39th Broadcast Episode:Dear My Dan(B)
ノアは、タケルとサエを振り切って、僕の手を引いて本校舎の屋上へと駆け上がった。
立入禁止の屋上に、こっそりと忍び込む。そこは、街を見下ろせる誰もいない場所だった。
「ふぅ……。ねえ、ダン様。人間って効率悪すぎます。三階上がっただけで、脈がバグってるんですけど……」
ノアは荒い息のまま、僕の間近に踏み込んできた。
「……ほら」
自分でも確かめるように、震える左胸へ僕の手を引き寄せる。薄いワイシャツと小さな紺リボンの向こう側が、はっきりと火照っていた。
「っ、ちょっ! 何すんだよ、バカッ!」
薄い布越しに、速すぎる鼓動が手のひらへ跳ね返ってきた。
やわらかい。
あたたかい。
生きてる。
それが一気に押し寄せてきて、頭が真っ白になった。
もうダメだ。
各停男は、ここで終わるのか。
「……バカはダン様ですよ」
ノアは手を離す気ゼロだった。じっとこっちを眺めている。
「今の私、心拍数が160を超えて、バグ確です。あなたのせいなので、責任取ってください」
近すぎて、かすかな息づかいまで届く。その視線を、まともに受け止められない。冗談で逃がせる温度じゃなかった。
「責任って、何の……。ほら、これ、学食のおばちゃんに取り置きしてもらったやつ。……食べなよ」
僕はポケットから、袋を引っぱり出した。学食で大人気の、爆速で売り切れるドーナツ。
ノアは僕の手を名残惜しそうに離すと、ドーナツにかじりついた。指先には、まだ緊張の名残が残っている。
「っ……! うまっ……。これ、ガチで好きです。小麦の甘さと、ダン様のお節介が反則です」
口元に砂糖がついているのにも気づかず、ふにゃっと笑った。気づけば、僕の指先はノアの唇に触れていた。
「……砂糖、ついてるよ」
「あっ……」
時間が止まった。唇のやわらかい感触。ノアは頬から耳まで、完熟いちごと勝負できそうなほど赤くなっている。
でも、逃げなかった。自分から体を寄せて、僕のシャツの胸ぐらをギュっとつかんだ。
「……ダン様。人間になって知りました。好きな人の香りって、データよりずっと甘いんですね」
その鼻先が、触れそうなほど近い。お互いの呼吸が、同じリズムに聞こえる。丸い黄金の光が二つ、真っすぐに僕を捉えていた。
「……抱きしめてください」
ノアは、言葉を探していた。恥ずかしそうに目を泳がせながら、僕の左眉の傷をそっとなぞる。
「物理的なリンクじゃなくて、もっと、その……お嫁さん的な、ギュッてやつです」
僕はもう抵抗できなかった。細い腰を引き寄せて、そのまま腕の中へ包み込む。髪からシャンプーの匂いがふわりと抜ける。
夢じゃない。ノアは、間違いなくここにいる。二度と離したくなかった。
僕の心臓にぴったりと耳を当てて、小さく笑っていた。自分自身の鼓動の速さに戸惑い、まだ不思議そうにしている。
潤んだローズゴールドが、下から僕を見上げていた。お互いの息が、熱を持ってかすめる。
その瞬間――脳裏に、あの冷たい感触がフラッシュバックした。
校舎の陰で繋いだ手のひらから、ノアの生きた体温と鼓動が、一瞬で消え去ったあの違和感だ。
気のせいにしては、あまりにも鮮明すぎた。不穏な胸騒ぎに、息が止まりかけた、その時だった。
「ちょっと、あんたたち!屋上で何いちゃついてんのよッ!!」
扉を蹴破って現れたのは、仁王立ちのサエだった。その後ろで、凛がスマホをこっちへ向けている。
タケルは、なぜか必勝ハチマキを締めていた。
「GPS共有してるの忘れたのかよ、ダン?」
「っ、げぇっ! みんな、いつから……!」
「ノアちゃんを抱きしめたあたりから、バッチリ動画に収めたわよ! ダン、あんたのママに送っとくから!」
サエの叫び一つで、僕たちの秘密基地は一瞬で崩壊した。
ノアは顔を真っ赤にしながら僕の手を握り、屋上の出口へ駆け出した。
「ダン様、逃げますよ! サエ様、ガチで怖い……でも、その、続きを後でお願いします!」
僕たちは午後の授業を抜け出して、そのまま街へ飛び出した。
◇ ◇ ◇
「ハァ、ハァ……。ねえ、ダン様。うちの高校の治安、終わってません……?」
校門を突破し、逃げ込んだのは駅直結のターミナル・モール。屋外デッキを吹き抜ける風が、ほてった僕たちの肌を冷やしてくれる。
ノアは乱れた髪を直すのも忘れて、僕の腕をギュッとつかんで見上げてきた。
「ねえ、ダン様……屋上の続き、しますか?」
そう言って、また胸に額を預けてくる。シャツ越しに伝わる温かさに、こっちの理性が怪しくなってきた。
こんな人混みで続きをやったら、いろんな意味で終わる。なのに、目をそらすので精一杯だった。
ふと浮ついた胸の内側で、奇妙な感覚が引っかかった。
