37th Broadcast Episode:ラストプロトコル(B)
「あぁぁぁっ……が、ぁぁッ……!」
ノアの絶叫が、病室の壁を揺らした。
人間に戻ったばかりの華奢な体は、脳を焼くような過剰電流に耐えられずに、ガクンと膝をついた。
ローズゴールドの瞳から、輝きが消えていく。せっかく芽生えた鼓動が、激しい不整脈を起こしている。
『プロトコル・ゼロ――対象者の脳幹を焼き切れ。隣の反逆者も消せ。AIが人間になった事実は、色々と不都合だ』
スピーカーから響く、総理大臣の指令。国家権力の悪意が電子の針となって、僕とノアを直接刺しに来ている。
『っ、ノアお姉ちゃんに行かせるかぁぁぁッ!!』
通信越しに、凛の雄たけびが飛び込んできた。
『五秒! いや十秒なら、私が止めるから、お兄ちゃん! ノアお姉ちゃんを助けて!!』
猛烈な速さで叩かれる、カチャカチャという打鍵音と、火花が散るような高負荷ノイズが響いてくる。
「……ダン……様……っ」
ノアが血色を失った唇を噛み締めながら、必死の形相で病室に設置されたメインタワーへ飛びついた。
超人的なAIの処理能力は、もうどこにもない。ただの少女だ。それでも、ノアは震える指先でキーボードを叩き始めた。
ダダダダダダダダダダダダッ!!
残像が見えるほどの、超速タイピングだった。AIだった頃の高度なロジックで、生身の手指の限界を突破する。
五年も眠っていた爪が割れ、指先の皮が擦りむける。でも、ノアは叩き続けた。白いキーボードが、じんわりと赤く染まっていく。
「凛様のガードの裏から……国家中枢へ、カウンターを打ち込みます……!」
ノアの声は、全身を走る激痛に押され、激しくかすれている。
「一箇所だけ……管理者用の緊急停止キーが隠されているはず……っ! それを打ち込めば……総理の権限を……強制遮断できます……!」
でも、画面を埋め尽くすのは、国家の防衛プログラムが吐き出す数十万行のコードの濁流だ。
「ハァ……ハァ……っ、数が……多すぎます……っ! どれが暗号キーか、検索が……間に合わな……っ!」
凛が張っていた防衛網が、一気に決壊する音がした。残された時間は、あと数秒。
「ノア、止まるな! 僕が見つける!」
僕は、血走った目でモニターをにらみつけた。こめかみの内側で、カチリ、と音がした。視界が、ぐにゃっと歪む。
欠陥だらけの不器用な脳が、極限の状況に反応して、時間を無理やり引き延ばす。ノアの手指が触れる空気の流れさえ、止まって見えた。
スローモーションの世界で、スクロールする緑色の暗号コードが、一文字ずつ網膜に焼き付いていく。
普通なら残像にしか見えないコードの濁流。
その数万行の底に――僕は見つけた。
IF (HOST == "DAN_HIROSE") THEN RETURN "HEART_NOT_FOUND_BUT_ALIVE"
// 解放キー:他人の痛みを吸い込む不完全な脳
九条さんが僕に託した、いびつな配列の一行を。
「……ノア!!」
スローモーションの画面を凝視したまま、僕は叫んだ。
「上から1464番、右の配列!! 九条さんが隠したキーは、そこだ!!」
「了解……っ!!」
ノアの赤く擦り剥けた指先が、力強くエンターキーを叩き落とした。
――ガキンッ!!
