36th Broadcast Episode:ラストプロトコル(A)
僕はノアの手を握っていた。
細くて、まだ少し頼りない指だった。それでも、握り返してくる力はたしかにあった。
血が巡っている。
脈がある。
生きている。
ついさっきまで、脳の中にいたノアが、今は隣で呼吸している。世界が止まってもいいと思った。
でも、止まらなかった。廊下の向こうから、地響きのような硬い靴の音が近づいてくる。
新たなデリーターズの増援部隊が、焼け焦げたドアから次々と雪崩れ込んできた。止まることのない殺意が、再び病室を支配する。
カチッ。カチッ。カチッ。
一斉に安全装置が外れる。その小さな音は、死神のささやきにしか聞こえなかった。
「目標、再捕捉。抹消指定個体および、反逆者、広瀬ダン。デリートせよ」
総理秘書官の、感情を削ぎ落とした命令が、黒焦げの室内に落ちた。
僕たちの周りには、満身創痍のまま盾となって起動停止した、九機のノアがそびえ立っている。
一歩も動かない彼女たちの隙間を縫って、無数の赤い照準が不気味に揺れていた。
マスターは、すでに僕を守って倒れている。
冬花先輩は、弾の切れた銃と、ひしゃげた鉄パイプを握りしめたまま、膝をついていた。
「終わりよ、ダン。……各停男の物語は、ここが終着駅ね」
そう言って、乾いた笑みを浮かべた。でも、その目はまだ死んでいない。
「冬花先輩。終着駅って、次の始発駅でもあるんですよ」
僕はベッドの前へ踏み出し、ノアを背にして前を向いた。
「九条が命懸けで渡してくれた切符、絶対に無駄にしない!」
たとえ一秒後にハチの巣にされても構わない。人間になったノアは、必ず僕が守る。
その時だった。
デリーターズの通信機から、耳障りなノイズが噴き出した。続いて、緊急指令が部屋じゅうへ流れる。
『全ユニットに告ぐ。九条特務官が死亡直前に発動した、最終秘匿プロトコル【リデンプション】を確認』
『国家サーバー最重要機密情報、流出。次の指示まで一切の行動、発砲を禁止』
『志木市内の全世帯、全スマートフォン、公共放送へ強制配信中』
「なっ、何だと……!?」
総理秘書官の顔色が、一瞬で血の気を失った。壁のテレビモニターが、砂嵐を力技で突き破る。
同じ映像が今この瞬間、どこかの食卓にも、駅前の大型ビジョンにも、誰かのひび割れたスマホにも流れている。
そこに映し出されたのは、生前の九条が、自室で録画したビデオログだった。
そうと分かった瞬間、背中に冷たいものが走る。九条は数秒、黙り込んでから、まっすぐ前を見た。
『……政府特務局特務官、九条です』
映像の中の九条は、いつもの冷徹な仮面を被っていなかった。穏やかで、人間臭い表情をしている。
『私は、内閣総理大臣の直属として、人の心を効率で支配する計画を進めてきました』
そこから先は、もう報告じゃなかった。自分自身をさらけ出す語り。
『ですが、志木という街で、私はある不条理に出会ったのです。各駅停車に揺られ、無駄な会話を楽しみ、不味いコーヒーに文句を言いながら笑う……』
画面の中の男が、黄金色の瞳をわずかにを細めた。
『非効率の塊としか言いようのない、愛すべき人々でした』
モニター越しに、その確信が染み渡る。
『総理。貴方は、心はノイズだと切り捨てた』
口調は静かだった。なのに、空間の温度が変わる。
『私は、この180日間、一人の少年と、一体のアンドロイドのバグを観測し続けて、確信しました』
そこで、はっきり言い切った。
『国家を支えるのは、論理ではありません。砂利道で泥にまみれ、それでも誰かの手を握ろうとする、不完全な心です』
時間が、ふいに止まった気がした。九条の言葉は穏やかなのに、その一言一言が胸の奥まったところへ入ってくる。
『私は今から、国家が最も隠したかった記録を開示します』
もはや、国家への告発だった。
九条の前に、二つの魂のコアが映し出される。
一つは、ノアのバックアップだった。
もう一つが目に入った途端、背骨が冷えた。
それは――
◇ ◇ ◇
『冬花さん。私は、君に謝らなければならない』
九条は数秒、黙った。
その沈黙が、かえって真っすぐに、深く突き刺さる。
『十年前。土砂崩れの事故で、まだ高校生だった君を庇って、救世主として死んだ――君が顔を知らない青年。彼こそが、すべての始まりだ』
冬花先輩の息が、ひゅっと止まった。一瞬で血の気が引き、幽霊でも見たかのように、画面に釘付けになる。
その震える手が、左肘に走るいびつな古い傷跡を、無意識にきつくつかんでいた。
『アンドロイドとしての彼は、プロジェクト最初の完成体だった。公には死んだはずのその体を、私はずっと脳死のまま隠し、大切に保存してきた』
映像の中の九条は、そこで視線を落とした。
『彼は今も、その病院の別室で君を待っている』
誰もすぐには動けなかった。病室の空気まで、いったん息を止める。
冬花先輩の指先から、力が抜けていく。握っていた銃も、鉄パイプも、鈍い音を立てて床へ落ちる。
その音を境に、彼女はその場へ崩れた。
「……嘘じゃ、ないの? まさか、彼が……」
床へ手をついたまま、冬花先輩がかすれた息で絞り出す。
「……私、十年……ずっと……」
その先は、言葉にならなかった。十年という時間が、喉で塊になって引っかかっている。肩が、細かく揺れていた。
「ぁ……、あ…………」