人間に戻った後の、ノアのどこか必死で、余裕のない甘え方。何かから逃げるように、焦っている。何かに向かって、急いでいる。
「……っ、バカ!こんなところでできないって。ほら、口直しだ。アイス、食うよ」
僕は強引に、モール内のアイスクリームショップへと連行した。
かつてのノアにとって、食べ物は効率的なエネルギー補給でしかなかった。けれど今は、きちんとご褒美になっている。
「……っ!これが、人間界の至宝、ストロベリー・チョコチップ・ダブルですか?」
ひと口食べた瞬間、肩がピクっと揺れた。目をまん丸にしたまま、冷たさに負けそうな顔で固まっている。
「ダン様、冷たすぎて思考が止まりました。……でも、ガチで幸せです!」
ノアは、幸せそうに頬張った。唇についたピンクのクリームが、どうしても気になって、僕はまた視線の置き場に困る。
そんなことで本気で困れる今が、たまらなく平和だった。ノアは半分溶けかかったアイスを、僕の口元に差し出してきた。
「はい、あーん。拒否権はありません。これは私の一部をダン様にインストールする、神聖な儀式ですからね」
「……っ、あのさ」
観念して一口食べると、甘酸っぱい冷たさがこめかみを突き抜けた。うろたえる僕を見て、ノアが満足そうに笑った。
完全に、いたずらが成功した時の表情。そんな風に笑われると、今が本当に奇跡なんだと思い知らされる。
ふと視界の隅に、よく知っている二人組が映った。その色合いは、前とはまるで違っている。
鮮やかな三色のネオンカラーの髪を、お団子にまとめた冬花先輩が、オープンカフェのテラス席に座っていた。
その隣には、照れくさそうに彼女を見つめる青年。かつてアンドロイドだった、あの彼だ。
「あら、ダンとノアじゃん! 学校サボって、各停デート中?」
冬花先輩が、ストローをくわえながら、茶目っ気たっぷりに手を振った。隣の彼は、今ではすっかり人間の時間の中にいる。
「冬花先輩こそ、彼を連れ回して大丈夫なんですか? まだリハビリ中だって聞いてますけど」
「失礼ね、ダン。リハビリを口実に、美味しいグルメを制覇してるのよ。ねえ?」
そう言って、彼の肩に自分を寄せた。その距離は、もはやミリ単位の隙間もない。
「ああ。冬花が幸せそうに笑ってると、僕も落ち着くんだ。ノア。君もずいぶん、人間らしくなったね」
彼は、どこか懐かしそうに微笑んだ。ノアは照れを隠して、アイスのコーンをカリッと噛み砕く。
「冬花様。もう、ノロケが似合わないですよ。糖度が高すぎて、私の味覚センサーがエラー起こしてます」
「へえー、相変わらずね、ノアは。ダンの手、さっきから握りっぱなしなのは、どこの誰?」
冬花先輩が、僕たちが繋いだ手を指差して、ニヤニヤしている。ノアは頬を真っ赤にして、僕の腕をさらに強く引き寄せた。
「……これは、迷子防止の物理リンクです! 各停男のダン様は、すぐ止まるので」
「はいはい、お幸せに。ねえ……ダン。ノアを泣かせたら、バールであんたの脳みそデバッグするからね?」
冬花先輩の愛のムチに震えていると、ノアが耳元でコソッとささやいた。
「……ダン様。今度こそ、誰もいないところで続き、しませんか?」
きらきらした二つの黄金色が、すぐ目の前で、赤みを帯びて揺れている。幸せすぎるおねだり。拒む理由なんて一ミリもない。
ただ、あまりに生き急ぐようなノアの熱量に、僕の心はどこか一歩、追いつけずに引いていた。
ノアは、何をそんなに急いでいるのか。そんな異物感も、強く手を引く体温に、あっけなく掻き消されてしまう。
僕はその発熱に背中を押されて、また走り出した。九条さんが命がけで守り、母ちゃんが手渡してくれた、贅沢な日常のド真ん中へ。
僕たちは今、不器用でも、とても大事な時間の中にいた。
そんなエモい気配は、ロータリーに現れた黒塗りの高級車によって、唐突にぶち壊された。
この街には似合わない、威圧感バリバリの高級セダンが滑り込んできて、目の前で止まった。
「お待たせいたしました。ノアお嬢様、お迎えに上がりました」
運転席から降りてきたのは、ビシッと隙のないスーツを着こなし、ロマンスグレーの銀髪をオールバックに整えたマスターだった。
隣には、この街の風景から明らかに浮いている、品格が漂う老夫婦が立っている。
「ノア……。よく来てくれたね」
老婦人が涙を浮かべて駆け寄ってきた。
僕が状況についていけず固まっていると、マスターがいつの間にか背後に回り、耳元でささやいた。
「九条が託した居場所だ。孫を事故で失った名士の老夫婦でな……ノアを家族として迎えると決めてくれた」
マスターの口調は、柔らかかった。
「彼らの埋まらない孤独と、ノアのこれからを繋いだんだ。これも、あいつが遺した日常の一部だ」