病室の全モニターが、一瞬で真っ白に染まった。ノアを焼き切ろうとしていた過剰電流が、嘘のように消える。
『な……なに……っ!?』
スピーカーの向こう側で、総理が明らかに狼狽していた。
次の瞬間、通信機から凛の歓声が炸裂した。
『やった……! やったよ!! 国家スパコンのルート、完全ロックアウト!! 逆ハッキング成功!!』
『ははっ……まったく、本当にお前たちは。……信じられないバグだ』
マスターの呆れたような笑いが重なる。
『バ……バカな……! 止めろ、今すぐ全回線を――』
狼狽する総理をよそに、モニターには九条さんの力強い言葉と告発映像が、二度と消せない真実として世界中へ広がり始めていた。
「はあぁぁ……っ」
極限まで張り詰めていたノアが、ふっと力を抜き、僕の胸へ倒れ込んできた。抱きしめた体は、驚くほど軽くて温かい。
その奥で、生きた人間の力強い鼓動が、トクン、トクンと刻まれていた。
「……やりましたね、ダン様」
血色の戻った顔で、不器用にくしゃっと笑った。
ふと気づくと、僕たちを囲んで停止していた九体の戦闘ノアが、一機も残らず無残に倒れ伏していた。
僕が驚きのあまり、抱きしめた両腕をノアから離した、その瞬間。
「……ぁ、……っ」
突然、ノアの口から、小さくかすれた悲鳴が漏れた。
その体が、不自然な力で後ろへと引きずられていく。
「勝った、と思ったか。ダン君」
心臓が冷水に浸されたように冷えた。
僕は、その声を知っている。
――雨宮だ。
その体には、軍用のパワードスーツが怪しげな光を放ってうごめいている。
ぐったりとしたノアの首を、その鉄の腕で乱暴に羽交い締めにした。白い肌に、シルバーブレードの鋭利な切っ先が押し当てられる。
「雨宮……お前、何をして……!」
「決まってるじゃないか。システムを、この街を狂わせるバグを根絶する」
その目は、完全に正気を失っていた。脳内直結のプラグからは、許容量を超えた過負荷の火花が散っている。
「国が諦めようが、九条特務官が裏切ろうが関係ない。私は、私の正義を執行する」
これは自爆覚悟に見える。自分ごと、ノアを、すべてを消し去るつもりだ。
ノアの生身の瞳が、恐怖で細かく揺れる。声にならない声で、僕の名前を呼ぼうとしていた。
ふざけるな。
ここまで来て、台無しにされてたまるか。
ドカンッ、と頭の中で激しい爆発が起きた。身体中の血が沸騰する。僕の特殊脳のスイッチが、限界を超えて引きちぎられた。
視界が一気に、人間離れした超高解像度のスローモーションへと切り替わる。脳メモリの過集中は臨界点を突破していた。
雨宮の指先の力、シルバーブレードの角度、ノアの呼吸の周期。そのすべてが、数式のごとく流れ込んでくる。
「そこだっ……!」
僕は砂利道を蹴り飛ばす勢いで、強く床を蹴った。時間の止まった世界を、弾丸のごとく突き進む。
雨宮がブレードに力を込めるより早く、視覚が弾き出した唯一の死角へと滑り込んだ。
パワードスーツの関節の繋ぎ目に、僕の拳を叩き込む。衝撃でひるんだ腕の隙間から、ノアの壊れそうな身体を抱き寄せた。
「な、に……っ!?」
雨宮は、視線も理解も追い付かない。直後に、世界の時間が再び動き出した。
ノアを抱えながら、床を勢いよく転がった。腕の中のノアは、息を殺して必死に僕の服をつかんでいる。
何とか奪い返した。なのに、事態は一ミリも好転していなかった。
雨宮のデジタル武装が、限界を迎えたアラートを鳴らす。赤黒い光が膨れ上がり、制御を失った自爆プログラムが周囲を焦がし始めた。
「終わりだ、ダン君。すべて灰にすれば、まやかしは消える……!」
突っ込んでくる雨宮を止める方法は、僕にも、ノアにも、もう残されていなかった。
ぎゅっと目を閉じた、その瞬間。
――ザザッ、ジジジジジジジッ。
スピーカーから、耳障りなノイズが轟いた。周辺のレシーバーも強制ジャックし、鼓膜へ直接流れ込んでくる。
直後、荒いノイズの向こうから、幼い少女の泣き声があふれ出した。
『……お母さん、うごいて……おねがい……』
『お兄ちゃん、ごめんなさい。わたし、さびしくないよ。だから、お兄ちゃん……泣かないで……』
雨宮の動きが、完全に凍りついた。膨れ上がっていた赤黒い光が、一瞬で散らばっていく。
幼い叫びが、雨宮を、固い壁に囲まれた自意識の最奥へと引きずり戻す。ずっと鍵をかけていた、錆びついた記憶の底へ。
『わたしのぶんまで、生きて……お兄ちゃん!』
雨宮の肩が大きく跳ね上がり、喉からひゅっと息が漏れた。
「……うそ、だ……」
それは、かつて心を病み、動かなくなった母親型の残骸を抱きしめて泣きじゃくっていた、少女のむき出しの感情。
九条さんが遺したもう一つのコアを、マスターが今この瞬間に機材へ繋いだことで、あふれ出したログだった。
止まらなかった狂気が、たった一言のバグで、完全に溶けていく。
「ハル、ちゃん……」
雨宮の口から、査定官ではない、情けないほどかすれた呼びかけが漏れた。