漏れたのは、泣き声ですらなかった。声になる手前で、何度も砕けた。
十年。街が変わっても、季節が何度巡っても。冬花先輩はたった一人で、動かない過去を抱え続けてきたんだ。
「っ、うそ……嘘……よ! なんなのよ! 九条ぉぉぉッ!!!」
床を叩き嗚咽を漏らし、抱え込んできたものをもう隠しきれずに、冬花先輩はその場で泣き崩れた。
閉じ込めてきた絶望と祈りが、ようやく人間の涙になってあふれ出していた。
モニターの中の九条に、冬花先輩の叫びが届くはずもない。なのに、まるでそこにいるかのように、こっちを見据えていた。
『マスター』
九条の呼びかけに、血を吐いていたマスターの肩がかすかに動いた。
『彼の保存区画は、第三隔離病棟にある。起動権限も、還元コードも、すべてそこへ残した』
モニターの右下に、別室の監視映像が小さく割り込んだ。
白いシーツの上で、若い男が眠っている。ただ眠っているとしか思えない、その胸元で、青い認証光がかすかに点滅した。
『あとは、あなたに任せる。彼を、彼女の時間へ返してやってくれ』
起伏がない調子で言った。それでも、その落ち着きの底に、残酷なほどの優しさが見える。
『私は、研究者としては失格だろう』
そう言って、短く呼吸を整えた。
『だが、一人の人間としては……この選択を後悔していない』
九条……いや、九条さん。あなたって人は……。
たった一人で、二つぶんの想いを抱え込んで、最後は自分の命で国家に穴を開けたのか。
「ふざけるなッ!データの断片に何ができる!撃て!街ごと、全てを焼き尽くせッ!!」
モニターの中の男をにらみつけ、総理秘書官が雄たけびを上げた。
再びデリーターズの指が引き金にかかる。周りの気配が急に張りつめた、その時。
「……うるさい、です……」
僕の隣で、少女がかすれた息でぽつりと言った。
大きな瞳の向こう側に、ローズゴールドの光が静かに灯っている。あの、あたたかくて、どこか生意気な色。
灰になったアンドロイドでも、記憶の抜けた器でもない。
そこにいたのは、口が悪くて、自虐ばっかりで、それでもどうしても嫌いになれない、僕の知ってるノアだった。
「ノア……!マジで、戻ってきたんだな……ッ!」
僕の目から、情けないくらい一気に涙があふれ出した。
ノアは少し乱れた髪で、僕を見上げた。
まだ重そうな瞼。でも、その奥には、いたずらが成功した子どもの得意げな輝きがある。
「……キモい、です……」
ノアは、わずかに口元を緩めた。
「……最初が、これ……とか……バグ確です……」
ああ、間違いない。口を開けば、すぐこれだ。僕の知ってる、最高に性格のひん曲がったノアだ。
「何をしている! 早くそのバグを始末しろッ!」
秘書官が絶叫し、兵士たちの銃口が再び火を噴こうとした瞬間。
ノアが、ベッド横のモニターパネルを、五年間眠っていたとは思えない速さで叩いた。
「……九条様、やっぱり……天才です……」
その指が、まだ震えたままでも迷わず走る。
「……鍵……ありました……。この病院の、全セキュリティ……私の中です……」
ノアが画面をパチッと叩いた途端。
ガガガガッ!と重低音が鳴り、天井から巨大な防火シャッターが落下してデリーターズを分断した。
さらに全スプリンクラーが一斉に噴き上がり、廊下は数秒で白い水煙に飲まれた。
「……冬花様……今、です……」
息を乱しながら告げた。
「……奥へ……。そこに……彼が、います……」
冬花先輩は、ノアに振り返った。その目に浮かんでいるのは、研究者の驚きじゃない。奇跡を見届けた人間の、あたたかい涙。
「……っ、ありがとう、ノア! ダン、いい? 死んだら絶対許さないからッ!!」
その表面は泣いていたのに、背中はもう前を向いていた。バールを握り直し、マスターを肩に支えて、開いた最短ルートへ駆けていった。
「……ダン、様」
ノアが僕の胸ぐらをぐいっと引き寄せた。
「……人間に、なれたんです。あいつらに……一発、返しますよ」
鼻先が触れそうな距離で、やわらかな甘い匂いと、生きた鼓動が真っすぐ伝わってくる。
そのぬくもりに、ようやく追いついたと思った矢先だった。天井のスピーカーから、骨の軋むような不快な音が響く。
『不愉快だな。九条も、愚民どもも』
その一言で、部屋の温度がすっと冷えた。
『効率こそが正義だ。心などというノイズは、我が国家の進化には不要である』
内閣総理大臣だった。
『プロトコル・ゼロを起動――対象の脳へ、電流を直接打ち込め。AIが人間になると、国際的にもまずい。隣の反逆者も確実に消せ』
この国の最高権力者が、ノアと僕の抹殺指令を出した。その口調は低く、一切の起伏はない。
通信越しに、マスターの震える絶句が届いた。
『……まずいぞ、ダン。プロトコル・ゼロは――』
ブツッ、と音声が途切れた。
『お兄ちゃん、逃げて!!』
凛の金切り声が重なった。
『国家中枢のスパコンが、二人に直接アクセスしようと動いてる! もう撤退! ……ピンポイントで、殺しに来てるからッ!!』
「あ……がっ……!?」
直後、ノアが悲痛な叫びを上げて胸を押さえ、崩れ落ちた。
黄金の瞳から、光が急速に失われていく。生きた鼓動が、激しい不整脈を起こして暴れていた。
『ふん。二人が消えた後、特区ごと静かにデリートしておけ』
絶望の宣告が、白煙の広がる部屋に冷たく響いていた。