老夫婦は、壊れ物に触れる手つきで、そっとノアを抱きしめた。ノアは戸惑って、しばらく固まったままだ。
こういう抱きしめ方を、まだ身体が知らなかった。その温かな懐の中で、ふっと息ごと止まっている。
でも、うなずく僕とマスターを見て、全てを飲み込んだ。
「……よろしくお願いします。おじいちゃん、おばあちゃん。高校、ガチで疲れました。でも、楽しいですよ」
ノアにとっては、初めての家族との対面だった。九条さんが遺した、あまりにも優しい居場所の形でもあった。
そこに、腕を組みながら悠然と現れたのが、僕の母ちゃん――静江だ。
「はーい、全員集合!今日は、おじいちゃんおばあちゃんも一緒に焼肉よ!九条君の遺産、景気よく使わせてもらうわ!」
ロータリーの空気が、一瞬で静江の独壇場になった。
「九条さんの遺産……? なんなんだよ、それ」
冗談なのか本気なのか。この人の真意は、昔から僕にはまるで読めない。
「九条さん、あなたって人は……死んじゃった後まで、まだ何か残してるのかよ」
とにかく今は、静江の号令に従うしかない。
僕たちは、駅前のホログラム看板が白い日差しを反射する通りを、ぞろぞろ歩き出した。
列の真ん中で、ノアはちゃんと笑っていた。その笑顔で、今日はもう十分すぎるほど平和だった。
◇ ◇ ◇
この街で一番高い焼肉屋の座敷は、もはや戦場だった。
アツアツの網の上で、九条さんの遺産で買った特上カルビが、ジュージューと景気のいい音を立てている。
「ノアお姉ちゃん、違うって。カルビは何度もひっくり返さない。表面の肉汁が汗みたいに浮き上がってきた瞬間を狙うの。……ポリポリ」
凛はいつも通り大粒ラムネを噛み砕きつつ、トングを武器のごとく構えて熱弁していた。
「脳のギガバイト消費を埋めるには、この脂身の効率が最強。ほら、今! 育てた肉を回収!」
ノアは、しおらしい孫娘の仮面をさっさと脱ぎ捨て、ご飯を特盛りでかき込んでいた。
「ダン様! このカルビ、味覚中枢に直接来ます! 人間って、こんな鬼ヤバなもの毎日食べてるんですか? 贅沢すぎます!」
「高くて毎日なんて無理だよ。……あのさ、母ちゃん。九条さん、最後に僕に何て残したの?」
静江はビールを一気に飲み干して、プハーッと盛大に息を吐いた。それから、ふっと遊びの顔を消して、懐から一通の封筒を取り出した。
「九条君はね、自分が総理を裏切れば、ただでは済まないって分かってた」
封筒を指先で軽く叩いた。
「だから私に言ったのよ。自分が死んだあと、二人に本当の幸せを教えてやってくれってね」
静江が差し出したのは、九条さんの直筆メモだった。そこには、天才科学者の字とは思えない乱暴な文字で、こう記されていた。
『広瀬ダン。君の脳に保存されたノアのデータは、全てではない。残り――彼女の核心は、君が持っているあのクラウドUSBの中にある』
「……あのクラウドUSBって。まさか……タケルから預かった、『Dear My Dan』か!」
僕はポケットから、使い古された銀色のUSBを取り出した。
「九条君はね、ノアちゃんが育てたダンへの想いを、そのフォルダに逃がして残したの」
静江の語り口が、ちょっと柔らかくなる。
「万が一データが奪われても、そこは汚されないようにって。……ねえ、ノアちゃん。何が入ってるか、あなたには分かる?」
ノアが、ピタリと止まった。その沈黙が、不自然に長い。
僕の手のひらにあるUSBをじっと眺めて、ノアは大きく深呼吸した。それから、大切なものを見つけたように微笑む。
「……分かってます」
ノアは視線を落として、口元をやわらげた。
「私がアンドロイドだった頃、恥ずかしくて、バグだと思って、絶対に言えなかったログです」
そう言って、困らせる気まんまんで僕に向いた。
「……ダン様、今夜二人で開けますか? 私の心臓、爆発しても知りませんよ」
「開けようか、二人で……」
ノアは静かにうなずいた。その瞳には、揺るぎない覚悟が宿っている。
隣の席では、マスターに付き添われた老夫婦が、愛おしそうにノアを見守っていた。
九条さんが遺したのは、国家の進化じゃなかった。街の片隅で、誰かが誰かを想う、この不器用な繋がりそのものだ。
「よし、食うぞ、ノア。焦げる前に食おう! 明日は小テストなんだって?」
「小テスト? ダン様、そんな各停レベルの行事、楽勝です。満点取ってやりますよ!」
笑い声が、焼肉の煙と共に夜空へと昇っていく。
その時の僕は、まだ気づいていなかった。
USBの向こうに、僕たちの明日を根こそぎ変えるものが眠っていたことを。
まだ開かれていないファイルが、一つだけ残っていた。
その名前は――
『True_End_Voice.mp3』