それは、彼が片時も忘れることのなかった、愛する妹の名前だった。
ガシャン、と重い金属音が響く。
軍用スーツがその機能を失い、床へ崩れ落ちた。ブレードが手元から滑り落ち、焦げたコンクリートに、乾いた音を立てて転がる。
雨宮は両手で顔を覆い、その場に膝をついた。
「ハル……ハル、ちゃん……っ、うっ、ううううっ……、あああッ……!」
もうそこには、バグを憎む冷徹な査定官はいない。
たった一人の妹を救えなかった後悔の想い。一人のお兄ちゃんが、子供のようにしゃくり上げて泣いていた。
僕とノアは、その姿を、ただ静かに見つめていた。
◇ ◇ ◇
ノアが放った九条さんの遺言コードは、プロトコル・ゼロを壊しただけじゃなかった。
永田町の腐った隠蔽体質まで、まとめて炙り出した。
国民を家畜にする計画を暴かれた総理大臣は、そのまま政治の表舞台から消えた。
今頃どこかで、独房の壁にでも効率論を説いているのかもしれない。
僕たちの街には、やかましい駅前のホログラム・カッパ像と、柳瀬川でのんびり泳ぐカモが戻ってきた。
九条さんの裏切りも、今では特務局の中で、未来を救った伝説として語られているらしい。
僕たちへの指名手配も、九条さんが遺した正当な捜査記録のおかげで、きっちり潔白が証明された。
国家反逆罪で人生終了かと思ったけど、今じゃ当局も『あのバカどもには関わるな』って感じで、完全に腫れ物扱いだ。
全ての肩書きを捨てた雨宮は、今頃、妹の墓前にでもいると思う。
一時はマジで殺されかけたけど、アイツもただの必死なお兄ちゃんだったんだから、お互い様だ。
そうして僕たちは、ようやく普通に息をしていい場所へ戻ってきた。
十分すぎる奇跡だった。
「……ふぅ。今日も平和すぎて、自虐ネタのキレが鈍りそうです」
事件から数週間後。
僕は柳瀬川の土手で、隣に座る少女にくぎ付けになっていた。百円のアイスを幸せそうに頬張っている。
冷たさに眉をしかめつつも、当たり棒が出るのを本気で祈る。そんな時間の無駄づかいが、今はちゃんとできる。
「あのさ、ノア。人間になってみて、どう?」
「そうですね……。まず、ダン様の靴下の匂いが、想定してたより三倍は鬼クサイことに驚きました。私の嗅覚細胞、何の罪ですかこれ?」
「そこ感動ポイントじゃない!」
「でも……」
ノアがアイスにかぶりつくのをやめて、僕をじっと眺めてきた。夕陽を映した瞳が、透明に揺れている。
そして僕の手を、おずおずと、それでもしっかり握ってきた。
「……手が、すごく熱いです。演算していた温度より、ずっと重くて」
自分でも戸惑いながら、息をつぐ。
「なんだか、心臓までバグったみたいに速くなってます。これ、故障じゃないですよね?」
ノアの顔が、わかりやすく赤くなっている。握り合った手のひらから、鼓動がまっすぐ伝わってきた。
僕は答える代わりに、自分の手首の脈のあたりを、指先でトントンと優しくなぞった。
「あ、それ。前からやってましたよね? 実はちょっとキモいと思ってました」
「うるさい。……ノアがいついなくなるか、不安だったんだよ」
吐き出した本音に、ノアが目をぱちくりさせている。
「置いていかれるのが怖くて、ずっと震えてた。だから、いつも音を確かめてたんだ」
ノアはふっと笑ってから、僕の不器用な指を包み込んで、ぎゅっと握り直した。
「もう、バカですね、ダン様は。……どこにも行きませんよ」
その表情には、どこまでも深い優しさが灯っている。僕の心拍数も、笑えるほど爆上がりしていた。
「うん。……今度いなくなったら、承知しないからな、バカ」
ノアは言葉を探して黙った。
「あー、バカって言いましたね?」
ちょっと唇を尖らせた。
「責任、取ってくださいよ。各停男のせいで、私の人生、予定外のノイズだらけなんですから」
そう言うと、僕の肩にコテッと頭を乗せた。ほのかな甘い匂い。さらりとした髪の感触。そして、昨日より重くなった手。
僕たちはこの湿っぽい風の中で、明日もまた、無駄だらけで愛おしい一日を生きていく。
「九条さん。マジで……ありがとうございました」
当然、返事なんて返ってこない。空の向こうで、あの偏屈な科学者が、また額にしわを寄せている気配がした。
『非効率だ』
そう吐き捨てても、どこか満足そうに笑っている顔まで浮かんだ。
空を見上げ、砂利道を歩き出す。隣には、口の悪いバグがいる。
僕たちの各停列車は、これからもゆっくり、この街を走っていく。次の停車駅なんて、決まってなくていい。
「さあ、帰るぞ、ノア。今日の夕飯、何がいい?」
「そうですね。ダン様の自虐ポエムをスパイスにした、鬼甘すぎカレーがいいです!」
「……やっぱ人間になっても、性格ひん曲がってるわ」
ノアは笑ったまま、ほんの一瞬、遠くの空に目をやった。
僕たちは笑いながら、夕暮れの道を歩いていく。
志木の空には、雲が少し赤すぎるくらいに染まって流れていた。




