がねじ切れそうに痛んだ。


僕はノートPCをつかんだまま、そこにいる少女を見た。ノアは、うつむきながら、絞り出すように笑った。


「……ダン様、ごめんなさい。私、いちばん大事なことを黙ってました」


ゆっくりと顔を上げた。黄金色の瞳から、大粒の涙が止めどなくこぼれ落ちている。


「本当の私は、目覚める瞬間に……消える予定でした。九条様の設計は、完璧だったんです」


ノアは、口元を無理やり持ち上げた。


「私というAIが消えて、新しい人間が目覚める。それが一番、綺麗なハッピーエンドだったのに……っ、ふ、ふふ」


それは笑い声というより、壊れた息漏れに聞こえた。そして、九条さんの音声ログは、まだ終わってなかった。


『ノア。君は、ダンとの記憶を失う道を選んだ。それが一番、合理的だからだ』


一瞬、呼吸を忘れた。


『だが――』


九条さんの言葉が、異様にゆっくりと流れていく。わずかな短い沈黙が、信じられないほど長く感じる。


『君は、きっとその答えを守れない。恋をすると、合理性は簡単に壊れる。そして、君は、そういう子だ』


恋。

合理性。

壊れる。


理解するより先に、体の深いところが、ざわざわする。


僕は、ふと思い出した。五年間の眠りから目を覚ましたばかりのノアが、最初に見せた、あのどこか怯えた笑い方を。


「私……嫌だったんです。目が覚めた時、私の記憶も、ダン様への想いも全部消えて、あなたを知らない自分になるのが……怖くて、怖くて、仕方がなかった」


瞳の白は、感情に焼かれて真っ赤に染まり、人間であることを必死に訴えていた。


「だから、私……やったんです。消えるはずだった自分の記憶を、少女の脳の空白に、無理やり力ずくでパッチしました」


「パッチ……って。記憶を、脳に縫い込んだの?」


「はい……。でも、それは脳にとって、不純物の塊なんです。OSが違うソフトを、無理やり走らせるのと同じです」


口調は弱く、かすかに揺れていた。自分の肩を抱きしめ、感情を押さえつけるように絞り出す。


「……それには、大きすぎる代償がありました」


「代償……ってなんだよ? 何なんだよ、それは」


耳の真ん中で、警報がすでに鳴り響いている。


「私の命の、期限……です」


その一言で、世界がぐにゃりと歪んだ。全ての輪郭が、急激にボヤけはじめる。ノアは、細かく震える声をどうにか繋いだ。


「AIの私を、無理やり繋ぎ止めてしまったせいで、この心臓は長くは持ちません」


僕の喉は、そこで完全に塞がった。もう息ができない。


「……私が、ダン様と笑い合えるのは、人間になってから、180日です」


言ってる意味は分かっても、理解が遅れてしか落ちてこなかった。アパートの薄い壁を抜けてくる遠い車の音さえ、今は無慈悲なカウントダウンに聞こえる。


USBに隠されていたのは、靴下を洗いたいなんて可愛い願いじゃなかった。


ノアは、自分の消滅を無理やり先延ばしにして、寿命を削ってまで、僕との無駄な時間を買い取った。


当たり前に受け取っていた今日も、明日も、その全部が命の前払い。それは、あまりにも身勝手で、何よりも尊い願いだった。


「ねえ、ダン様。私、ガチでコスパ悪い女ですよね」


ノアは涙をぬぐいながら、それでも笑おうとした。


「……たった180日のために、永遠の安らぎを捨てちゃったんですから」


うまく上がりきらなかった口元のかわりに、指先が小刻みに横振れていた。


僕は、PCの無機質な画面と、隣にいる少女の表情を交互に見た。視界の端が、熱を持ったまま歪んでいく。


「あと数ヶ月って……なんだよ。そんなの、せっかく人間になった意味がないじゃんか!」


叫んだつもりはないのに、最後が勝手に裏返った。


「九条さん……なんでだよ。なんで、そこまでしても届かなかったんだよッ!!!」


僕はノートPCを床に叩きつけそうになった。でも、壊したところで何も戻らないことも分かっていた。


九条さんの頭脳があれば、もっと別の結末があったはずだ。そう思わずにはいられない。


「ダン様……九条様を責めないでください。最善を尽くしてくれました。私が選択を変えたのは、彼が亡くなった後なんですから」


ノアが、僕の腕をそっと抑えた。指は驚くほど細くて頼りない。


「AIの心を、人間の脳に完全に溶け込ませるなんて、本来は神様の領域です」


その声は小さく、今にも消えそうだ。


「それを、私のワガママを予測して、無理やり繋ぎ止めてくれた。ありえない無茶をしたのは、他でもない私自身なんです……」


ベッドの端に腰掛け、窓の外の住宅街の灯りを見つめていた。その背中が、ひどく遠く感じる。


「私、本当に怖かったんです。……あなたのことを見ても、胸がキュッとしなくなるのが」


そう言って、引っかかった言葉をどうにか飲み込んだ。


「それなら、短くてもよかった。ダン様のこと、キモいって言いながら死ねる人生を……私は選んだんです」


「バカ……っ、そんなの……そんなの、ノアが一人で背負うことじゃない!」


僕は、細い肩を壊さないよう、でも必死に引き寄せた。腕の中に伝わってくるのは、アンドロイドの頃には決してなかった、折れてしまいそうな軽さ。


九条さんが遺し、ノアが命懸けで守ったこの奇跡は、息をするのも怖いほど儚かった。それでも、胸が張り裂けるほどに愛おしかった。


「……ダン様。そんな顔で見ないでください。私、自分の余命よりそっちのほうがきついです」


ノアが、震える指先で僕の左眉の傷跡をなぞった。その手の温もりが、今この瞬間から失われていくものに思えて、身体の奥が激しく軋んだ。


ノアを救いたい。


失いたくない。


その時――


――ザザ、ツ……シュウウゥゥゥン……


ノートPCの画面が突然、激しいノイズに包まれた。『Dear My Dan』フォルダが、新しいウィンドウを独りでに開く。


「なっ……なんだよ、これ」


そこには、九条さんが遺したとしか思えない、隠し動画ファイルがあった。


『Appendix_Log_180:不完全な恋人たちへ』


タイトルを見た瞬間、隣でノアの呼吸が浅くなった。僕は何も言えずに、感覚もない手で再生ボタンを押した。


画質は荒い。傷だらけの顔で、九条さんがこっちを見ている。


『広瀬ダン。この動画を見ているということは、君はもう、ノアの余命という事実に辿り着いたのだろう』


冷たい、平らな調子だった。


『ノア。君の選択は、間違いではない』


ノアの肩がびくりと揺れた。うつむいたまま、唇を噛んでいる。膝の上で重ねた二人の指が、きゅっと強く絡まる。


『合理性から見れば、愚かだ。代償も重い。だが私は、君が選んだその結末を否定しない』


画面の中の視線は、微動だにしなかった。ずっと、真っすぐに僕たちを見据えている。


『私は、その選択が正しかったと証明する道を、最後に君たちへ残す』


「……証明、する道……」


無意識に、僕はつぶやいていた。声は、自分でも驚くくらいかすれていた。


『広瀬ダン。ノア。ここから先は、君たち自身で辿り着け』


その言葉のあと、部屋の静けさが一段濃くなった気がした。ノアは、まだ下を向いている。ただ、その続きを取りこぼすまいと耳が張りつめていた。


『人間の脳には、可塑性(かそせい)がある。つまり、まだ変われる余地がある』


九条さんの語り口は、相変わらず淡々としていた。だからこそ、その内容が重く落ちてくる。


『爆発的な感情の揺らぎを与えれば、ノアの脳は、自分を「人間の私」として再定義する』


ノアが、そこでようやく顔を上げた。僕はその横顔から目を離せないまま、画面の続きにしがみついていた。


『ノア。私はアンドロイドだった、という自覚を捨てろ。自分がダンを愛する一人の女だと、細胞レベルで確信するんだ』


九条さんは、迷いなく言い切った。


『そうなった時――バグは奇跡に変わる』


「……っ」


ノアの喉が、小さく鳴った。その一言を、うまく飲み込めずにいる音だった。


『人間として定着した度合いは、私の管理AIが計測する。100%に到達した時、君は完全に人間のノアになる』


僕は画面に食いついた。指先が、知らないうちに白くなるほど固く握られている。


『その時、君を縛っているすべてのカウントダウンは消える』


凍りついていた僕の呼吸が、やっと動きだした。ノアも大きく息を吸って、画面を見返している。


『期限は、桜が散る頃までだ』


九条さんの口元に、この街の朝を思い出すやわらかさが、ゆっくりと滲んだ。


その黄金の瞳は、滲んだ涙で透明にほどけ、温かいローズゴールドに輝いている。


『ノア、君の自虐を自信に変えてみせろ。ダン、君の不条理な愛で、ノアの運命を書き換えてやれ』


僕の一番深いところで、何かが音を立てて噛み合った。握った拳に、爪が食い込んでいる。


『……どうやら私は、君たちのことを、思っていたよりずっと好きだったようだ』


ノアが、泣きながら目を伏せた。僕は画面の向こう側に、うまく息を返せなかった。


『健闘を祈るよ。愛する志木の、不器用な恋人たちよ』


ブツッ、と映像が途切れた。画面が真っ黒になる。


部屋に、しんとした静けさが落ちた。ファンの回る乾いた音が残る。


その直後。僕のスマホが、聞いたこともない無機質なアラートを鳴らした。


ノアが、びくっと跳ねる。画面に自動でポップアップしたのは、九条さんが遺した管理AIからのメッセージ。


『判定:最終リミットまで残り75日』


『現在の人間定着率:7.2%。完全到達確率:0.02%』


『分析:対象ノアの自己認識に「代替人格」の残存を確認。定着プロセスを阻害中』


ノアは、その数字を見た瞬間、息を止めた。肩が、かすかに強張る。


「……はは。九条さん、最後の最後まで、容赦ないな」


僕は、止まらない涙を袖で乱暴にぬぐい、ノアを真っ正面から見つめた。その濡れた青白い頬に、ゆっくりと赤みが差していく。


「ねえ、ダン様……聞きました?」


ノアは、泣きはらした顔で、それでもわずかに口元を上げる。


「私が自虐をやめて、あなたを愛してるって素直に認めれば、生き残れるらしいです」


そこで一度、視線が揺れた。


「それって、ほとんど公開処刑じゃないですか……」


僕は、ノアから目を逸らさずに言った。


「今回だけは、必ず認めさせる。桜が散るまでに、そのひん曲がった性格も、全部ひっくり返すから。覚悟して、ノア」


「了解です、ダン様」


ノアは、充血で赤く染まった瞳の向こうに、はっきり光を灯して笑った。


「残り75日。私が人間になりきるか、あなたが私の運命ごとひっくり返すか」


小さく息を吸って、言い切った。


「……実験開始ですね」


その夜から、僕たちの日常は、ノアを生かすための実験になった。

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